プロローグ 後

 縁側にいる自分を見つけるやいなや、祖母は眉を吊り上げた。


「お、お前ッ! どこでそれを?!」


 見たこともない激しい剣幕で怒鳴る祖母。その恐ろしさにすくんでしまって、咄嗟に言葉が出てこない。


 どうしてそんなに怒っているのだろう。何か大きな失敗をしてしまったのか、と心底怖かったが、とにかく悪いことは何もしていないのだと証明したい一心で答える。


「ち、千尋先生が教えてくれたんだ!」

「千尋……?」


 ほら、と言わんばかりに箏を鳴らしてみせると、祖母が顔をしかめる。


 するとそこへ、叔父が遅れて戻ってきた。話は聞こえていたようで、首の後ろをしきりにでながら、不思議そうに縁側に置かれた箏をながめている。


「千尋っつったって、ウチにそんな名前の先生いたかぁ?」

「いるよ! 僕に箏を教えてくれてね、さっきの曲も――」


 途端、その言葉をさえぎって祖母がピシャリと言った。


「嘘おっしゃい。千尋なんて人はいません」

「えっ、ウ、ウソじゃないよ?!」

「夏休みの間、我が家にいたのは絃一郎と私だけだったでしょう?」

「そ、そうだけど! いたの! あっちの奥の部屋に!」


 言うが早いか、立ち上がって脇目も振らずに走った。


 目指すのは、縁側の一番奥の突き当たり。ピッタリと障子の閉じられた部屋。初めて箏の音色を聞いた日から何度も通った、千尋の部屋だ。


 そこまで辿り着くと、いつもと変わらず閉じている障子を、いつもより乱暴に思い切り横へ開く。


 だが。


「あ、あれ……?」

「……誰もいねぇな?」


 背後から聞こえた声に振り返って、後を追ってきていた叔父と顔を見合わせる。


 部屋には誰もいなかった。ただ畳が広がっているだけで、箏の一つすらない。

 思えば、ここまでの道中、いつも鳴っていた箏の音色が聞こえなかった。


 吹き出した嫌な汗に、反射的に胸元の服をギュッと握る。呆然としたまま一歩、二歩と畳を踏んだところで動けなくなる。


 どうして。千尋がいない日なんてなかったのに。この部屋に来れば会えると思っていたのに。


 そこで、やってきた祖母が刺すように言った。


「ほら見なさい。いないじゃないの」

「で、でも……!」

「はっはっは、げんちゃん、さては幽霊でも見たんじゃねぇの?」

「ほ、本当にいたんだってば!」


 腕を組んでこちらをにらむ祖母。茶化すように笑い飛ばす叔父。


 そんな二人に信じてもらいたくて、必死に千尋のことを話していると、騒ぎを聞きつけた親戚達が集まってきた。何事かと目を丸くする大人達の足元に走っていって、その膝にすがりつくように訴える。


 ここで千尋に出会ったこと。何日もここに通って、箏を教えてもらったこと。

 言葉だけでは足りず、箏の置いてある縁側に行ってそれを鳴らして見せもした。


 なのに。


「何を馬鹿なことを言っているんだ」

「実はこっそりおばあちゃんが教えてたとか?」


 そう言って、相手にもされずに笑われて。


「幽霊に箏を教わったんじゃないかって」

「やぁねぇ、幽霊なんている訳がないのに……」


 そう言って、気味の悪いものを見るような視線を向けられて。


 誰も、信じてくれなくて。


 箏が好きだという気持ちも、千尋の存在も、彼女との思い出も、何もかもを否定されているような心地だった。


 腹の底から何かが込み上げてきて、胃がギュッと押しつぶされてしまいそうになる。悲しさなのか、悔しさなのかは分からない。ただ、その冷たくて刺々しい感情をあふれるままにわめき散らしながら、精一杯に声を張り上げる。


「本当だよ! 千尋先生が教えてくれたの!」


 直後、祖母の手が優しく肩の上に乗った。



「忘れなさい」



 ハッと顔を上げると、胸の内を隠したような感情の無い顔の祖母がこちらを見ていた。


「これから絃一郎には私が箏を教えます。今までのことは全て忘れなさい」


 その抑揚よくようの無い声に、頭を殴られたみたいだった。


 あぁ、きっと何を言っても無駄なんだ。


 言いたいことはまだ沢山あったはずのに、そう思った途端に何も言葉が出てこなくなる。呼吸が止まりそうなほど胸が苦しくなって、きっと喉に詰まった言葉達が首を締めているんだろうな、と奥歯を噛みながら思った。


 そうして何も言い返せないでいると、これで話は終わりだと言うかのように「ほらほら、仕事に戻りますよ」と祖母が手を叩く。


 バラバラと去って行く親戚達の背中を見た自分は、返事もせず、その場から一目散に逃げ出した。




 その日の夜。

 ふと目が覚めると、どこか遠くから聞き覚えのある音が聞こえてくる。



 ――シャン、シャン、テン。



 気が付いた瞬間、布団代わりの薄いタオルケットを蹴飛ばした。


 千尋先生だ!


 慌てて寝室を抜け出して、真っ暗な縁側を進む。寝静まった祖母の家に明かりは無く、辺りはよく見えなかったが、千尋の部屋までの道のりは足が覚えていた。


 縁側の突き当たりが見えるところまで来た時、スゥッと光の糸が垂れるように明るくなる。今まで雲に隠れていた月の明かりが家の中へ差し込んできたのだ。


 途端、あっと息をんだ。


 千尋の部屋の障子が開け放たれているではないか。


 昼間見た光景が頭をぎって、たじろいだ足が止まる。

 いや、大丈夫だ。今は箏の音色がハッキリと聞こえているじゃないか。そう自分に言い聞かせながら、恐る恐る部屋の中を覗く。


 そこにいたのは、こちらに背を向け、箏の前で正座する藤色の着物。


 軽やかに糸を弾く右手。


 時折糸を押す左手。


 それに合わせて揺れる袖と、長く艶やかな黒髪。


 千尋は何も変わらず、そこで箏を弾いていた。


「千尋先生……?」


 内心ホッと胸を撫で下ろしながら、そう小さく声をかける。すると、箏の音が止まり、手を膝の上に乗せた千尋がゆっくりと振り返る。


「良かった、来てくれたのね」


 そうして目が合った時、ドッと心臓が跳ねた。

 誰もいないこの部屋を見た時と同じ、冷たくて嫌な汗が背中を流れていく。


 月明かりの届かない部屋の中で微笑む千尋の顔は、見たこともないほど寂しげで、今にも消えてしまいそうだった。


 いや、違う。


 千尋に隠れて見えないはずの畳のへりが、ふすまに書かれた花が、どういう訳か見えている。


 千尋の藤色の袖が、長い黒髪が、薄く透けて見える。



 ――千尋は、本当に消えているのだ!



「千尋先生、いなくなっちゃうの?」

「……」


 震える声で尋ねると、千尋は何も言わずに小さくうなずいた。


 途端、胸が大きく張り裂けて、その傷口から出た血のように涙が込み上げてきた。

 居ても立ってもいられず、千尋の元へと駆け寄る。触れた膝の上には、着物の感触も肌の温度もまだちゃんとあって、堪らず箏爪をつけたままの右手をギュッと握ってしまう。


「どうして? どうして消えちゃうの? もう会えない? ぼ、僕、何か悪いことした? 僕が、みんなに信じてもらえなかったせい?」

「いいえ、違うの、違うのよ。貴方はなんにも悪くないの……私が、貴方に教えてしまったから」

「でも、もう会えないなんてやだよぉ!」


 ただひたすら「どうして」と「やだ」を繰り返して、千尋の膝の上で肩を丸めて泣きじゃくる。そんな小さくて、無力で、しゃくり上げる度に震える背中を、千尋は左手で優しく撫でてくれた。


 ふと、その手が離れると。


「どうか、お願い」


 そう言って、千尋が右手に付けていた箏爪を外し、涙で濡れた小さな手のひらにそれを握らせる。


 自分の手の中に飛び込んできた、硬い箏爪の感触。理由も分からぬまま、だがとても大切なものを渡されたような気がして、その硬い感触をギュッと握り込む。


 すると、千尋の細い腕が背中に回されて、そっと抱き締められた。


「――を忘れないで。どうか弾き続けて。貴方が箏を弾き続ける限り、私は貴方の側にいるわ」


 どこかうるんだ声で千尋が言う。

 その言葉にハッとして顔を上げると、目の端に大きな雫を溜めた千尋の笑顔があった。


「うん、僕、ずっと弾くよ……! そしたらまた会えるんだよね?」

「えぇ、えぇ、きっとまた」


 交わされた約束に喜々として尋ねると、何度も何度もうなずく千尋。

 それでも止まらない涙をぬぐうように、千尋は背中をトントンと撫で続けてくれていた。




 ……結局、それが千尋を見た最後の日になった。


 あれから夏が来る度、彼女に会えると信じて祖母の家を探し回った。だが、手掛かり一つ見つけることは出来ず、次第に話題を口にすることすらも無くなって。


 いつしか、彼女は「幽霊」だったのだと諦めてしまったけれど。


 それでも、あの夜の約束を、自分は今でも守り続けている。

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