第6話

 翌日。


 この日は幸い晴れて、絃一郎の部屋には穏やかな光が差し込んでいた。

 窓から見える景色も見慣れた色に戻りつつあって、くっきり残っている白色は日陰や道の脇に積まれた雪くらいだった。空のかすみも昨日の雪と一緒に降り落ちたのか、透き通った綺麗な青空が広がっている。


 あれから一晩考えて、絃一郎は永海の部屋を訪ねてみることにした。


 念のため、昨日の別れ際に半ば無理矢理交換させられた連絡先へメッセージを送っておいたのだが、日がのぼり始めても返事は無かった。気になってメッセージアプリを開くと、既読きどくすらついておらず。

 どこか寂しげなメッセージを見ながら、礼子が言っていた「好きなことに熱中すると寝食を忘れちゃうタイプ」とはこういうことか、と納得したのだった。


 昼頃、結局鳴らず仕舞しまいとなったスマートフォンをジーンズのポケットに突っ込み、絃一郎は二階にある自室を出て階段を降りた。


 永海の部屋は、一階の角部屋、一〇六号室だと言っていたっけ。そう昨日の会話を思い出しながら、北風がビュウビュウと通っていく廊下を突き当たりまで進む。


 一〇六の表札。この部屋だ。


 一度大きく息を吐いて、両手をこすり合わせて。それから、意を決して呼び鈴を鳴らす。

 すると、中からゴトッと重い物音が聞こえた。


 しばらく待った後、のっそりと扉が開く。


 だが、吹き込む風の冷たさに驚いたのか、一度開いた扉はすぐ引っ込むように少し閉じられる。そうして出来た隙間から、スウェット姿の永海が顔を出した。


「……」

「……お、おはようございます?」

「おはよう、寺方くん……」


 内心「こんにちは」の時間だよな、と迷いながら言うと、永海からは迷うこと無く朝の挨拶あいさつが返ってきた。


「すみません、突然来ちゃって。……もしかして、今起きました?」

「うん……」


 ぼんやりと首を縦に振った永海が、そのままカクリとうつむいて、口に手を当てて大きな欠伸をする。


 その拍子にサラリと揺れる、真っ直ぐで綺麗な黒髪。そこに寝癖は見当たらなかったが、欠伸と一緒にれてくる声は昨日よりもかすれ気味で低く、いかにも寝起きといった様子だった。


 ふと、この人も人間なんだな、と的外れなことを思う。いや、元から人間ではあるのだが。


 一度目線を一〇六の表札に向けた絃一郎は、合わせた両手の指を組んだりほどいたりしながら尋ねた。


「永海先輩、あの、良ければ一緒にお昼ご飯食べに行きませんか?」


 伴奏を頼まれた理由とか、先輩がやってる声楽について、色々お話聞きたくて。と、永海の部屋を訪ねた理由を手短に話す。


 すると、ほとんど空いていなかった目が丸く見開いて、永海はパチパチと二度まばたきした。


「……行ったら、伴奏者になってくれる?」

「な、なりませんよ。それはそれです」

「そっか」


 思わず身を引きながら答えると、永海がふふっ、と小さく笑う。冗談だったらしい。


「いいよ。行こう」


 そうはずんだ声で言った永海は、右手の親指を立ててみせた。




 昨日は車で通った商店街まで道を、二人で連れ立って歩く。


 おほり荘を出てからずっと、永海は上機嫌だった。最初はマフラーに鼻を埋めながら歌っていた鼻歌が、商店街に近付くにつれ、白い息を吐きながらの歌になる。



 ♪Caro mio ben, credimi almen,

  senza di te languisce il cor――



 少しだけあごを上げ、高くんだ青空へ聞かせるようにのびのびと歌う永海。


 大きく開いた口から出るのは、聞き慣れない言語の歌詞だった。

 それでも、深く長く息を吐き、ゆったりとしたテンポで歌われる言葉は、一つ一つがしっとりと胸に響いてくる。美しくも切なげなメロディと相まって、何かを天に願っているようにも聞こえた。


 永海が静かに一息つく、その歌が終わったであろうタイミングを見計らい、絃一郎は声をかける。


「綺麗な曲ですね」

「でしょ」

「何ていう曲なんですか?」

「『Caroカロ mioミオ benベン』」


 永海は、鼻先をマフラーの中に戻しながら答えた。チラリと見えた口角は、楽しげに弧を描いている。


「日本語だと『愛しい人よ』っていう意味。好きな人への思いを歌っている曲だよ」

「へぇ」

「いい曲だよね。切実な歌詞もいいし、それを真っ直ぐに歌い上げてるメロディもいい。基本的には下行形かこうけいの落ち着いたメロディなんだけど、途中で上行形じょうこうけいになるところがあって、そのつのった思いがあふれちゃう感じが好きなんだ。気分が乗るとつい歌っちゃうんだよ」


 よどみなく話す永海が、絃一郎の一歩前へと歩み出る。少し歩調が早まっているのか、足取りは軽やかだった。なんだか小躍こおどりしているみたいだ。


 その背中を見て、ふと絃一郎は思った。


「永海先輩が歌うと、『愛しい人よ』っていうより『愛しい音楽よ』って感じですね」

「そう?」

「はい。先輩ほど音楽を愛してる人、今まで会ったことありませんよ」


 永海の噂を耳にした時から、そして歌声を聞いてから、ずっと感じていることだった。


 永海は、音楽を愛して、音楽に愛されている人に違いない。


 そんな人が、好きな人への思いを込めた曲を愛おしそうに歌っているのだから、まるで音楽そのものへの愛を歌っているかのように思えたのだ。


 それを聞いた永海は、どこか遠くへ視線を向けて首の後ろに左手を回した。早くなっていた歩調が遅くなって、また隣へと戻ってくる。

 そうして、しばらく思考をめぐらせるようにしてから、やがて小さくうなずいた。


「……そうだね。ぴったりかも」


 抑揚よくようのない声で、永海が言う。その横顔は、少しだけ寂しそうに見えた。




 商店街へ到着し、その一角に店を構える定食屋で昼食を済ませる。


 絃一郎は唐揚げ定食を、永海はさばの味噌煮定食を食べながら、二人で――といっても、音楽の話になるとほとんど永海が一方的に話すばかりだったが――話をした。


 伴奏を頼んだ理由についても尋ねてみたのだが、結局「寺方くんの伴奏で歌いたいから」以上の理由を聞き出すことは出来なかった。

 どうしてそう思ったのか聞こうにも、この話題になると途端とたんに永海の喋りに勢いが増して、たずねる隙が無かったのである。


 ひとまず色んな話が聞けたから良かったが、伴奏を頼まれた件については進展無しか。


 なんて頭を抱えながら、楽しげに鼻歌を歌う永海と共に帰り道を歩いていると、パンダ公園の前を通りかかった。そこに見覚えのある姿があって、絃一郎は思わず足を止める。


「あっ、悠也くん達だ」


 パンダ公園では、滑り台で二人の子供が遊んでいる。黄色い耳当てを着けた男の子。紫のポンポンの耳当てニット帽に、フワフワのハートが付いたピンクのブーツを履いた女の子。悠也と穗乃花だ。


 奥の東屋あずまやには、悠也の母親とその友人らしき女性がいて、二人で何か談笑しているようだった。


 その足元には、小さな女の子がいた。悠也達とそう歳は変わらず、友達のようにも見えたが、滑り台を降りながら歓声を上げる二人から隠れて女性の足にギュッとしがみついている。


 そういえば、悠也の母親が「最近は友達とも上手くいってないみたい」って言ってたっけ。穗乃花は近所の子だろうという話だったし、みんなで仲良く遊べるといいのだが。


 そう内心ソワソワしながら見ていると。


「……どうしたの?」

「あ、すみません先輩。ちょっと、昨日の子達が気になって……」

「ふうん?」


 先に行ってしまっていたのだろう、永海が商店街の先から戻るように隣へやって来た。相変わらず鼻歌交じりだが、何だか落ち着いたバラード調の曲に変わっている。


 絃一郎の視線の先を追いかけた永海は、そそくさと一歩後ろへ下がった。もしかして、と思って振り返ると、音楽の話以外ではあまり動かない永海の口がわずかにへの字を描いている。


「……昨日から思ってたんですけど、永海先輩って子供苦手なんですか?」

「うん。出来れば近付きたくない」

「そんなに?」


 何か嫌な事を思い出したのか、永海が顔をしかめて言う。


「子供って、急に大きな声で歌い出したりするでしょ。……心臓に悪いよね、あれ」

「そ、そうなんですか……?」


 肩をすくめ、首を横に振りながら手で耳をふさぐ永海。


 確かに、突拍子もないことをする子供に肝が冷える、というのは珍しい話ではない。だが、急に歌い出すのが心臓に悪い、とはどういうことだろう。正直、永海の方がよっぽど所構わず歌っていると思うのだが。


 そんな疑問を抱いたが、永海が鼻歌を再開したので、絃一郎は仕方なく公園へと視線を戻す。


 すると丁度、女性に背中を押された女の子が足元から離れ、滑り台で遊ぶ二人へと近付いていくところだった。

 一緒に遊んでおいで、と促されたのだろう。だが、女の子の足取りは重く、表情も暗い。嫌々なのが傍目はためからも分かる。


 そこへ、悠也が滑り台から降りてきた。女の子はピタッと立ち止まってしまったが、それに気付いたらしい悠也が走り寄って声をかける。


 会話までは聞こえない。だが、二人の表情が次第に険しくなっていくのが見えた。


 あぁ、これは確かに、上手くいっていないな。


 そう思った直後。


「ウソつき!」

「ウソじゃないもん! 穗乃花ちゃん、一緒に遊んでくれるもん!」


 とうとう女の子が金切り声で叫んだ。言い返す悠也も声を荒らげる。途端に女の子がワァッと泣き出して、東屋にいる女性の元へと駆け戻る。


 その光景に、絃一郎は心臓を鋭いもので貫かれたような気がした。

 ドッドッと暴れ始めた胸の鼓動に呼吸が止まり、吹き出した嫌な汗に体が動かなくなる。


 あまりにも身に覚えがある叫びだった。


 一瞬にして、絃一郎の意識が六歳の頃に引き戻される。


『本当だよ! 千尋先生が教えてくれたの!』


 親戚しんせき達の前で初めてそうを弾いた、あの日。


 いくら絃一郎が訴えても、何を馬鹿なことを言っているんだと笑われたり、幽霊なんている訳がないのにと気味悪がられたり。箏を弾ける腕が身についているという確かな証拠があるのに、誰も絃一郎を信じてくれなくて。


 あの時の感覚が、まざまざとよみがえってくる。


 悲しさなのか悔しさなのかも分からない、冷たくて刺々しい感情が、胸に重くのしかかるような。何度言おうと届かなくて、最後には飲み込んでしまった言葉達が、容赦なく喉を締めてくるような。


 そんな苦しくてやるせない感覚を思い出した絃一郎は、気付けば悠也の元へ駆け出していた。

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