第3話

 約束した十時。雪かきしたての玄関ポーチに集まった絃一郎と永海は、礼子の運転する軽自動車に乗り込んだ。


 向かう先は、おほり荘から徒歩一〇分ほどの場所にある商店街だ。




 商店街入り口のアーケード前に着くと、礼子は一度車を止め、絃一郎と永海をそこへ降ろした。そして「先に行ってて! 買い物が終わったら、パンダ公園に集合だからね!」と言い残し、少し離れた場所にある駐車場へ車を走らせていった。ここからは、各自買い物だ。


 頭上にある、雪を降らせ終えた曇天と大きなアーケード看板を見上げる。


 大きな波の絵と、勢いある太い筆の字体で書かれた「ほりふな商店街」の文字。引っ越してきて九ヶ月の絃一郎にとっても、この看板は馴染みのものになりつつある。


 だが、この日の商店街はいつもと違っていた。


 人、人、人。歳末特価の幟旗のぼりばた。そしてまた、人、人。


 商店街は、地面のタイルが見えないほど多くの人で賑わっていた。行き交う人はみんなのきを連ねる店に目を向けていて、年末のご馳走を買い込んだり食べ歩きをしたりと、思い思いに楽しんでいるようだった。


 あちこちで笑い合う声が絶えず、何かをまくし立てる声が聞こえたかと思えば、今度はどこかから野太い歌声も聞こえてくる。

 そんないっそ騒がしいほどの活気のせいか、店員達の声もいつもに増して威勢が良い気がした。


 アーケード前で永海とも別れ、人の波をかき分けながらお店を回る。そうしてどうにか買い物を終えた絃一郎は、予想よりも膨らんだ買い物バッグを抱えて、集合場所のパンダ公園へと向かった。


 パンダ公園は、商店街の一角にある小さな公園だ。

 敷地を囲うように桜が植えられていて、中には芝生が広がっている。商店街から入ってすぐの場所にベンチが二つ、その隣にパンダの遊具、ブランコ、滑り台と並んでいて、一番奥には東屋が一つ。


 全体としては、休憩場所として設けられたのが分かる落ち着いた雰囲気の公園なのだが、ポツンと置かれたパンダの遊具がとにかく目立っていた。そのせいで、礼子やおほり荘の先輩達に「パンダ公園」と呼ばれているのだった。




 絃一郎が公園に足を踏み入れると、スッと耳から喧噪けんそうが離れていったような感覚がした。商店街に人が集中しているせいか、はたまた年末の忙しさのせいか、公園の中に人の姿はほとんど無い。


 ただ一人、ベンチには小さな男の子が座っていた。


 保育園児くらいの歳だろうか。男の子は座ったままウトウトと船をいでいて、黄色い耳当てが外れそうになっている。地面まで届かない小さなモコモコのブーツは、ゆらゆらと宙に投げ出されていた。


 こんなところに一人で?


 公園の中を見渡してみるが、やはり男の子の他には誰もいない。振り返り、商店街の往来に目をらしてみても、親らしき人はどこにも見当たらない。


 もしかすると、買い物中の親を一人で待っているのかも。商店街中を探せば、きっとどこかに親がいるのだろう。

 またあの人混みに戻って、彼の親を探し出し呼んでくるべきか。だが、こんな人の多い中、今にも寝てしまいそうな一人きりの子供から目を離してしまったら――。


 そう考えた末、絃一郎はゆっくりと男の子へ近付いた。なるべく足音を立てながらベンチの前まで行くと、目一杯に詰まった買い物バックを肩に担ぎ直し、男の子の目線と合わせるようにしゃがむ。


 そうして、努めて優しい声で話しかけた。


「こんにちは」

「……」


 返事は無い。だが、重そうなまぶたが上がり、黒目がちの目が眠たげにこちらを見たので、絃一郎はニコッと頬を上げた。


「お隣、座ってもいいかな?」

「……うん、いいよ」

「ありがとう」


 間延びした声で言った男の子は、重い体を引きずるようにして少しだけ端へ寄ってくれた。有り難くそこへ腰掛け、買い物バッグを隣へ置く。


「俺は寺方絃一郎。げんちゃんって呼んでね」

「げんちゃん……?」

「君の名前は?」

悠也ゆうや……」


 今にも眠ってしまいそうな力無い返事に申し訳なさを感じつつ、ここで何をしていたのかをたずねる。すると、男の子――悠也は大きな欠伸をしてから教えてくれた。


「ママがずっとお店の人とおしゃべりしてて……それで、穗乃花ほのかちゃんと遊んでたんだけど、何だかウトウトしてきちゃって……」

「そっかぁ」


 やはり、親を待っているらしい。いや、待っているというよりも、世間話に花を咲かせる母親の側を離れ、抜け出してきたような口振りだ。

 今頃、親は必死になって探しているはずだ。そう思うと、ますます放っておけなくなる。


「兄ちゃんも、ここで待ち合わせしてるんだ。一緒に待ってよっか」

「ん……」


 悠也は口を開きもせずそう答え、また目を閉じてしまった。


 もう一度辺りを見渡してみるが、何度見ても親らしき人の姿はない。穗乃花ちゃん一緒に遊んでいた、と言っていたが、それらしい女の子の姿も見当たらなかった。


 そうして絃一郎がキョロキョロとしていると、すぐにまた悠也の頭がこっくりこっくりと揺れ始めた。きっと待ち疲れてしまったのだろう。見かねた絃一郎は、自分の膝を叩き、両腕を広げてみせる。


「眠い? 兄ちゃん、抱っこしようか?」

「……いいの?」

「いいよぉ」


 すると、悠也が遠慮がちにこちらへ腕を伸ばしたので、そっと抱き上げて膝の上へ乗せてあげた。絃一郎の肩の上に、小さな男の子の頭の重みが乗る。この体勢ならば、少しは眠れるかもしれない。


 ……さて、一緒に待とうとは言ったものの、これからどうしよう。


 そうして悠也の背中をトントンとでていると、商店街の人混みの中から、買い物バッグを手にした永海がフラフラと抜け出てくるのが見えた。


 人の波に疲れたのか、こちらへ向かってくる足取りは随分ずいぶん覚束おぼつかない。右手に握られた買い物バックは、あまり膨らんではいなかった。


 公園へ入り、ベンチへ腰掛けた絃一郎に気が付いた永海は、膝の上にいる悠也を見てピタリと動きを止める。


「……その子は?」

「一人でベンチにいたんです。お母さんとはぐれちゃったみたいで」

「そう……」


 体を硬直させ、にじりよってくる永海。たっぷり時間をかけてそばまでやってきて、強張こわばった表情で悠也の顔を覗き込む。そのまぶたが落ちているのを見ると、永海はようやくホッと息をついた。


「な、なんか……お疲れですね?」

「うん。ちょっと疲れちゃった」


 溜め息交じりに言った永海は、絃一郎の買い物バッグを挟んだ隣へと腰を下ろす。そのままストンと座るかと思ったのだが、永海の体は力なく後ろへ倒れ、横になってしまいそうな勢いでグニャリと背もたれに沈んでしまった。


 相当疲れたらしい。心配になって尋ねると、永海は「人酔いみたいなものだから」と言って、右手でOKサインを作ってみせる。


「……ちょっと休憩したら、僕がその子のお母さん探しに行こうか」

「え、いいんですか?」

「うん」


 永海が右手をズイッと近付けてくる。任せて、と言わんばかりだ。そんな体勢のままされては説得力が無いのだが。


 悠也のお母さんを探しに行かなければ、とは絃一郎も考えていた。だが、こんなヘトヘトの永海を雑踏の中に送り出す訳にはいかない。その疲れの原因が人酔いならば尚更なおさらだ。絃一郎が探しに行くという手もあったが、さっきの永海の様子を見るに、悠也を任せて二人きりにさせるのは酷かもしれない。


 ……この子のお母さん探しに行くのは、礼子が合流してからにしよう。


 そう結論づけて、絃一郎は一旦考えるのを止めた。




 商店街の喧噪けんそうを遠くに聞きながら、膝の上で眠る悠也の背中をでる。


 こうしていると、千尋のことを思い出す。


 絃一郎も、よく千尋に背中を撫でられていた。十七絃が上手く弾けなくてねていた時に。弦を押さえる指が痛くて泣いていた時に。

 それから、「もう会えないなんて嫌だ」と泣きじゃくっていた、あの日の夜に。


 彼女の温かな手は、今でも鮮明に覚えている。


 そんな懐かしい記憶を思い起こしていた絃一郎は、気付けば子守唄を口ずさんでいた。



 ♪ゆりかごのうたを カナリアがうたうよ

  ねんねこ ねんねこ ねんねこよ



 すると、視界の端で寝ていた体がはじかれるように起き上がった。突然のことに驚き、ハッと隣を見てまた驚く。背筋を立てて座り直した永海は、あんぐりと口を開け、信じられないものを見たような表情でこちらを見ていた。ドッと心臓が跳ねた絃一郎は、思わず視線をらしてしまう。


 何事かと内心焦りながら歌い続けていると、すう、と隣からも息を吸う音がした。



 ♪ゆりかごのうえに びわのみがゆれるよ



 絃一郎の声に、一オクターブ上のみ切った高音が重なった。

 歌うために長く息を吐いていなければ、驚きのあまり呼吸が詰まってせていたかもしれない。


 ――永海先輩が一緒に歌っている!


 高く、柔らかく、耳触りのいい優しい歌声だった。声量はそれほど大きくないのに、むしろ口ずさむほどの小ささなのに、不思議と体の芯まで響いてくる。


 全身に鳥肌が立つ。美しい空気の振動に、肌がしびれ、胸が揺さぶられている。そんな衝撃波にも似た感動の波が引くと、柔らかな声に温かく包まれているような心地がした。


 あぁ、これならぐっすり眠れそう。


 にしても、さっきまでヘトヘトだったのに、一体どこからこんな声が出ているのだろう。


 そう思って横目に見ると、永海は目を閉じ、ゆったりとしたテンポに合わせて体を揺らしながら心地よさそうに歌っていた。



 ♪ねんねこ ねんねこ ねんねこよ



 そうして歌いながら、ふと公園の中に視線を向けると、パンダの遊具の上に女の子が座っていることに気が付いた。


 悠也と同じ、保育園児くらいの女の子。


 絃一郎達の歌を聞いているのか、ぼんやりとこちらを見ている。

 時が止まっているかのようだった。

 フワフワのハートが付いたピンクのブーツはピタッと動きを止めていて、パンダを前後に揺らそうともしない。時折吹く冷たい風がニット帽の耳当てに付いた紫のポンポンを揺らすだけで、女の子は微動だにしなかった。


 なんとなく、近寄りがたい雰囲気の子だな、と思った。まばたきすら分からないほど動かないせいだろうか。それとも、笑みとも怒りともつかない、感情の読めない表情のせいだろうか。


 もしかして、あの子が穗乃花ちゃん?


 その時、不意に女の子の瞳が動いて、一瞬だけ目が合ったような気がした。



 ♪ゆりかごのつなを キネズミがゆするよ

  ねんねこ ねんねこ ねんねこよ――



 そのまま二人で最後まで歌い終わると、途端に遠くから聞こえる商店街の喧噪けんそうが戻ってくる。


 二人の間には余韻よいんのような静けさが満ちていたが、絃一郎はただ言葉が出てこないだけだった。永海の歌に聞き入って忘れていた、「この人、どうして一緒に歌っているんだ?!」という衝撃を思い出したのである。


 先に口を開いたのは永海だった。


「寺方くん」

「な、なんですか?」

「僕の伴奏者になってくれないか」

「………………はい?」


 たっぶり時間を掛けて、やっと絞り出せたのは間抜けな返事だった。

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