第一章 ゆりかごのうた

第1話

 ――クッ、ドサッ。ザクッ、ドサッ。


 ぼんやりとした意識の中、どこからか聞き慣れない音がする。


 途端、寺方てらかた絃一郎げんいちろうは飛び起きた。


 夜に冷やされた部屋の空気に触れるのも構わず、思い切り布団を蹴る。その勢いのまま遮光カーテンの引かれたき出し窓へと駆け寄ると、それを思い切り横へ払いけた。


「……うわぁっ!」


 まだ薄暗い朝の街は、一面真っ白だった。


 通りにあったはずのアスファルト色も、生け垣の枯れ木色も、道沿いに続く住宅街の屋根も。街はどこもかしこも白におおわれていた。どんよりとした分厚い雲に覆われた灰色の空ですら、何だか白っぽく見える。


 だが、そんな重苦しい景色とは裏腹に、心は軽やかに踊っていた。四月から毎朝見てきた窓の外がこうも一変していると、ついワクワクしてしまう。


 足元に冷気を感じて、思わずぶるりと身震いをする。

 窓の外に向けた目を細めながら、絃一郎は肩をすばめて手をこすり合わせた。


 まさかここまで積もるとは。昨日の天気予報で「二九日の明け方から冷え込んで雪が降り、帰省ラッシュに影響が出るでしょう」と言っていたから、どれだけ積もるか楽しみにしていたのだが、想像以上だ。


 そんな予報通りの白い景色の中に、忙しなく動く青色が一つ。


 ザクッ、ドサッ。ザクッ、ドサッ。


 絃一郎を目覚めさせたその音は、青色の振るうスコップに合わせて鳴っていた。


 窓の下、玄関ポーチの横に設けられた駐車場で、せっせと雪かきに勤しむ青色のダウンジャケット。寮父りょうふさんかな。それとも先輩かも。誰かは分からないが、おほり荘で暮らしている人に違いない。


 雪かきは始まったばかりらしく、地面のアスファルトが見えるのは車一台分ほど。駐車場には、降り積もった雪がまだまだ残っていた。


 ――手伝わなくちゃ!


 そう思った絃一郎は、寝癖のついた頭を撫でつけながら、いそいそと洗面所へと向かった。




 おほり荘は、T県堀舟ほりふな市にある小さな学生アパートだ。


 暮らしている生徒達が通うのは、堀舟高等学校。通称「舟高ふなこう」。アパートから徒歩二〇分の高台にある、音楽活動が盛んなことで知られる高校である。


 その特色は、文化祭などの行事や校舎の設備にも表れているが、特に顕著けんちょなのが部活動だった。吹奏楽部、軽音楽部、声楽部は地方大会の常連。また、箏曲そうきょく部、作曲部、音楽史研究会など、一般的な高校には無い音楽に関わる部活動も存在する。


 そのため、遠方から入学する生徒も少なくなく、学校近くのいくつかのアパートが下宿先となっていた。


 おほり荘も、そのうちの一つ。

 築一四年二階建ての小さな建物だが、大家兼寮父母りょうふぼである上田うえだ夫妻が近くに住み学生達の世話をあれこれと焼いてくれているので、人との距離が近い温かな雰囲気のあるアパートだった。


 今年の四月からここで暮らしている絃一郎も、例にれず、遠方から堀舟高校へ進学した生徒だ。


 この街に引っ越してきてから、早九ヶ月。

 絃一郎にとって、初めて見る雪景色。初めての年越しだった。




 重い玄関扉を開けて外に出ると、身を裂くほど冷たい風が耳のふちを掠めていった。マフラーも手袋も着けて、ベージュのダッフルコートの下にたっぷり着込んでいても、服を貫通してくる寒さはこたえる。


 不意に、楽しげな鼻歌が聞こえた。

 高く、澄んだ声。だが細くなく、芯の通った伸びやかな歌声だった。


 それを聞いた絃一郎は、雪かきをしていたのは女性だったのか、と思った。となれば、寮母りょうぼ礼子れいこだろう。おほり荘に住んでいるのは男子生徒だけだ。それに、窓から見た時の背格好も女性と思える小柄なものだった。


 足を滑らせないよう慎重に玄関ポーチを出て、青色のダウンジャケットを着たその人へ声をかける。


「すみません、雪かきお任せしちゃって――」


 途端、振るわれていたスコップが止まり、鼻歌も止む。

 そうして、がこちらを向いてから、絃一郎はようやく自分の間違いに気が付いた。


 ――違う。礼子さんじゃない!


 だが絃一郎には、それが誰なのか分からなかった。


 顔を見ようにも、首に巻かれたマフラーで口元は隠れていて、深々と被った白いニット帽で髪もほとんど見えない。はっきりと見えるのは、少しだけ右目にかかった黒い前髪と寒さで赤くなった頬、そして目元だけだ。


 たったそれだけでも、知っている人ではないな、と確信する。


 こんな目は、今まで一度も見たことが無い。


 切れ長の目尻。黒々とした瞳。どこか青みがかっているようにも見える黒だ。その不思議な色は、まるで深海のようだった。暗くて、冷たくて、それでいて神秘的な。じっと見つめられると、瞳の奥へ引きずり込まれてしまいそうだ。


「……」

「……」


 視線がぶつかって、数秒。


 呆気に取られて言葉が出てこなかった。礼子ではなかったという驚き。この人が誰なのかという疑問。それだけでもう頭がいっぱいなのに、彼の不思議な瞳を見ると、我を忘れて何も考えられなくなってしまう。


 そうして絃一郎が何も言えないでいると、彼は小首をかしげて言った。


「……手伝ってくれるの?」

「え……あ、はい」


 歌声よりもずっと小さな、細くてかすれ気味の男の声だった。

 我に返った絃一郎が咄嗟とっさにうなずく。すると、驚いた様子もなく淡々と「そう」の一言だけが返ってくる。


「こっちまでは済んでる。雪かきのスコップはあっちの奥の物置から借りられるから、自分で取ってきて」

「わ、分かりました!」


 こっち、あっち、と指を差す男に言われるがまま、絃一郎は駆け出した。


 膝下まで積もった雪には、彼が残したであろう足跡が点々と続いている。それを辿って進んで行くと、アパートの裏手にある物置を見つけることが出来た。中を覗いて除雪用のスコップを一本借り、今来た足跡の道を戻る。


 その道中、ふと思い至った。


 ――あの人、もしかして永海ながみ先輩では?


 まず、駐車場の雪かきをしているのだから、おほり荘に住んでいる男子生徒、それも先輩であることは間違いないだろう。流石に同級生の顔は分かる。


 となれば、四月、入居したての頃に行われた歓迎会で自己紹介してもらっているはず。なのだが、あれからもう九ヶ月である。アパートで顔を合わせることもなく、学校で関わる機会もないとなると、はっきりと思い出せない顔がいくつかあった。


 正直なところ、永海の顔もその一つだ。


 それでも、あの自己紹介でハッキリと覚えていることがある。


「こいつ、『舟高のセイレーン』って呼ばれてるんだぜ」


 そう冗談めかしく言って永海を指差していたのは、誰だっただろうか。


 セイレーンといえば、美しい歌声で船員を惑わせ船を難破させる、恐ろしい海の怪物だ。

 何でそんな物騒なあだ名が、と驚いた絃一郎だったが、その理由は拍子抜けしてしまうものだった。「女の声だと思ったら、声の高い男が歌っているんだぜ。惑わされた気分になるだろ?」という周りの勘違いだったのである。


 そんな話が記憶に残っているのは、印象的なあだ名のせいも勿論あるが、以降も事あるごとに名前と噂を聞いたからだろう。


 音楽棟にある第二音楽室の前を通った時に。あるいは、文化祭での声楽部のステージで。


「ねぇ、今歌ってるのって誰? 高くて上手いし、すっごいイケメンじゃない?!」

「あれって確か、二年の永海だよね? 何か変なあだ名で呼ばれてる……」

「そうそう! 魔性の声を持つ『舟高のセイレーン』!」


 そう声を潜めて話しながら永海を見ていたのは、どんな人達だっただろうか。


 そんな噂話を、絃一郎はどこか御伽話おとぎばなしのようだと思っていた。天から二物も三物も与えられ、それに相応しい人生を送る、夢物語の主人公のような存在。自分と関わることなど無い、遠い世界の存在。そう思っていた。


 思っていたのに――今出会ったあの人は、「舟高のセイレーン」ではなかったか?


 玄関ポーチを出て彼の鼻歌を聞いた時、確かに女性の歌声だと思った。雪かきしているのは礼子だと勘違いした。だが実際は、おほり荘で暮らしている男子生徒だった。


 つまり、自分もまた、惑わされたということでは――。


「……物置の場所、すぐ分かった?」


 先ほど聞いたばかりの声がして、ハッと顔を上げる。

 どうやら、あれこれと考えている間に、駐車場へ戻ってきていたらしい。


「は、はい。足跡があったので」

「そう。良かった」


 絃一郎の手にスコップが握られているのを見ると、彼はさっさと雪かきに戻っていった。態度は素っ気ないものの、相変わらず鼻歌交じりである。


 その姿を見て、架空の人物が突然目の前に現われたみたいだな、と現実離れしたことを思った。


 ぐるぐると回り始めた思考を振り払うように頭を振り、絃一郎はスコップを握る手に力を込めた。




 景色を白く一変させるほど積もった雪を、彼と手分けして少しずつ片付けていく。

 アパート前の駐車場を。そこから続く住宅地の歩道を。


 その間、会話は無い。だが、黙々と、という訳ではなかった。



 ♪~……



 彼は、ずっと鼻歌を歌っていた。


 自然と耳に入るメロディが気になって、スコップを動かしながら聞き入ってしまう。


 なんて綺麗な声だろう。

 男性の喉でも、こんなに高い音がよどみなく出せるものなのだろうか。


 弾んだリズムで歌われるメロディは、高くなったり低くなったりと複雑だ。コロコロと音符が転がったと思えば、一段ずつ階段を上るように音程が高くなっていき、その最上段で一番高い音が響き渡る。

 そんな楽しげな旋律せんりつが心地良かった。


 これは何という曲だろう?

 きっと、彼の気分を上げる曲に違いない。歌詞は無くとも、弾むような胸の内が伝わってくるのだから。


 そう思った絃一郎は、雪かきが一段落したところで彼に声をかけた。


「それ、何の歌ですか?」

「……コールユーブンゲンの五一番」

「こ、こーる?」

「ユーブンゲン」


 なんだそれ。曲名なのか。いや、作者名かもしれない。どちらも有り得そうな名前だ。

 そんな疑問が顔に出ていたのだろう。彼は空を見ながらあごに手を当て、少し考える素振そぶりをしてから言った。


「本の名前と番号で呼ばれるような、ただの練習曲ってこと」

「な、なるほど……?」


 つまり、コールユーブンゲンという教本に記載された五一番目の練習曲、ということか。


 クラシック音楽の曲は、必ずしも題名がある訳ではない。モーツァルトのピアノソナタ第一五番だとか、ショパンのノクターン第二〇番だとか、番号で呼ばれている曲があることは知っている。

 きっと、歌の練習曲にもそういったものがあるのだろう。


 だが、あの楽しげな鼻歌がただの練習曲だとはとても思えなかった。


「その、五一番? っていうのは、どんな曲なんです?」

「……どんなって?」


 思ったままに尋ねると、彼はきょとんとした。確かにあやふやな質問だったな、と弁明するように慌てて付け加える。


「いえ、あの……練習曲にしては、楽しそうに歌ってるなぁって。だから、面白いメロディとか素敵な歌詞がある曲なのかなって……思ったんです、けど……?」

「…………!」


 彼は何も言わなかった。


 だが、目が見開き、キラキラと光輝いて。引き結ばれていた口が緩み、孤を描いていって。

 その顔は、みるみるうちに満面の笑みになった。


「分かる?」

「え」


 身を乗り出すようにして、彼がこちらへ一歩近付いて来る。


「面白い曲でしょ。付点十六分のリズムは歌ってて楽しくなるし、フレーズの途中に出て来る十六分も緩急かんきゅうがあっていいよね。ホ長調の響きもいい。ウキウキでスキップしてるみたいな曲だから、体を動かしてると思わず歌っちゃう曲なんだよ。練習曲にしておくには勿体ないくらいで」

「え、えぇ……」


 彼は、ソワソワとその場で小さく足踏みをしながら、力の込もった声でまくし立てた。


 弾けんばかりの笑顔がまぶしい。さっきまでの仏頂面はどこへ行ったのだろう。いや、表情が無かった訳ではないのだが、こんなにも上がった口角を見てしまえばもう無表情だったとしか思えなくなる。


 あまりの熱弁に面食らっていると、背後からガタン、と扉の開く音がした。

 すがるような思いで振り返ると。


「おはよう! 朝からありがとうね、二人とも!」


 そこには、玄関ポーチからこちらへ手を振る、寮母の礼子がいた。

 トレードマークの赤いエプロンに厚手のコートを羽織った礼子は、寒そうに肩をすくめながらも溌剌はつらつとした声でこちらに呼びかける。


「そろそろ温まらない? 朝ご飯にしましょう!」

「はっ、はーい!」

「分かりました」


 ずっとスコップを振るっていたおかげで体の芯は温まっていたが、手足や鼻先はすっかり冷えている。そんな体では抗いがたい誘いに、絃一郎達は揃ってペコリとお辞儀を返した。

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