白秋

宵埜白猫

白秋

 縁側に腰掛けると、まず思い出すのは隣に座る妻の横顔。

 いつ見ても穏やかな顔で、時に庭を駆け回る子どもたちを、時に満開の桜の樹を、またある時には降り積もった白い雪を眺めていた。

 季節問わず、私と妻の間には湯呑が二つとお茶請けの和菓子。

 何を語り合ったかは一つも覚えていないが、妻のその表情だけは今でも鮮明に覚えている。

 妻と出会ったのはまだ学生だった頃。

 私から告白して付きあったものの、手に触れることさえ気恥ずかしく、ただ並んで歩くだけの三年間だった。

 覚えていることといえば、妙に清々しい夏の青空、自転車のタイヤが回る音、それから隣をあるく妻の足音。

 今思えばあんな退屈な男をよく振らなかったものだ。

 当時にしては珍しく大学に行った彼女が、ハイカラな都会人たちに染まって遠くへ行ってしまうのではないかと考えた時期もあったがそれも杞憂だった。

 彼女の方から毎週末、互いの休みを見計らって電話を掛けてきてくれたお陰か、見てもいない彼女の大学生活の思い出は色鮮やかな記憶として残っている。

 四年経って、彼女が大学を卒業した時、密かに貯めていた給料で指輪を買いプロポーズした。

 跪く私の前で、妻の頬を水滴が伝う。

 妻の涙を見たのは、それが最初で最後だった。

 式は田舎で、家族や友人が集まってくれた。

 あんなに祝われる経験は今振り返っても思い当たらない。

 まさに人生最良の日だ。

 子どもたちが生まれてからはあっという間で、子育てと仕事に追われていた。

 その中でも確かに幸せを感じられたのは、妻が変わらず縁側に腰掛け、一緒に湯呑を傾けてくれたからだろう。

 一番下の子が自立して、久方ぶりに妻と二人だけの家になってからは、新婚時代よりも二人の時間が増えていった。

 行ってみたかった場所に旅行をしたり、食べてみたかったものを食べたり。

 あんなに充実した時間はない。

 それももしかすると、お互いが心のどこかで、自分か相手の死を意識していたからかもしれない。

 妻が先に逝ってしまった。

 最近の映画やテレビでは、大切な人を失うと世界は色を失くすかのように描かれる。

 あれは嘘だった。

 どれだけ一人で泣きじゃくろうと、現実を否定しようと、色は消えたりしなかった。

 むしろ私は、より鮮明にそれを感じるようになった。

 妻と歩いた青空。妻が見つめる桜の色。湯呑に入った緑に、お茶請けの黒。

 困った。

 どの色にも妻がいる。

 他愛もない時間、というのが自分たちにとってどれだけ愛しい物だったのかを、今この歳になってやっと気づいた。

 私が逝くのは明日かもしれないし、一年後かもしれない。

 それまでもう少し、妻が着けてくれた人生の色を味わおう。

 妻と私の間に置かれた湯呑の一つを傾けて、そんなことを、一人思った。

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白秋 宵埜白猫 @shironeko98

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