めがね教授

野村ロマネス子

ボクと黒猫とおかしな集会

 窓の外で鳴いている小鳥の声で目が覚めた。何処かで聴いたことのあるような囀りはやけに鮮明で、もしかすると、夢の中で聴いていたのかも知れない。

 目を開けてすぐに黒猫オペラの姿を探せば、サッシがちょうど猫一匹分開いている。どうやらこれのお陰で小鳥の声がやけにハッキリと聴こえたのらしい。

 窓から見える早朝の街は、薄らと朝霧に包まれている。知らない街みたいだ。そう思うとそわそわしてくるから不思議。

 ボクはそわそわしたまま急いで身支度を済ませると、朝霧の中へと駆け出した。


 *


 細かな水の粒が前髪やまつ毛にまとわり付く。街灯の周りにできた小さな丸い虹を辿って歩いていると、いつの間にかいつもの公園に出ていた。ボクは百葉箱の扉を開いて中の計器を覗き、本日の数値を帳面ノートに書きつける。あとで郵便局に寄らなくちゃ。

 濃い緑色をした草の穂に水滴が並んでいるのをつついていたら、霧の中を誰かが近づいて来るのが見えた。

「何だ、きみじゃないか」

 艶のある黒瑪瑙オニキスの髪と、不思議な色合いの瞳には見覚えがある。何処で出逢ったのだったか思い出せないうちに、彼は、やっぱり見覚えのあるやり方で笑った。

「きみも来るんだろう? そろそろ、始まる」

 そのまま背中を向けるので、やっぱりこの感じは身に覚えがあると思いながら、何となく着いていくことにした。


 野外劇用に作られた舞台ステージの周りには、早朝にも関わらずお客さんが集まっていた。ボクと同じか、もう少し歳上の少年達が、御影石を削って造られた座席にぽつぽつと座っているのが見える。それにしては何処となく静かだ。普通、これくらいの年齢の少年たちが集まれば賑やかになりそうなものだけど。

 皆、手に色とりどりの飲み物を持っている。近くで売っているのだろうか。見回しても分からず、きょろきょろしているうちにポンと肩を叩かれる。

「ほら、はじまる」

 何が、と聞こうとして、しぃーっと人差し指を立てられた。

「来た。めがね教授だ」

 こそこそと、あちらこちらで密かな会話がかわされて、やがて、緞帳が上がる。

 舞台の中央には教卓が据えられていて、いつの間にか舞台袖に現れた老人が、ひょこり、ひょこりと歩を進めた。ずんぐりむっくりとした体格はワイン樽にも似ていて、どこかユーモラス。名前のとおり、鼻先には眼鏡が乗っている。

「こほん」

 中央にたどり着いた老人が咳払いをする。皆はしんとしたまま彼を見つめていて、確かめるように辺りを見渡しためがね教授が口を開いた。

「お集まり頂き、ありがとう。それでは講義を始めよう」

 めがね教授の語る内容は不思議で、どれも初めて耳にする事柄ばかりだった。周りの少年たちは皆とても熱心に聞き入っている。野薔薇の垣根の安全な通り抜け方について、新しいエノコログサの群生地について、これから柳絮りゅうじょの綿毛が飛ぶ季節になるので耳に入ってしまったらきちんと診療所へ行くように。

 首を傾げながら聴いていると、隣で彼がボクの腕をつついた。

「診療所だよ、きみも行っただろう?」

 それで、彼とは冬にささくれができた時に出逢ったのだと思い出した訳だけど、そう言えばボクは彼にきちんとお礼をしていない。

 陽が昇り、朝霧が晴れてくる頃、めがね教授の講義はお開きになった。

「最後に。諸君らは、ヒトから何かを与えられた時にこそ、きちんと礼をすることを心掛けるように」

 まばらに立ち上がる少年たちの姿がいつの間にか消え、隣にいた彼までも挨拶もなく居なくなっている。

 ボクはしばらくぼんやりと座り続けていたものの、郵便局に寄るつもりだったのを思い出して立ち上がった。


 帰り道、ふと覗いたいつもの惣菜屋デリカのショーケースに新作の札のついた麺麭パンがあるのを見つけた。無花果フィグ入りの麺麭。こういうの、きっと彼は好きなんじゃないかしら。

 つい買ってしまった麺麭の紙袋からほのかな温かさを感じる。動き出した街の中を、ボクは少しだけキョロキョロしながら歩き出す。

 部屋に帰り着くと扉の前には黒猫が行儀良く座って待っていた。

「お散歩はどうだった?」

 声をかけながら鍵を開け、一緒に戸をくぐる。無花果入りの麺麭は、ボクが脱いだ帽子を壁に引っ掛けているわずかな間、すぐさま黒猫に見つかり、紙袋から引っ張り出されてしまう。

「オペラは本当に新しいものが好きだねぇ」

 思わず溢れてしまった言葉に、黒猫はヒゲをヒクヒクと動かしてから、得意げに「に、」と短く鳴いて応えた。


 *


 それから数日が経ち、ボクは街の路地裏で、或る一匹の猫の姿を目にする。

 ずんぐりむっくりとした体格の白い猫は身体に幾つかの模様があり、そのひとつが、まるで鼻先に眼鏡を乗せているように見える。

 食堂の裏口にきちんとお座りしている姿は落ち着いていて何となく気品があった。彼はボクの姿を認めると、ふくよかな前脚を二、三度舐めてから尻尾を一度だけパタリと振る。そうして現れたお店のご主人が振る舞うご飯を食べる前には、きちんと頭を下げてから、食べ始めるのだった。

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