第8話

 そうして、絃一郎と永海はおほり荘へと帰ってきた。

 玄関ポーチへ上がる、たった三段の階段を一段登ったところで、絃一郎は足を止める。


「あ、あの、永海先輩」

「なに?」


 一歩先を歩いていた永海が、玄関扉に手をかけながら振り返った。視線がぶつかりそうになって、絃一郎は咄嗟とっさに視線をらしてしまう。


 駐車場には、昨日の雪かきで作った白い山がこんもりと残っていた。停まっている車は無く、駐車場に面したアパートの窓にも暮らしの気配は無い。


 おほり荘は静かだった。


「えっと、その……」

「うん」


「………………伴奏、やります」

「えっ?!」


 絃一郎が絞り出すように答えた途端とたん、永海の良く通る頓狂とんきょうな声が響き渡った。




 永海の歌を聞くと、幽霊が見えるようになる。

 その不思議な現象に気付いた絃一郎は、永海の伴奏者を引き受けようと決意した。


 絃一郎には、会いたいと願ってやまない幽霊がいる。


 六歳の夏、絃一郎に箏を教えてくれた幽霊。「貴方が箏を弾き続ける限り、私は貴方の側にいるわ」という言葉を残して消えてしまった幽霊。


 永海の歌を聞けば、その幽霊に――千尋に会えるかもしれない。最後に交わした約束を守り、今も箏を弾き続けている絃一郎の隣へ現われてくれるかもしれない。


 そのためならば、伴奏者になっても構わなかった。


 どうして自分が伴奏者なのかという疑問や、果たして自分に務まるのかという不安が払拭ふっしょくされた訳ではない。

 だが、千尋に会えるかもしれないという可能性は、それら全てをくつがえしてしまえるだけの動機だった。


 伴奏者なって、永海の歌を一番近くで聞いていたい。

 そうして幽霊が見えるようになったこの目で、もう一度彼女に会いたい。


 そう内心で決意を固めながら、商店街からの帰り道を歩いていた絃一郎は、ふと隣で鼻歌を歌う永海を見て思ったのだ。


 あの時、頭を撫でてくれた優しい手のひら。最後に歌ってくれた『ゆりかごのうた』。


 あぁ、この人の為なら頑張ってみるのも悪くないかな、と。




「ちょっ、ちょっと待ってて!!」


 聞いたこともないほど声を上ずらせた永海は、宙を叩くように広げた手のひらを見せて、玄関扉の中へ転がり込んでいった。


 バタバタと足音が遠ざかっていくのを呆然と聞いていると、数十秒も立たずにそれが近付いてくる。

 今にもつんのめって倒れそうな勢いで戻ってきた永海は、玄関扉を開けるやいなや、絃一郎の胸にクリアファイルを押し付けた。


「これ、伴奏譜!」

「えっ」

「もし伴奏してもらえるなら、どの曲にしようかなって、昨日からずっと考えてて! やっぱり、僕の一番好きな曲にしようと思う!」

「えっ」


 髪を振り乱したまま、満面の笑みで言う永海。


 気圧けおされた絃一郎が、されるがままに受け取ったクリアファイルを見る。そこには、数枚の五線譜が入っていた。一番上には『Caro mio ben』の文字。商店街へ行く道中、永海が歌っていたあの曲だ。


「よろしくね! 寺方くん!」

「……は、はい」


 ぴょんぴょんと小さく飛び跳ねる永海に、口の端が引きつっていることを自覚しながらうなずく。


 沢山の音符が並ぶ五線譜に目を落とした絃一郎は、この愛について行けるかな、と早々に不安を覚えたのだった。




 玄関先で上機嫌の永海と別れ、二階にある自分の部屋へと戻る。


 それから一息ついた絃一郎は、部屋の真ん中に陣取った小さなこたつへ入ると、そこに貰った楽譜を並べてまじまじとながめた。


 楽譜は全部で三枚。歌唱と伴奏が一緒に書かれていて、上から歌唱、伴奏の右手、左手と、五線が三段に重なっている。


 永海の言っていた通り、そこまで難しい伴奏ではなさそうだ。

 強いて挙げるなら、右手の譜面が和音だらけであることくらいか。同時に二つ三つの鍵盤を押さなければならないので大変だが、これくらいならピアノを習っていた頃に何度か弾いたことがある。頑張れば弾けるはずだ。


 伴奏の譜面を一通り見終えた絃一郎は、その上にある歌唱の譜面に目を向ける。


 音符の下に書かれた文字は歌詞だろう。英語かと思って見てみると、全く読めなかった。そもそもこれは何語なのか。

『Caro mio ben』という題名については読み方も意味も教えてもらっていたが、歌詞はさっぱりだった。


 そこで、絃一郎はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。題名を入力して検索すると、イタリア語だという歌詞とその和訳が表示される。



 ♪愛しい人よ、せめて私を信じてほしい。

  貴方がいないと心がやつれる。

  貴方に忠実な男はいつも溜め息をついている。

  やめておくれ、むごい人よ。

  そんなつれなさを。



 それを見て、絃一郎は思わず声をあげた。


「これ、ラブソングっていうか……失恋ソングじゃないか?」


 永海は、この曲を「好きな人への思いを歌っている曲」だと教えてくれた。だからてっきり、ラブソングなのかと。いかにその人のことが好きか、そんな愛の大きさを歌っている曲だと思っていた。


 だが、それは早合点だったらしい。

 この曲は好きな人からの愛を求める、切実な願いを歌っている曲だ。


 あの時、永海が言っていた言葉を思い出す。


『……そうだね。ぴったりかも』


 ――本当に?


 たった二日でも、永海のそばにいれば分かる。


 聞きれるほどの美しい声を持っている。思いを歌で表現してしまえる豊かな感性を持っている。何より、歌への情熱がとめどなくあふれている。


 永海ほど音楽を愛し、音楽に愛されている人はいないだろうに。


 それなのに、どうして永海はこの曲を「ぴったり」だと言ったのだろう。いくら歌詞を読んでもそうは思えず、絃一郎は不思議でたまらなかった。


 と同時に、永海のことをもっと知りたい、と思ったのだった。




 そういう訳で、永海の伴奏をすることになった、その翌日。


「寺方くん! 伴奏、弾けるようになった?」

「……」


 唖然あぜんとする。


 突然鳴ったインターホンに出てみれば、そこには永海が立っていた。ソワソワとつま先を上下に弾ませながら、目を輝かせてこちらを見ている。


 朝食を済ませ、今日は大晦日おおみそかだし家でゆっくりしようかな、あぁでも商店街にも行かなくちゃ、と予定を立てていた矢先のことである。

 絃一郎はしばらく状況が飲み込めずに立ち尽くし、目の前の声楽オバケが伴奏を求めてやって来たことを理解すると、額に手を当てて天を仰いだ。


「……そんな昨日の今日で弾けるようになる訳ないじゃないですか」

「え……」

「第一、俺の部屋ピアノ無いので練習出来ませんし」

「えっ、そうなの?」


 永海が不意打ちを食らったように目を丸くする。そんなに驚くことなのか。


「僕の部屋おいでよ。あるよ、ピアノ。電子ピアノだけど、ちゃんと鍵盤が木製で弾き応えのあるやつだよ」

「……そんなに弾いてほしいんですね」

「うん」


 呆れ半分感心半分で言うと、すぐさま力強くうなずく永海。こうも真っ正面から言われると、立てていた予定を白紙に戻してもいいかな、と思えてくるから困る。


「あー……分かりました、行きましょう」

「わーい」


 しばらく考えた後にうなずきを返すと、永海が万歳するように小さく両手を上げ、晴れ晴れしい笑顔を浮かべる。

 それを見た絃一郎は、やっぱりこの人の愛は凄まじいな、ともう何度目かになる不安を覚えるのだった。


 手早く準備を済ませ、一階の角部屋である永海の部屋へ向かっている途中で、思い出したように絃一郎は言った。


「そうだ、永海先輩。昼頃、商店街に行ってもいいですか?」

「いいよ。何か買い忘れ?」

「いえ、悠也くんに会いたくて」


 きょとんとした顔で首を傾げた永海に、絃一郎は続ける。


「会えるかは分からないんですけど、伝えなきゃいけないことがあって。それから……俺も友達になりたいなって」

「……君達、友達じゃなかったの?」

「あはは、そう思ってくれてたら嬉しいですね」


 心底意外そうに言われ、笑い交じりに答えながら指先で頬をかく。


 きっと、託された言葉を絃一郎が伝えても、悠也の大切な友達はもう二度と現われてくれないだろう。悠也が嘘つきではないと証明することも、喧嘩してしまった友達との関係を元に戻すことも、絃一郎には出来ない。


 それでも、悠也の新しい友達になることなら出来る、と思ったのだ。


 少し眉をひそめて「子供と友達になるなんて僕は絶対に無理」と自信満々に宣言する永海に、絃一郎が思わず笑いをこぼす。

 そうして、二人は連れ立ってピアノが待つ部屋へと向かった。

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