第4話

 狼狽うろたえながら隣を見れば、目を輝かせ、興奮気味にこちらを見る永海の顔。それが思わぬ近さにあって、絃一郎は咄嗟とっさる。

 雪かきしながら鼻歌の練習曲について語っていた、あの時と同じ顔だ。


「伴奏者……って?」

「僕の歌の伴奏。具体的に言うと、声楽部の伴奏班に入ってほしい」

「せ、声楽部の?!」


 公園に響き渡る声を出してしまってから、ハッとして口元を押さえる。


 いけない。あまり大きい声を出すと悠也を起こしてしまう。


 だが、驚かないなんて無理だ。一緒に歌っただけでも信じられないのに、今度は何を言い出すんだ、この人は。


「い、いや、どうして突然……? というか俺、箏曲部なんですが」

「うん。だから、僕の独唱の伴奏だけ。正式に入部しなくていいし、平日の放課後、週に一回でも来てくれればいいから」

「は、はぁ……」


 平日の放課後、週に一回。

 その条件だけを考えれば、両立は可能だろう。


 箏曲部のスケジュールは、平日の放課後に各自自主練習、土曜日の午前中に外部講師のレッスン、となっている。


 ゆるくていいね、とうらやましがられることも多いのだが、顧問の先生を含め校内に箏を弾ける先生がおらず、講師も予定があって土曜日の午前中しか来られないため、いたし方なくこのスケジュールになっているのだ。

 毎日自主練習に励む絃一郎からすれば、いつも先生の指導を受けられる他の部活の方が余程羨ましい。


 なので、平日の放課後はある程度融通ゆうづうが利くのだ。週に一回という条件は、無理なお願いをされている訳ではなかった。


 問題は、そこではなくて。


「そもそも、伴奏なんて無理ですよ? やったことありませんし」

「……もしかして、ピアノ弾いたことない?」

「小さい頃ちょっとだけ習ってましたけど、今は全然……」

「なら大丈夫だね」

「ちっとも大丈夫じゃないですが?!」


 満足げにうなずく永海に、絃一郎は声を上ずらせる。


「俺、ピアノなんてもう何年も弾いてませんから、ほぼ素人ですって!」

「大丈夫。そんなに難しい譜面は頼まないし、僕が教えてあげるから」

「だとしても、俺なんかじゃなくたって……! 伴奏なら、ピアノが上手い人とか声楽の知識がある人とか、そういう人に頼むべきじゃ……」

「そういう人には片っ端から頼んだけど、駄目だったんだよ。誰とも上手くいかなかった」

「は、はぁっ?!」

「でも、君は違う」


 永海が、悠也の背中に回していた絃一郎の手をギュッと握った。


 身を乗り出し、絃一郎が仰け反った以上の距離を詰められて、熱に浮かされた端正な顔が近付いてくる。間にあった絃一郎の買い物バッグからクシャッと何かが潰れる音がしたが、構っていられる余裕は無い。


 吸い込まれそうな黒色の瞳にじっと見つめられて、息が詰まりそうだった。


「君の歌を聞いて、一緒に歌いたくなった。君となら歌えると思った。君の伴奏で、歌ってみたいと思ったんだ」

「え……」

「だから、僕だけの伴奏者になってほしい」


 どこか切羽詰まったような声で永海が言う。


 その言葉に、一緒に歌っていた時の横顔が脳裏を過ぎった。柔らかな笑みを浮かべ、心地よさそうに歌う永海。混乱する頭の片隅で、永海が歌い出したのは単に「一緒に歌いたくなった」からだったのか、と納得する。

 だからといって、どうしてそれが「君の伴奏で歌ってみたい」に繋がるのかは分からないが。


「そ、そんなこと……言われても……」


 絃一郎には、うなずくことなど到底出来なかった。


 確かに、永海の伴奏者になれば素晴らしい経験が出来るに違いない、とは思う。

 きっと今まで触れてこなかった沢山の音楽に出会えるし、辞めてしまったピアノの腕も上達する。そして何より、こんなに美しい永海の歌を一番近くで聞けるのだから。


 だがそれ以上に、絃一郎の胸中は疑問と不安で埋め尽くされていた。


 ――どうして自分なんかが。もっと相応ふさわしい人がいるのではないか。永海の伴奏者が、果たして自分に務まるのか。


 だって、そうだろう。


 永海の噂を聞いていた時から、自分と関わることなど無い、遠い世界の存在だと思っていた。そして、実際に歌声を聞いて、それが事実だったと思ってしまったのだ。


 女声と聞き間違えるほど常人離れした高い音域。聞く人の胸に真っ直ぐに届く、伸びやかで透き通った声。暴走気味なほどの、溢れんばかりの歌への情熱。


 きっと永海は、音楽を愛して、音楽に愛されている人だ。


 そんな人の伴奏なんか、出来る訳がないだろう!


 今にも叫び出しそうな心の内をどうにか押しとどめながら、絃一郎は必死に断る言葉を探した。だが奥歯を噛むばかりで、永海を納得させられそうな言葉は何一つ見つからない。


 そうして何も言えないでいると、ふと絃一郎の腕の中で身動みじろぐ感覚がして、肩に乗っていた重みがフッと軽くなる。


 見れば、眠っていた悠也が顔を上げ、ぼんやりと目を擦っていた。


「あぁ、ごめん。起こしちゃった?」

「んーん、起きただけ……」


 ふやけた声で言う悠也。黒目がち瞳が絃一郎を見上げた後、さらに隣へと移る。


 永海に気が付いたのだろう。だが、それにしては遠くを見ているような。そう思って視線の先を追いかけてみると、永海はベンチの端へ移動していた。


 さっきまでひじがぶつかり合うほどの距離で目を輝かせていたのに、気が付けば腕を伸ばさないと届かない距離で小さく縮こまっている。いつの間に。というか、そこまで逃げなくても。


 悠也は、そんな永海をきょとんとした顔で見ていた。が、やがて欠伸が出ると、「ふあぁ」という声と一緒に眠気も出て行ったのか、その口元には活き活きとした笑みが浮かんでいた。


 思わず絃一郎は、ふふ、と声をらす。


「よく眠れた?」

「うん! ちょっと寝たら元気出た!」


 言うやいなや、悠也が絃一郎の膝から降り、そのそでを引いた。


「ねぇ、ブランコしない? げんちゃん、ぼくの背中押してよ」

「いいよ!」

「やったー!」


 歓声を上げ、悠也が一目散にブランコへ走っていく。追いかけようとした絃一郎だったが、途中で振り返り、ベンチに座ったままの永海へ尋ねた。


「永海先輩も一緒に遊びますか?」

「やだ」


 即答である。そんな気はしていた。


「僕はここで荷物番しながら、もし寺方くんに伴奏してもらえるならどの曲にしようかな、って考えとくから」

「……まだするとは言ってませんよね?」

「うん。もし、だから」


 そう念を押すように言いはしたものの、もう永海は楽しそうに鼻歌を歌ったり、明らかに日本語では無い歌詞の曲を口ずさんだりしている。断られるとは欠片も思っていなさそうだ。

 その先走りっぷりに危機感を覚えた絃一郎だったが、今は一旦棚に上げて、悠也とのブランコ遊びを優先することにした。


 先にブランコへ走っていった悠也は、二つあるうちの右側に乗り、小さくぎながら絃一郎を待っていた。

 その背中を押してあげようと後ろに立ったところで、突然悠也があっと声を上げてブランコを止める。


「穗乃花ちゃんだ!」


 嬉しげに呼ばれる名前。小さな指が差す先には、パンダの遊具。


 そこには女の子が座っていた。耳当て付きのニット帽を被り、その紫のポンポンが肩で揺れている。歌っている時に見た、あの子だ。


 ふと視線を下から感じて見れば、ブランコに座った悠也が何か言いたそうに絃一郎を見上げていた。その大きな黒い瞳が、不安げに揺れている。


「……あの子が穗乃花ちゃん?」

「! そ、そうだよ! お兄ちゃん、穗乃花ちゃんも一緒に遊んでいいよね?」

「勿論! おいでよ、こっちのブランコ空いてるよ」


 おずおずと確かめるように尋ねられ、絃一郎は笑顔でうなずいた。一緒に遊んじゃいけない理由なんかあるもんか。パンダに座ったまま動かない穗乃花へ声をかけ、こっちこっち、と手招きをする。


 すると、穗乃花は目を丸くしてから、小さな足でこちらへ駆け寄ってきた。それを見た悠也も、嬉しそうに足をバタバタと動かしてブランコを揺らす。


 側までやってきた穗乃花は、悠也の隣のブランコに座ると、後ろに立つ絃一郎へ笑いかけた。


「よろしくね、お兄さん」


 口は弧を描いているが、目の奥には冷たさを感じる、ぎこちない笑み。


 そんな子供には似つかわしくない表情に、絃一郎は一瞬違和感を覚える。だが、すぐに悠也の「行くぞー!」という掛け声が聞こえてたので、気には留めずにその背中を押し始めた。

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