第17話

 肩を跳ねさせた絃一郎に、少し息を切らした永海は「ごめん」と小さく謝って、持っていた紙束を半分手渡す。


「楽譜借りてきた」

「あ、ありがとうございます……」


 受け取った絃一郎は、恐る恐る楽譜に目を落とした。


 一番上に書かれていたのは、『日脚伸ひあしのぶ』の文字。


 あの不気味な影が歌ってほしいと言った曲だからと身構えていたのだが、渡されたのは至って普通の楽譜だった。


 楽譜は全部で四枚あり、ソプラノと書かれた歌唱パートの音符や歌詞、それに従うように書かれた伴奏パートの五線譜などが記されている。随分ずいぶん年季が入っているようで、印刷は所々かすれていた。


 黄ばんだコピー用紙からは、不思議とコーヒーの匂いがほんのり香ってくる。


 その匂いのおかげか、はたまた永海が戻ってきてくれたおかげか、少しだけ落ち着きを取り戻した絃一郎は小さく息を吐いて顔を上げる。


 練習室の中央では、そこに置かれた譜面台の前に立った永海が、真剣な表情で楽譜に目を通していた。初めて見るその姿に、まさかと思った絃一郎は、おずおずとたずねる。


「永海先輩、この曲、歌ったことは……?」

「無いよ。けど、まぁ、大丈夫」


 楽譜から視線を外すことなく、あっけらかんと言う永海。


 やはり見たことのない楽譜らしい。その割には平然としていて、歌うことに迷いがないように見えるのだが。本当に大丈夫なのだろうか。


 しばらくして、目を通し終えたらしい永海が譜面台の上に楽譜を並べ、椅子に座ったままの絃一郎へ声をかける。


「寺方くん、Asアスの音もらえる?」

「……あすの音?」

「ラのフラットのこと。ラの半音下の黒鍵を弾いてほしい」

「わ、分かりました」


 言われるがまま、絃一郎は立ち上がってピアノの前へと向かった。


 そこに椅子はあったが座る気にはなれず、横から腕を伸ばすようにして立ったまま鍵盤を押す。


 えぇと、確か、ラの下の黒鍵だったっけ。



 ♪……



 ポーン、と素朴そぼくで軽やかな音が鳴る。


 すると、小さく口を開けた永海が、その音を確かめるように全く同じ高さの声を出した。鼻から出ているらしい、「ん」とも「あ」ともつかない言葉の無い音だ。


 やがて、永海の声が消え、長く伸びていたピアノの音も消え。そこでようやく、絃一郎は押しっぱなしだった指を鍵盤から離す。


 と同時に、永海が深く息を吸った。



 ♪雪踏みしめる 深山路みやまじ

  すさぶ風 身にみるとも



 ゆったりとしたテンポで歌われる、雄大なメロディ。

 一つの音が口から出ると、音程を変えながらたっぷり長く伸びた後、次の音へと移り変わっていく。その伸びやかでつやのあるロングトーンは、どこか寂しく、物悲しい響きをしていた。

 永海の高くくもりの無い声は、冬の情景を歌った言葉のせいか、冷たさと鋭さを持って胸を震わせてくる。


 今まで感じていた恐ろしさも忘れ、絃一郎は永海の歌に聞き入った。


 胸に手を当てて歌う永海の立ち姿は、いつもと何一つ変わらない。これが初めて歌う曲だなんて、到底思えない。


 ただ、普段は閉じていることが多い目だけは、譜面台の上の楽譜にしっかりと向けられている。


 伏せられた瞳は、不思議なことに、絃一郎の目には深い青色に見えた。冬の冷たい海を思わせる、底の見えないような暗さの青。


 その神秘的な色から、目が離せなくなっていると。



 ♪~……



 突然、ピアノの音色が聞こえた。


 永海の歌に合わせられた、重々しい和音。低く暗い響きのある音色は、一音一音雪の上を踏みしめているようで、歌の持つ北風のような冷たさを一層際立たせていた。


 綺麗に重なり合った二つの音を聞いて、絃一郎はすぐに理解する。


 これは、『日脚伸ぶ』の伴奏だ。


 途端、ギョッとして視線を向ける。


 目の前にある、誰も座っていないピアノ。


 その鍵盤が動いていた。見えない指に押されるように、鍵盤がひとりでに伴奏を奏でている。


「っ……?!」


 信じられない光景に、声にならない悲鳴を上げて飛び退く絃一郎。そうして背中が壁についた時、ピアノの前にフッと影が浮かび上がる。


 椅子に座った、背の高い黒い人影。

 鍵盤を押す、黒くて長い指。


 ――あの影が、伴奏を弾いているのか。


 そう思った直後、影の指先から黒色が剥がれ落ちた。


 いや、違う。


 力強く動く手は、次第に肌色になって。揺れる袖口は、見慣れたものとは少し違う制服のブレザーになって。ペダルを踏む足元は、赤色のラインが入った上履きになって。


 絃一郎の眼前では、色を取り戻した影が――見知らぬ男子生徒が、一心不乱にピアノを弾いていた。



 ♪未だ薄れぬ ならば

  我が行く道も ぶるなり



 永海は、こちらに視線を向けることなく、ひたすら歌い続けている。


 絃一郎からは、男子生徒の背中しか見えない。それでも頭を振り、体を揺らし、思いを全身に込めてピアノを弾く姿は、とても嬉しそうに見えた。まるで「念願叶った」と言わんばかりに。


 そうして歌が終わり、伴奏の最後の一音が消える。


 と同時に、男子生徒もまた煙のようにスッと姿を消した。


 シンと静まり返る練習室。


 あまりの出来事に、絃一郎が呆然としていたまま口をポカンと開けていると、目を丸くした永海が信じられないような口振りで言う。


「今の伴奏、寺方くんじゃないよね?」

「ま、まさか」


 慌てて首を横に振ると、永海は「だよね」とうなずいた。それから、右手をあごに当てて考え込むようにうつむいてしまう。


 ど、どうしよう。


 忘れていた恐ろしさがよみがえってきて、絃一郎は身震いした。


 今起きたことを、どう説明したらいいのだろう。『日脚伸ぶ』という曲を歌うよう幽霊が頼んできた? その幽霊が、歌に合わせて伴奏を弾いていた?


 どう話すにせよ、「永海の歌を聞くと幽霊が見えるのだ」と打ち明けることは避けられない。打ち明けてしまえば――。あぁ、まだ心の準備も出来ていないのに!


 そうして絃一郎が言いよどんでいると、永海が譜面台の前から離れた。そして、練習室の隅で縮こまっている絃一郎の前までやってくると、小さく首をかしげてその顔をじっと覗き込む。


 視線がぶつかり、らせなくなる。


 間近で見た永海の瞳は、いつの間にか見慣れた色に戻っていた。青みがかった黒色の、引き込まれてしまいそうな瞳。


 すると、永海がどこか確信したように言う。


「……もしかして、僕に見えない誰かが弾いてたの?」

「えっ」


 心臓を鷲掴わしづかみにされたような心地がした。


「寺方くん、年末、商店街に行った時も見えてたよね?」

「……」


 変わらぬ口調で永海が続ける。


 絃一郎は、うなずくことすら出来なかった。


 胸の内では心臓の音が永海に聞こえてしまいそうなくらいドクドクと鳴っているのに、体からはすっかり血の気が引いてしまっていて指先一つ動かせない。


 そんな絃一郎を見てどう思ったのか、永海が小さな苦い笑いをらす。それから、自身の目線より高い位置にある頭へ、右手を伸ばして。


「あの時の君も、なかなかひどい顔をしてたけど。今の君は、もっとひどい顔をしてるから」


 ポン、ポン、と優しく二回。永海の手に頭をでられる感覚がして、絃一郎は反射的に目をつむる。


 その手が離れていき、恐る恐る瞼を持ち上げる。すると、永海はどこか困ったような笑みを浮かべていた。


「もしかして、君は、僕の目には見えないものが――『この世に存在しないもの』が見えるの?」


 歌声よりもずっと小さく細く、だが真っ直ぐな声。どこにも疑いの色が無い、確かめるような口調。


 あぁ、この人は、そこまで気付いていたのか。


 そう思った途端、絃一郎の中でようやく決心がついた。

 恐ろしさに締め付けられた胸は相変わらず痛みを訴えていたが、優しい手のひらを裏切るようなことを隠したままでいる罪悪感が、このまま口を閉じていることを許さなかった。


 ごく、とつばを飲み込む。そうして、カラカラに乾いて喉に貼り付いてしまった舌を動くようにしてから、震えるくちびるを開く。


「い、いえ、見えません。普段は何も」

「普段は?」

「えぇと、その……俺にも、何でかは分からないんですけど」


 一度言葉を切り、大きく息を吐いて呼吸を整える。自身の心音がますます早く大きくなっていくのを感じながら、絃一郎は意を決して言う。


「永海先輩の歌を聞くと、見えるみたいなんです」

「……え?」


 それから絃一郎は、逃げるように視線を床へ落としながら、永海に全てを話した。


 六歳の夏、千尋という幽霊に出会い箏を習ったこと。以来姿を消した彼女にもう一度会いたいと強く願っていること。

 そして、永海の歌を聞くと幽霊が見えることに気付き、その千尋という幽霊に会いたいがために伴奏を引き受けたこと。


 口から言葉が出る度、絃一郎の胸の内からは、今まで押し殺してきた感情をドロドロに煮詰めたような熱いものが込み上げてくる。あまりの熱さに時折言葉を詰まらせながら、どうにか話し終える頃には、絃一郎の声は今にも消え入りそうになってしまっていた。


「本当すみません、俺、こんな……永海先輩はすごく優しくしてくれるのに、それに、期待だってされてるのに……」


 あふれてきた後ろ暗い感情のせいでぐちゃぐちゃになった思考のまま、それをちゃんと言葉に出来ているかも分からないまま、絃一郎はほとんど項垂うなだれるように頭を下げる。


 すると、絃一郎の話をずっと黙って聞いていた永海が、そこでようやく「そう」とだけ言った。


 その声色は肯定でも否定でもない、ひどく曖昧あいまいなものだった。


 途端、絃一郎の頭の中に不安が駆けめぐる。


 ――あぁ、きっと「一緒に歌いたくない」と言われてしまうのだろう。


 しばしの沈黙の後、小さなジャージの衣擦れの音がして。


「じゃあ、僕も手伝おうか。寺方くんの幽霊探し」


 ポツリ、と永海がつぶやいた。

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