見える眼鏡

 ある高級ホテルのエントランスにスーツ姿の男が、小振りなアタッシュケースを持ってやってきた。

 その男は受付でやり取りをしてすぐに最上階にあるスイートルームへの直通エレベーターに通される。


 スイートルームには恰幅のいい初老の男性が、ウィスキーグラスを片手に葉巻を燻らせていた。

 傍らには秘書だろうか、美しい女性を侍らせている。

 いかにも財力をひけらかすような姿を部屋に入ってすぐ見せつけられたスーツの男性は、ほんの少しだけ不愉快そうに眉をひそめたが、すぐににこやかな笑みを浮かべた。


「いやぁご無沙汰しておりました。社長さん」

「……それで本当に持ち出せたんだろうね」

「貴方からの依頼であの会社に潜りこんで6年です。それなりに信頼は勝ち取れたとは思いますがね?いやはや、なかなかにガードが固い。やっと廃棄予定の試作品を一つ持ち出せたんですから労いの言葉くらいは欲しいものですよ」


 やり取りからするにスーツの男性はいわゆる企業スパイというやつだろう。

 どこかの会社から試作品を密かに持ち出し、依頼主である社長と呼ばれた男に引き渡しに来たのだ。


「それが品物かね」


 アタッシュケースに手を伸ばした社長からヒョイと一歩距離を取ると、スーツの男はチッチッとわざとらしく指をふった。


「おっと、支払いが先ですよ」

「……おい、振り込んでやれ」


 社長は秘書の女性に指示を出し、携帯端末から指定の口座に金を振り込ませた。


「確かに。ではこれが試作品になります」

「ふん、偽物じゃないだろうな」

「まさか……そこは私にだって矜持はありますよ。ま、企業スパイの矜持ですがね。では私はこれで失礼しますよ」

「待て。これはどういった品物なのだ」

「さて、詳しくは私も分かりませんがね?なんでも“夜の闇を見通す眼鏡”だとか」

「夜を……」

「いまやあの会社は“レンズレス”のおかげで業界ではぶっちぎりのトップだ。あんたの会社がその試作品をどう使ってシェアを奪い返すか……ま、楽しみにしてますよ」


 それだけ言い残すとスーツの男はさっさとホテルを出ていってしまった。


 ▽


「あーあ。依頼は依頼だったが、ぶっちってあの会社で働き続けりゃよかったなぁ。研究者供は頭のおかしなやつらだったが一緒に開発するのは楽しかったし……俺もかなり好き勝手やらせてもらったし……瓶底、元気にしてるかなぁ」


 スーツの男は自宅に戻ると、缶ビールをあけながら少し名残惜しげにぼやいていた。


「さて……社長さんはあの眼鏡をかけるかな?あの危険過ぎて廃棄になった試作品を」


 ▽


「いままでボツになった試作品ってやっぱりたくさんあるんですか?」

「そりゃもう!たっくさん!」


 ある居酒屋の個室に二人の女性がリラックスした様子でお酒と料理に舌鼓を打っていた。


 一人は瓶底眼鏡に普段の白衣からだぼついたパーカーに着替えた小柄な女性だ。

 フードつきのパーカーはなんとなく子供っぽい印象を与えてくるようだ。


 もう一人は普段のパリッとした黒のタイトスーツからややカジュアルなパンツスタイルのスーツに着替えた長身の女性。

 やや着崩したスーツはなんとなく色っぽい雰囲気があった。


 二人はある眼鏡会社の研究主任と眼鏡バイヤーで、いまやこうしてプライベートで飲みにでかけるほどの仲だった。


「例えば、マントル眼鏡とかぁ!」

「マントル?地球の?」

「そうです!地面を構成する物質を透過して地球の中心を見てやろうって眼鏡なんですけどね!一口に地面って言ってもそれを構成する物質は様々でして!不可視フィルターを重ねて重ねて気づけばレンズの厚みが20cm越えてましらぁ!」

「それはまた……」

「しかも!そこまでしたあげく“マントル自体”も見えなくなっちゃったんですよー!アハハハ」

「あぁ、結局は溶岩って地面が溶けたものですからね」


 かなり酒が入ってるのだろう。

 笑い上戸の研究主任の女性はハイテンションかつ早口に若干社外秘に触れそうな話を捲し立てていた。

 それを僅かに耳を赤くしながらもバイヤーの女性が聞きさばいていく。


「あとはぁ!私の先輩が手掛けたやつなんですけど!さいっきょうの暗視眼鏡をつくってやるって息巻いて造り上げた秀作があったんです!」

「それはなかなかに便利そうじゃないですか?」

「そうなんですけろぉ!」


 そこまで言ったあと研究主任の女性は、ふいに声を落とした。


「見えちゃったんですよ……」

「見えた?何がです?」

「見てるのが、です」

「?」


 酒で呂律のおかしくなっていた研究主任の女性が真面目くさった口調になる。


「深淵を覗くとき、また深淵もこちらを覗いているのだ」

「……ニーチェでしたか」

「先輩の眼鏡は見えすぎちゃったんです。夜の闇の向こう、遥か宇宙の向こうからこちらを覗いているナニかをその眼鏡は見つけてしまったんですよ」


 急なオカルト話に空気が変わりかけたが、研究主任の女性は再び酒に酔ったようにだらしなくニヘラと笑うと、「それで面白いのはれすねぇ」と続けた。


「先輩が言うにはれすねぇ!そいつも眼鏡をかけてたそうれすよぉ!しかもサングラス!」

「……与太話じゃないですか」

「えへへぇ、わかりますぅ?まぁ私も先輩からの又聞きれすしぃ!」


 ふとバイヤーの女性は疑問に思ったことを口にした。


「ところでその先輩とやらは何処に?何度か御社には足を運びましたがお会いしたことはなかったと思いますが」

「それがれすねぇ……半年くらい前に突然辞めちゃったんれすよねぇ」


 研究主任の女性は一旦言葉を切ると、唐揚げを口に放り込みビールを流し込んでから、残った言葉を軽く言い放った。


「その眼鏡を持って」


 ▽


 ある眼鏡会社が飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続ける傍ら、そのライバルと目されていた会社が倒産の憂き目にあったのは少しだけニュースになったが大して話題には残らなかった。


 ただ風の噂では、その会社の社長が精神病院に入院したのだとか、社員が発狂して設備を破壊したのだとか、そんなことがまことしやかに囁かれている。


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