第7話

「悠也くん! 穗乃花ちゃん!」

「あっ! げんちゃん!」


 むくれ顔で女の子をにらんでいた悠也が、パッとこちらを振り返る。


 絃一郎の姿を見つけるやいなや一目散に走ってきた悠也は、たちまち顔をくしゃくしゃにゆがめ、そのダッフルコートのすそを力一杯引っ張った。


「ねぇ、げんちゃんは穗乃花ちゃん見えるでしょ?!」


 必死に訴える声と、今にも泣き出しそうな顔。絃一郎には、悠也の気持ちが痛いほど分かった。またあの日の感覚があふれてきて、胸がギュッと詰まってしまう。


 悠也の小さな指は、震えながら滑り台の上を差していた。そこには、滑り台の頂上で座ったまま、不安げにこちらを見ている穗乃花の姿。


「うん、見えるよ。一緒に遊んだもんね。ねっ、穗乃花ちゃん」

「……うん」


 絃一郎が確かめるように声をかけると、穗乃花がおずおずと首を縦に振る。


 それを見た悠也は、せきを切ったように泣き出してしまった。


 慌ててしゃがんだ絃一郎が頭を撫でたり背中をさすったりしていると、そこへ悠也の母親が血相を変えて駆け寄ってくる。


「あぁ、昨日の学生さん!」

「す、すみません、叫んでるのが聞こえたので声かけたんですけど、かえって泣かせちゃったかも……!」

「いえ、こちらこそすみません……!」


 母親は泣きじゃくる悠也を抱き上げ、あやすように揺すった。


「もう、悠くん、どうしたの?」

「だって! 千香ちかちゃんが!」


 しゃくりあげながら言う悠也は、母親の肩をひしとつかみ、そこをらすほど大粒の涙を落としている。


 そうしてまた東屋あずまやへと戻っていく二人を目で追っていると、滑り台から降りてきた穗乃花が、その場に残された絃一郎の隣へとやってきた。


「……お兄さん」

「なぁに?」


 呼ばれて隣を見ると、穗乃花は母親の腕の中で泣く悠也を見つめていた。


 その表情は、口も眉も横一直線。昨日見た、あの感情の読めない顔をしている。

 だが小さな手は、何かをこらえるように自分のコートをギュッと握っていた。


「わたし、悠と遊んじゃ駄目なのかな」

「えっ?」


 淡々と言われた思わぬ言葉に、絃一郎がギョッとする。それでも穗乃花の視線は、じっと見つめたまま動かない。


「うーん……どうしてそう思うの?」

「わたしが悠と遊んでると、悠は他の子と喧嘩しちゃうの。今日もそうでしょ。最近はいつもこうなの……」

「そっか。穗乃花ちゃんは友達思いなんだね」

「……」


 絃一郎の言葉には何も返さず、穗乃花がこちらを向いた。


「穗乃花ちゃんは、悠也くんに喧嘩してほしくないんでしょ? それって、悠也くんが喧嘩して泣いてるのを見ると、悲しい気持ちになるからなんじゃない?」

「うん」

「それはきっと、穗乃花ちゃんは悠也くんのことを大切に思っている証拠だよ。だから、悠也くんが喧嘩しちゃうのも、穗乃花ちゃんのせいじゃないと思うけどなぁ」



「ううん、わたしのせい。だって、わたしは――」

「…………え?」



 それを聞いた途端とたん、サァッと血の気が引いていくのが分かった。


 絃一郎の眼前がんぜんでは、穗乃花が真っ直ぐにこちら見ている。しゃがんだことで同じ高さになった視線。黒目がちな瞳かららせなくなるほどに、ピッタリと目が合っている。


 いや、何を言って。


 だって目の前にいるじゃないか。


「わたしは悠にしか見えない」だなんて、そんな訳が――。




「君、さっきから誰と話してるの?」


 突然、背後から声がした。


 はじかれたように振り返ると、そこには永海が立っていた。こちらを見下ろす顔は真剣そのもので、あれだけ歌っていた鼻歌も聞こえない。


「だ、だれって、そこに」


 言いながら隣を見て、息をむ。


 そこには誰もいなかった。ただ枯草色になった芝生が広がるばかりで、さっきまで絃一郎が話していた女の子の姿は忽然こつぜんと消えていた。


 滑り台の上にも。パンダの遊具にも。


 言葉を失った絃一郎の耳には、公園の奥にある東屋から届く声がより一層大きく聞こえた。子供達の泣き声と、そんな彼らをなだめる母親の声だ。


「誰もいないよ」

「……」

「最初から、遊んでいたのは男の子一人だった」

「……そ、そんな」


 追い打ちをかけるように永海が言う。


 そんなはずはない、と言い返そうとしたが、急激に冷えていく体がそれを許さなかった。

 のどが締めつけられるように苦しくなって、何も言えなくなる。代わりに、絃一郎はグッと奥歯を噛んだ。


 同時に、少しずつ冷静さを取り戻していく頭の片隅で思う。


 あぁ、そうか。


 よく考えれば分かることだ。


 悠也が叫んだ言葉。六歳の絃一郎が叫んだ言葉――その後、味わった苦しみ。


 それが、何よりの答えだった。


「…………そう、ですよね」


 誰にも見えないから。誰にも分かってもらえないから。だから、絃一郎は叫んだのだ。


 悠也もきっと同じ。


 穗乃花は、悠也にしか見えない友達――この世に存在しない、幽霊の友達だったのだろう。


 悠也はただ、穗乃花という大切な友達と一緒に遊びたかっただけ。なのに、その姿が誰にも見えないから、嘘つきと言われてしまう。


 絃一郎が穗乃花の存在を信じて疑わなかったのは、そんな悠也と過去の自分とが重なって見えたからだ。


 あの日からずっと、絃一郎の胸の内には「もし誰か一人でも信じてくれたなら」という思いがなまりのように沈んでいる。


 そのせいだろうか。絃一郎の目にも穗乃花の姿が見えたのは。


「寺方くん」

「……はい」


 しゃがんだまま項垂うなだれていた絃一郎は、名前を呼ばれて顔を上げる。すると、きょとんとした表情の永海が、首をかしげて心底不思議そうにこちらを見ていた。


「質問の答えがまだだよ。誰と話してたの?」

「え? いや、だから、誰もいないって……」


「そうだね。僕の目では誰もいなかった。でも、君の目もそうだとは限らない」

「は……――」


 さも当然のように言われ、二の句が継げなくなる。


 口をポカンと開けたまま動けなくなった絃一郎の頭の上に、一歩近付いてきた永海の手のひらが乗る。そして、癖のある短い髪をワサワサとかき回すようにでた。


 その瞬間、絃一郎の喉を締めつけていた何かが無くなったような気がした。スッと呼吸がしやすくなり、吐き出した息につられて思わず口が動く。


「――……穗乃花ちゃんです」

「うん」

「悠也くんと一緒に遊んでた……友達思いの女の子です」

「そう」


 永海は口数少なく、だが優しい声で言った。肯定も否定もせず、ただ静かにうなずいた。


 ――この人は、笑ったり気味悪がったりしないでいてくれるのか。


 たったそれだけで、重く苦しかった胸が不思議と軽くなる。冷たかった体に温かさが戻ってきて、カッと耳が熱くなる。とうとう目頭まで熱くなるのを感じて、絃一郎はしゃがんだ膝の間へ顔をグッと押し込んだ。


 すると、頭を撫でていた永海の手がそっと離れていく。


「あ、帰るみたいだよ。あの親子」


 永海がそう言うのと同時に、遠くから「ありがとうございました」と悠也の母親の声が聞こえてくる。


 いつの間に泣き止んだのか、子供達の声は聞こえなくなっていた。


「僕たちも帰ろう、寺方くん」

「……」


 絃一郎は、顔を下げたままうなずく。


 とはいえ、今顔を上げたら目元が赤くなっていそうだ。


 そう思って動けずにいると、背後からどこか寂しげな鼻歌が聞こえて来た。高く、透き通った声。この二日で随分聞き慣れた声だ。


 それが、少しずつ商店街の方へと遠ざかっていく。


 あぁ、行かなきゃ。


 渋々膝の上にあごを乗せ、風に吹かれた目元に冷たさを感じた時。


 視界一面に広がる、公園の枯草色の芝生。

 その上に、見覚えのあるくつが並んでいた。フワフワのハートが付いたピンクのブーツの、小さなつま先。


「――お兄さん、悠に伝えて。さようなら、今まで遊んでくれてありがとう、って」

「えっ……?!」


 唐突に聞こえた声に、ハッと目を見張って顔を上げ、その勢いのまま尻餅しりもちをつく。


 直後。


「寺方くん?」


 永海が鼻歌を止め、名前を呼んだ。


 絃一郎の目の前にある芝生には、相変わらず誰もいない。


 だが、今一瞬、そこに穗乃花がいたような。

 というより、永海が鼻歌を止めた瞬間に、穗乃花の姿が消えたような。


 いや、まさか。そんなことが?


「どうしたの?」

「あ、あの……」


 帰ろうとしていた永海が側まで戻ってきている気配を背後に感じながらも、絃一郎は打ち付けた腰を上げることも振り返ることもせず、ひたすら眼前の芝生を見つめながら言った。


「永海先輩、歌ってもらえませんか」

「歌?」

「はい。歌を……今、先輩が歌いたい曲を」

「そう。なら――」



 ♪ゆりかごのうたを カナリアがうたうよ

  ねんねこ ねんねこ ねんねこよ



 高く、柔らかく、こいねがうような胸に響く声で永海が歌う。


 すると、絃一郎の目の前、何もなかった芝生の上に、スゥッと穗乃花が立ち現われた。足元を見てみれば、そこにあるはずの昼下がりの太陽に落とされた影が見当たらない。


 寂しげな笑みを浮かべた穗乃花は絃一郎へ手を振ると、紫のポンポンを揺らして公園の奥へと走り去っていく。

 小さな背中は次第に薄れ、最後にはきりのように消えてしまった。


 それを目の当たりにして、ようやく絃一郎は諦めた。


 穗乃花は、本当に幽霊の友達だった。


 絃一郎の目にも穗乃花の姿が見えたのは、永海の歌を聞いたからだったのだ。……どういう理屈かは分からないが、目の前で起きたことを信じるならば、そう考えざるを得ない。


 絃一郎の目は、永海の歌を聞くと幽霊が見えるようになる。どうやらそういうことらしい。


 一番を歌い終わった永海は、余韻よいんを味わうように長く息を吐いてから言った。


「……仲直り出来るといいね、あの子達」

「ですね」


 その言葉に、絃一郎もうなずく。


 永海が歌った『ゆりかごのうた』は、悠也と初めて会った時、絃一郎が口ずさんでいた歌だ。歌いたい曲を、とリクエストしたが、永海なりに悠也のことを思ってこの曲を歌ってくれたのだろうか。


 冷たい目元を乱暴にぬぐって、絃一郎は立ち上がる。改めて公園の中を見渡すと、東屋にいた親子の姿は既に無かった。勿論、穗乃花の姿もどこにも無い。


 必ず伝えるからね、と心の中で呟いて、絃一郎は商店街を歩いていく永海の後を追った。

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