セイレーンの伴奏者

二階堂友星

プロローグ

プロローグ 前

 初めてそういたのは、六歳の夏。


 祖母の家で出会った、「幽霊」から教わった。




 祖母の家は、市街地から離れた山深い集落にある。車で行けば三〇分ほどで着く場所だが、そこへ訪れると別世界にやってきたような心地だったことをよく覚えている。

 門と塀を構えた立派な日本家屋も、豊かな自然に囲まれた暮らしも、自分が住んでいる市街地では見たことの無いものばかりだったのだ。


 その年の夏休み。小学一年生だった自分は、共働きの両親が家を空ける間、祖母の家で過ごすことになった。


 土の匂いが肌にまとわりつくような、蒸し暑い夏の風が吹き込む家で、祖母と二人きり。お盆には親戚しんせき達が集まって賑やかになる居間も、この時はせみの声が響くばかりだった。


 そんないつもと違う静けさのせいか、すっかりこの家が自分だけの秘密基地になったような気分で、来る日も来る日も祖母の家の探検に明け暮れていた。


 ある日の昼下がり。いつものように探検するべく縁側えんがわを歩いていると、蝉の声に混ざって、どこからか聞き慣れない音が聞こえてきた。


 立ち止まって、そっと耳をませる。



 ――シャン、シャン、テン。



 小鳥のさえずりのようにも、水面を跳ねるしずくの音のようにも思える、不思議な低い音色だった。


 その正体が気になって音の聞こえる方へ進んでいくと、縁側の突き当たりに辿り着く。

 そこにはピッタリと障子しょうじの閉じられた部屋が一つだけあって、音は中から聞こえてくるようだった。


 息を殺し、そっと障子を開けた途端とたん、一層強く鼓膜が揺れる。



 ――シャン、シャン、テン。



 間近に聞こえる、あの不思議な音色。心をおどらせながら、こぶし一つほどの隙間から部屋の中を覗く。


 部屋の中には、藤色の着物姿の女性がいた。こちらに背を向けて、座布団もかずに畳の上で正座している。


 ふと、今この家には祖母と自分の二人しかいないはずなのに、と思った。だが、些細ささいな疑問は、胸いっぱいの好奇心によってすぐ上書きされてしまう。


 彼女の膝の前には、大きな箱が置かれていた。


 床に立てたら天井を突き破ってしまいそうなほど長い、長方形の箱。表面は美しい焦げ茶色の木目模様で、木で出来た箱なのだと一目で分かる。それが横向きに置かれ、右端の方に女性が座っているのだった。


 箱の上面には、両端にくくりつけられた何本もの糸が並んでいる。そこに三角形の支えらしきものが入れられていて、位置は一本一本違うものの、どの糸もピンと張られていた。


 その糸を、白い爪を付けた彼女の右手がはじく度、あの音が聞こえてくる。



 ――シャン、シャン、テン。



 なんて綺麗な音だろう。


 耳の中を清らかなせせらぎが流れていくようだった。水飛沫みずしぶきのように歌うメロディも、水底へ沈むように鳴る低音も、流れ着いた胸の奥で美しく響いている。


 気付けば、その場に立ち尽くしていた。彼女が奏でる音に聞き入ってしまって、目が離せなくなる。


 軽やかに糸を弾く右手。


 時折糸を押す左手。


 それに合わせて揺れる、藤色のそでや長くつややかな黒髪。


 やがて手が止まり、音がんだ。


 すると、彼女はゆったりとした所作しょさで振り返って――バチリと目が合った。


「まぁ」


 少し目を丸くした後、眉尻を下げて笑う。そんな彼女の優しげな声と表情に、思わず逃げようと後退りしていた足が止まる。


「そんなところで見てないで、こっちへいらっしゃい」

「う、うん……」


 手招きする彼女に誘われ、おずおずと障子を開けて部屋の中へと入る。


 部屋は静まり返っていて、足の裏が畳にこすれる音がよく聞こえた。彼女が手を離してからというもの、綺麗な音色が出る不思議な木箱はすっかり鳴らなくなってしまっている。


「それ、なぁに?」


 その静かになった箱を指差してたずねると、彼女は柔らかく目を細めて言った。


「これはそうという楽器よ」

「そう?」

「ふふ、そう。あなたも弾いてみる?」

「……どうやるの?」

「まずはね――」


 そうして、彼女――千尋ちひろは箏の弾き方を一から教えてくれた。




 その日から、祖母の家の探検を辞め、代わりに千尋の部屋へ通うようになった。


 自分の手であの音色を鳴らすのが楽しくて、教えられるまま夢中で箏を弾く日々。


 最初の頃は、大して響きもしないこすれるような音が鳴るばかりで、彼女と同じ音はなかなか鳴らなかった。

 当然だ。六歳の小さな手には、箏爪ことづめを上手く扱えるだけの器用さは無かったし、げんを引っかいたりはじいたり出来るだけの力も無かった。とても演奏とは言えない有り様だっただろう。


 それでも、千尋は優しく微笑み、必死に箏と格闘する姿を見守ってくれていた。




 すっかり箏の音色に魅了されてしまったせいか、はたまた、千尋のそんな優しさのおかげか。


 どんな音が鳴ろうとも箏を弾き続けた自分は、いつの間にか、あの日千尋が弾いていた曲を演奏出来るようになっていた。




 それから何日かが経ち、白い入道雲と賑やかな親戚達を引き連れて、お盆がやってきた。


 秘密基地だった祖母の家は、大人達が我が物顔で闊歩かっぽする場所へと様変わり。

 幼い自分は大いにへそを曲げたが、両親から「これから五日間は泊まっていくわよ」「バーベキューもキャンプも出来るぞ。夏祭りにも行かなくちゃな!」と聞かされると、そんな不満などコロリと忘れ、これから始まる楽しい夏のイベントに目を輝かせていた。


 あれは確か、夏祭りの前日の夕方。


 夕食の支度の手伝いをしていると、家の裏手にある駐車場から大きなエンジン音が聞こえてきた。それが止まると、バタンッと勢い良くドアの閉まる音がする。


 この音は、叔父のバンだ。


 それからしばらくして、居間の方から自分を呼ぶ叔父の声が飛んでくる。


「げんちゃん! ちょっと手伝ってくれ!」

「はーい!」


 呼ばれるまま行ってみると、居間の奥にある座敷ざしきへ沢山の包みが運び込まれているところだった。


 一畳と同じくらいの長さで、幅は半分も無いほど細い、大きな長方形の布包み。それが、座敷を埋めるようにいくつも並べられている。


 駐車場と座敷を往復しながら包みを運んでいた叔父は、やってきた自分に気が付くと、車の中にある紙袋を持ってくるよう言った。


 開けっぱなしのバックドアから車に乗り込み、荷台の隅に置かれていた紙袋を取って戻ってくる。


 すると、座敷では叔父が包みを一つ開けようとしていた。紙袋を持ったままそばまでいって、その手元を覗き込む。


「おじさん、これなに?」

「こりゃあな、ばあさまの商売道具よ」


 包みの中から現われたのは、見覚えのある木箱だった。


 美しい木目模様。


 両端にくくりつけられた何本もの弦。


 これは箏だ。

 だが、千尋のものよりも何だか小さいような。


「ばあさまは、邦楽ほうがく教室の先生をやっていてな。あー、そ、そもそも邦楽教室ってのは、楽器のお稽古けいこをするとこで……。明日の夏祭りのステージで、その楽器の演奏することになっててな」

「……うーんと、じゃあ、これはおばあちゃんの楽器ってこと?」

「そういうことだ!」


 話の半分も分からないまま尋ねると、白い歯を見せた叔父に背中を叩かれる。

 とにかく、この小さな箏は祖母のもの、ということらしい。


 次々と包みを開けていく叔父を見て、自分も見様見真似でそれを手伝う。そうして座敷に並んだ包みを全て開け終えたところで、叔父が言った。


「実はなぁ、大きくて並べらんねぇってことで、ひとまず縁側に置いてんのが一個あんのよ。ちょっとばあさまに確認してくっからさ、げんちゃん、誰かが蹴飛ばしちまわないよう見張っといてくんねぇか?」

「分かった!」


 申し訳なさげに小走りで去っていく叔父を見送り、縁側へ向かう。


 そこにあった箏を見て、思わずあっと声をあげた。


 座敷に並んでいるものより一回り大きな箏。

 間違いない。千尋が弾いていた、あの箏だ。


 そう思った途端、あの曲を弾きたくてたまらなくなってしまった。


 というのも、お盆が始まってからはもっぱら大人達の手伝いを任されていて、買い物の付き添いや家事の手伝いに精を出していたのだ。

 ここ数日は千尋に会ってもいないし、箏だって弾いていない。


 あぁ、箏が弾きたい。千尋が奏でた、あの曲の音色が聞きたい。


 考えれば考えるほど無性に落ち着かなくなって、縁側を行ったり来たりしながら、箏の周りをウロウロと歩き回る。


 目の前にある箏を弾こうにも、道具が足りないのだ。


 箏を弾くため必要なのは、指に付ける箏爪ことづめと、琴柱ことじと呼ばれる弦の間に入れる三角形の支え。せめてこの二つが無ければ。どこかにあるだろうか。


 そこでふと、叔父に持ってくるよう頼まれた紙袋のことを思い出した。


 座敷へ行って、無造作に置かれた紙袋を覗く。


 中には缶が二つ入っていた。

 一つは、ジンジャークッキーの絵が描かれた可愛い丸い缶。もう一つは、読めない漢字が二文字書かれた銀色の大きな四角い缶。


 開けてみると、予想通り、それぞれに箏爪と琴柱が入っていた。


 見つけた箏爪と琴柱を引っ掴み、大慌てで縁側に戻る。それから、弦一本一本に琴柱を立てて、箏爪を指に付けて。


 ――これで箏が弾ける!


 板張りの縁側だということも構わずに、膝で床を叩くような勢いで箏の前に正座する。


 そうして、浮つく心を落ち着けるように、浅くなった呼吸を整えるように、深呼吸を一つ。


 右手の箏爪で、そっと弦をはじく。



 ――シャン、シャン、テン。



 自分の指先から鳴る、水滴のようにおどる不思議な音色。

 肌を震わせる振動が体の芯まで響いてきて、背筋がゾワリとする。


 あぁ、なんて楽しいんだろう!


 こうして弾けるようにはなったが、まだまだ上手く鳴らない音ばかりだ。音色の綺麗さは千尋に遠く及ばない。それでも、この美しい旋律が自分の手で奏でられるのは堪らなかった。


 その時。



 ――タ、ドタッ、ドタッ!



 畳を踏みつける乱暴な足音が近付いてくる。

 思わず手が箏から離れる。と同時に、血相を変えた祖母が座敷に飛び込んできた。

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