第二章 日脚伸ぶ

第9話

 部室へと続く割れたアスファルトの道を歩いていると、校舎のあちこちから楽器の音や歌声が聞こえてくる。


 冬休みが明けた堀舟ほりふな高校には、活気ある音が戻ってきていた。


 そんな喧噪けんそうが遠ざかってくると、ようやく目指す伝統芸能棟が見えてくる。


 伝統芸能棟、通称「お座敷ざしき棟」は、敷地の北側に位置する二階建ての建物だ。

 その名前の通り、中にはいくつかの和室がある。玄関へ入ると広い吹き抜けになっていて、階段を登った先にあるのが箏曲そうきょく部の部室である邦楽ほうがく室だ。


 誰も居ない邦楽室で、絃一郎げんいちろうは小さく白い息を吐く。


 朝はほとんど一人だ。特に、底冷えする冬の朝は。


 この静かな八畳の和室を独り占めに出来る朝を、絃一郎は欠かしたことが無かった。


 お座敷棟の鍵を借りてきて、邦楽室のふすまを開けて。古いエアコンの暖房が効いてくるのを待ちながら、そうを出して、琴柱ことじを立てて。そうして弾く準備が出来たら、寒さで強張った指先が動くようになるまで手慣らしをして、千尋ちひろから教わったあの曲を弾く。


 のんびりと過ごす一人ぼっちの自主練習は、自分だけの世界に入れるようで居心地が良かった。


 弾き終えた弦に残る余韻よいんを聞きながら、やはり箏の音色は良いな、と噛み締めるように思う。


 冬休みの間は伴奏の練習に専念していて、ピアノばかり弾いていたのだ。

 こうして邦楽室に来るのは一週間振りだろうか。たったそれだけでも、随分ずいぶん久し振りに箏を弾くような気がする。


 ピアノの素朴そぼくで軽やかな音色も良いが、この水がしたたり落ちるような不思議な音色は、箏でしか味わえない絃一郎にとって特別なものだった。


 さてもう一曲、と弦の上に手を置いた、その時。


 ピピピッ、ピピピッ。


 唐突に鳴ったスマートフォンのアラームにさえぎられる。

 本校舎のチャイムがお座敷棟まで届かないため、その代わりにセットしたアラームだった。


 無遠慮な電子音を止めた絃一郎は、名残惜しく思いながらすごすごと片付けを始めた。




 お座敷棟から本校舎へ戻ると、一変して活気に包まれる。


 この時間になると、朝に聞こえた楽器の音や歌声は、生徒達がう賑やかな声へと変化する。昨日の始業式だけでは話し足りなかったのか、廊下は立ち話に花を咲かせる同級生達でいっぱいだった。


 そんな彼らの間をうようにしながら、一年C組の看板がげられた扉をくぐり、かばんを机上に置いて冷たい座面に座る。

 教室をよく見渡せる、中央一番後ろの座席。そこが絃一郎の席だった。


 ホームルーム前教室は滅茶苦茶めちゃくちゃだ。みんな誰の席だろうがお構いなしに集まって、思い思いに過ごしている。


 それをながめながら絃一郎は、ふあぁ、と大きな欠伸をした。


 こんな騒がしさに囲まれても、のんびりとした自主練習の気持ちが抜けきっていないらしい。重くなってきたまぶたに、机の上の鞄がいい枕になりそうだな、なんて思った直後。


げんちゃん!」

「っ、うわ! びっくりした!」


 ドンッ、と肩に乗る重み。と同時に、教室の賑やかさに負けない、一際大きな声が耳元で響く。


 心臓をバクバクさせながら振り返ってみると、絃一郎の肩をガッシリと鷲掴わしづかみにしたのは、左隣の席の島崎しまざきだった。


「お、おはよ、島崎」

「っはよ! いや、それどころじゃねぇって!」

「え?」


 ただならぬ様子の島崎に、絃一郎は目を丸くする。


 いつも綺麗にセットされている茶髪がボサボサだ。肩にかかったエナメルバッグは半開きで、ジャージのそでが飛び出している。ダンス部の朝練習を終えて、慌てて駆け込んできたのだろうか。


 島崎は上がった息もそのままに、自分の席に座ろうともせずこちらを見下ろしていた。その顔は困惑しきりで、少し青ざめているようにすら見える。


「F組の奴らから聞いたんだけど、永海ながみ先輩の伴奏することになったってマジ? 何したんだよ?! 音楽棟、大騒ぎになってんだけど!」

「……はっ?」


 そうまくし立てられ、一瞬で眠気が吹き飛んだ。


 大騒ぎ?


 永海先輩の伴奏することになった。それは事実だ。冬休み、おほり荘に残った永海と二人で年越しを過ごすことになり、どういう訳か伴奏を頼まれて、紆余曲折うよきょくせつはあったが結局そういうことになった。


 それが、どうして大騒ぎに?


 考えただけで嫌な予感がして、項垂うなだれた絃一郎は片手で口元を隠しながら答えた。


「それは……マジなんだけど」

「マ、マジなのか絃ちゃん……」

「うん。で、そ、その、大騒ぎって?」


 両手で顔をおおって天をあおいだ島崎に、恐る恐るたずねる。


「声楽部が使ってるレッスン室に人だかりが出来ててな……あっちこっちで悲鳴が上がったり、伴奏班の女子が泣き崩れてたり……」

「……」


 事件現場か?


 思い浮かべた音楽棟の様子に言葉を失っていると、苦笑した島崎が続ける。


「ほら、永海先輩ってバケモン……いや、アイドル的な存在じゃん。絃ちゃんも噂くらいは聞いたことあっただろ?」

「まぁ……あるけどさぁ……」


 言い直した島崎に思わず頬をゆるめた絃一郎は、曖昧あいまいに首を傾げた。


 永海の噂は、絃一郎も以前から耳にしている。


 女声と聞き間違えてしまうほどの高い声域を持つ、伸びやかでんだ歌声。その高さから「舟高のセイレーン」なんてバケモノじみたあだ名で呼ばれている声楽部員だ。


 切れ長の目をした整った顔立ちということもあってか、去年の文化祭では、彼が歌うステージで黄色い声が上がっていたことをよく覚えている。それを思えば、アイドル的な存在という表現は大袈裟おおげさではないのだろう。


 事実、その歌声を間近で聞いた絃一郎も、なんて綺麗な声なのだろうとすっかり聞きれてしまっている。


 とはいえ、そんな御伽話おとぎばなしの主人公のようなイメージとは裏腹に、音楽への愛が暴走しがちな人でもあるのだが。

 たった一週間ほどの短い付き合いで散々思い知らされた絃一郎は、バケモノと言われると真っ先にそんな一面を思い浮かべてしまう。


 ともかく、永海がこの堀舟高校ではそこそこ名前の知れた有名人らしい、ということは絃一郎も知っていたのだ。


「……だとしても、伴奏になっただけで騒ぎになるとは思わないって」

「だよな」


 はは、と乾いた声で笑った島崎は、そこでようやく自分の席に座った。それから頭の後ろで腕を組んで、ぼんやりと天井に視線を向けながら言う。


「……絃ちゃん、しばらくは音楽棟出禁だなぁ」

「はは、そうする……」


 その時だった。


 教室がにわかに騒がしくなる。前方にある入り口の近くから聞こえる声が、歓声を上げるかのように大きくなったのだ。


 何事かと顔を向けると、そこには見慣れない女子生徒が一人。


 綺麗に胸元でそろえられた、真っ直ぐな黒髪のロングヘア。グレーのセーターを着込んだ制服。胸元のリボンは青。二年生の指定カラーだ。

 男子生徒とそう変わらないほど背が高く、スカートの下からスラリと伸びる黒いタイツのせいか、その堂々とした立ち姿はさらに細く高く見える。


 女子生徒は、きたえられた肺活量がありありと分かる良く通る声で、教室に向かって言い放った。


寺方てらかた絃一郎くん、いるかな?」

「ひぇ……」


 喉の奥から蚊の鳴くような声がれる。


 騒ぎの方から来られてしまうと、もはや逃げ場は無かった。

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