第2話
一階の食堂に入ると、ブワリと温かな空気に包まれた。すると頬や耳、指先に
引き寄せられるようにもう一歩中へ進むと、今度は何かを焼いた香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
テーブルの上に置かれていたのは、大きな四角いお盆に乗った朝食が二人分。具沢山の味噌汁やふっくらとした焼き鮭が、湯気を立てて二人を待っていた。
そうして食べ始めたところで、食堂の奥にあるキッチンから礼子がお盆を持って現われた。
「さぁ、食べて食べて! これは雪かき頑張ってくれたご
そう言うやいなや、テーブルの上に
お礼を言うと、礼子は
「ふふ、みんなには内緒ね。今日から二人だけだから」
「え?」
耳を疑った絃一郎は、ポカンと口を開けたまま聞き返した。
「……二人だけ?」
「そうよ? みんなは今頃実家かしらねぇ」
この雪で困ってなければいいけど、と礼子が真っ白な窓の外を
二人だけ。おほり荘にいる生徒は今、絃一郎と彼だけ。
確かに、今日は一二月二九日。世間は年末年始である。下宿している生徒の多くが実家に帰省する一方で、実家には帰らず下宿先で年を越す生徒もいるだろう。絃一郎もその一人だ。
でも、まさか二人だけなんて!
信じられない思いで、向かいに座る彼を見る。しかし彼はどこ吹く風で、ご飯に乗せた焼き鮭を美味しそうに頬張っていた。
「でもびっくりしたわ、二人で雪かきしてくれてるなんてねぇ。仲良しだったの?」
「い、いやぁ……」
人違いと成り行きでそうなっただけで、仲良しではないです。ほぼ他人です。
それどころか、そもそも同じ世界に住んでいるとすら思っていなかった人です、とまでは流石に言えない。
絃一郎が答えあぐねていると、礼子が続けた。
「ほら、おばちゃんがみんなの顔を見るのって、ご飯か登下校の時間でしょう。その時、二人が一緒にいるのって見たことがなくって」
「あはは、確かに……」
心底不思議そうな礼子に苦笑する。そんな二人が一緒に雪かきをしていたら、驚くのも無理はない。
すると、視線に気付いたのか、それとも焼き鮭を食べ終えたのか、彼の視線もようやくこちらを向いた。
バチリ、と彼の瞳と目が合う。
ずっと見ていると引き込まれてしまいそうな、青みがかった深い黒色の瞳だ。
「あの……はじめましてですよね?」
「そうだね。はじめまして」
「あら」
恐る恐る尋ねながら絃一郎が首を傾げると、淡々と答えた彼が小さくうなずく。
そんな二人の様子を見た礼子は、目を丸くして、ニンマリ釣り上がった口元を手で覆って隠した。それから「それじゃあおばちゃん支度があるから」と言い残して、足早にキッチンへ戻り、その奥にある大家夫婦が過ごす部屋へと消えてしまった。
あぁ、内心ガッツポーズしている礼子が容易に想像出来る。「これは友達になるチャンス!」。そう思って、気を遣ってくれたのだろう。
だが、いざ面と向かって二人きりだなんて、一体何を話せばいいのか。考えただけで手汗が出てくる。
絃一郎は去って行く礼子の背中を引き留めるように目で追っていたが、やがてその姿が見えなくなると、諦めて目の前の味噌汁へと視線を戻した。
そこで、彼が口を開いた。
「永海
やっぱり。この人が永海だ。
F組といえば、音楽コースのクラスである。この人の噂は歌声に関するものばかりだから、当然そうだろうと思っていた。雪かきしている時の止まらない鼻歌やあの熱弁っぷりを思えば、やはり音楽が、中でも歌が大好きな人らしい。
「一年C組の寺方絃一郎です。よろしくお願いします」
「……よろしく」
C組、と言った時、永海は少しだけ目をパチクリとさせていたが、結局何も聞かずにそのままの顔でうなずいた。
そりゃあそうか。このおほり荘にいる生徒は、ほとんどがF組だ。楽器や分野は違えど、音楽活動のためにわざわざ下宿してまでやってきたのだから、音楽コースに所属しているのが一般的だろう。
実際、おほり荘にいる二人の同級生はどちらも音楽コースのF組。普通コースは絃一郎だけだ。
そこで、ふと「実家の俺の部屋、無くなってたらどうしよう?!」と賑やかに実家へ帰っていった同級生の顔を思い出した。同時に浮かんだ疑問を、永海に尋ねてみる。
「永海先輩は帰省しないんですか?」
「僕は、別に。帰っても楽しくないから」
「そ、そうなんですね……?」
永海がそっぽを向いて肩をすくめる。その眉間に
聞かない方が良かっただろうか。
謝罪の言葉が喉まで出たが、その時にはもう、永海は味噌汁の入った汁椀を傾け、じっくり味わっているであろう満たされた顔をしていた。気にしていなさそうで良かった、とこっそり胸を撫で下ろす。
「君は帰省しないの?」
「えぇと、するんですけど」
質問を返され、絃一郎は少し考えてから答えた。
「元旦にある
「……邦楽?」
「あぁ、J-POPじゃなくて、日本伝統の音楽って意味です。俺、箏曲部に入ってて。いつも教わってる講師の先生が演奏されるんですよ」
「そうなんだ」
それを聞いた永海は、合点がいったようにコクコクと首を振った。
絃一郎が堀舟高校への進学を決めたのは、箏曲部へ入るためだ。
中学校まで、絃一郎は祖母の邦楽教室に通っていた。なので、進学先は二択だった。近所の高校へ進学して邦楽教室に通い続けるか、箏曲部がある高校へ進学して部活動として箏を続けるか、である。
そこで、想像してみたのだ。
もし高校で箏曲部に入れば、朝も放課後も、もしかすると昼休憩にだって箏が弾けるかもしれない。今よりもっと演奏会の機会があるかもしれない。
そんな膨らませた想像があまりにも魅力的で、絃一郎はT県唯一の箏曲部がある堀舟高校を選んだのだった。
音楽コースではなく普通コースを選んだのも、部活動さえ出来ればそれで良かったからだ。
大好きな箏が弾ければ。
六歳の夏、
そうすれば――きっと、またいつか千尋に会えるから。
実のところ、絃一郎の箏への執着は、その思いが大部分を占めている。
勿論、箏の心地よい音色や独特の哀愁を帯びた旋律も好きだし、練習が実を結んだときの達成感は何にも代えられないものだと思っている。
だとしても、千尋と交わした再会の約束が無ければ、高校生になるまで箏を弾き続けてはいなかっただろう。そう確信してしまえるほどに、彼女に会いたいという思いを強く
だが、相手は幽霊だ。探して見つかるような相手ではない。正体だって分からない。ましてや、あの時以来、絃一郎は幽霊など一度も見たことが無かった。
だから、この世に存在しないものを見る力を持たない絃一郎には、箏を弾き続けるしかないのだ。「貴方が箏を弾き続ける限り、私は貴方の側にいるわ」という千尋の言葉を信じて。
会話が途切れ、つけっぱなしのテレビから流れる朝のニュースだけが食堂に満ちている。そんな気まずい静けさに箸が止まりそうになった頃、見計らったように礼子が顔を出した。
キッチンへと戻ってきた礼子は、調味料棚の中身を確認しつつ、カウンター越しに絃一郎へ声を掛ける。
「寺方くん、明日から食堂お休みだけど、準備は大丈夫かしら?」
「はい、一応考えてはいます」
年末年始、食堂が休みになることは事前に知らされていたので、自炊が出来るだけの調理器具や食器は揃えている。とはいえ食材までは準備しきれていないので、絃一郎の今日の予定は、それらの買い出しに行くことだった。
休みになるのは、明日一二月三〇日から一月三日までの五日間。その間の食料を買い溜めしなければならないので、きっと買い物バッグはパンパンになるだろう。
移動手段が徒歩しか無いと、こういう時に大変だ。重い荷物を抱えてアパートまで帰るのかと思うと、今から気持ちも重くなる。
そう考えていたのだが。
「おばちゃん、この後商店街へ買い物に行くんだけど、良かったら一緒に行かない? 車出すわよ」
「え! いいんですか?」
「勿論よ!」
思わぬ助け船に、絃一郎はパッと顔を明るくした。「ありがとうございます!」とお礼を言いながら頭を下げる。
大らかに微笑んでいた礼子だったが、
「永海くん! あなたは嫌でも連れて行くからね」
「んん゛っ」
途端、永海が
「文句なら去年の自分に言いなさい」
「…………分かりました」
少し
それから、買い物に行く場所や集合時間を申し合わせると、礼子は満足そうに奥の部屋へとまた戻っていた。
嵐が去ったように静かになった食堂で、絃一郎は
「去年、何があったんですか?」
「……ノーコメントで」
感情のない顔をした永海は、目線を
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