34 王子とベルタ


 早朝のアデリナの寝室には、侍女ベルタの小声ながら驚嘆を含んだ声が響く。


 「えっ!!?ぜっ、全部お読みに…なった?……それは……えー…、ロベルトが昨夕ご用意した王子様用の本を全て読み終えた、という事で合っておりますか?」


 ルラント邸内で大声を出すことのないベルタだったが、出だしの声をつい張ってしまい自分で自分の声に驚き、思わず口に手を当ててしまう。

 王子が長期滞在する事が決まり初めて迎えた朝、幼い子供達が眠るであろうと想像しながら足を踏み入れた寝室の様子は、普段と違っていた。

 一夜明け改めて対面した王子の美しさに息をのみ、言われた内容に驚き…と心の乱高下はなかなかのものだったが、その度に己を落ち着かせ丁寧な対応を意識した。



 現在アデリナの世話は八割程度までがメルに引き継がれ、ベルタの管轄から徐々に離れつつある。

 そのため早朝にアデリナの部屋へと向かう心持ちは久し振りで、そうそう前のことでもないのに新鮮という不思議な感覚を覚えながら廊下を進んでいると、角を曲がった所で先を歩くメルの後ろ姿が見えた。


 「おはようメル」

 「あ、ベルタさんおはようございます!」

 「奥様との業務変更の話し合いも遅くまで続いたのに早いのね」

 「ええ、王子様の分の湯の準備もありますから」

 「そうね、それに他にもどんな不測の事態があるか分からないし」

 「まあ、そうですね…未だに現実味も無いですし。でも!またしばらくベルタさんと一緒に行動出来るんで嬉しいです!」


 肩まで切り揃えられた髪を揺らし、そう言うと屈託ない笑みを見せたメルは、ベルタの数歩前を足早に歩き、到着した先の扉を開いた。

 この家の風習で子供が五歳の誕生日を迎えると『乳母離れ』という、身の回りの世話のほとんどが乳母から専属の侍女へと引き継がれるという慣わしがあり、現在アデリナも乳母離れの真っ最中である。

 元々は隣国皇族の風習で、三代前の夫人が幼い頃に当たり前にしていたものを自然と取り入れたのが発端だが、伝統として今も引き継がれていた事により、最近のアデリナの世話はもっぱらメルがおもとなってメイド達と共に行われていた。

 そんな時期に突然決まった妖精王子の滞在…となれば、その秘匿や特異性から王子の世話や対応は自ずと夫人専属侍女でアデリナの乳母でもあるベルタの役割になるのは必至であった。

 王子の滞在期間は再びメルと共に子供達の世話に従事しながらアンナの補佐をするのだが、昨夜アンナから当分はアンナの補佐は不要だとも言われたが、せめてアデリナと王子の就寝後などの手の空いた時間だけは世話をさせて欲しいと、頑として譲らなかった。


 廊下で他愛ない会話を交わしていた二人だったが、アデリナの部屋に入る直前には自然と口を閉じ気配を感じさせない動きで歩く。

 着替えや洗顔などの準備が全て整い、尚且つ起床時間になるまでは就寝中の子供達を起こすことのないよう配慮し動くのが常な二人は、無言のまま静かに寝室へ繋がる次の扉を開き左右に分かれ各々の役割を行う、というのがいつもの行動……な筈だった。


 普段通りなら寝室に入った途端二手に分かれ、メルが洗面所で洗顔に使う湯の準備を始め、その間にカーテンと窓を開け空気の入れ換えをするベルタだが、この時は通常といささか様子の違う室内の雰囲気に、ベルタとメルは無言で視線を見合わせる。

 暗い室内で、そこだけ不自然に下の部分だけが広がるカーテンからは朝陽が照らしていた。

 手前にあるベッドで肝心のした部分は見えないが、昨夜閉じたはずのものが開いている事実に警戒しながら、メルは大の字でぐっすりと眠って寝息を立てるアデリナを確認して安堵し、そんなメルを背で庇うようにベルタが立つ。

 ここまで音も立てず素早く動いた二人は、外から差す太陽光による逆行で影になっていた足元へと自然に視線を落とした。

 すると、床に尻を付けカーテンの隙間から入る光を頼りに、大きく重い年代物といった装丁の図鑑を両方の太股ふとももへ乗せ読んでいたらしい王子と視線がぶつかった。


 「お、王子様!?」


 不審に思いながらも確認した足元に、まさか王子がいるとは思わず動転し一瞬だけ大きな声が出てしまったメルだったが、即座に口に手を当て振り返り、背後にいるアデリナが今も気持ち良さそうに寝続けているのを見てホッと胸を撫で下ろす。

 そんなメルとは真逆で無言だったベルタは王子の姿を確認すると、一瞬息を飲んだものの即座に王子と同じ目線まで身をかがめて落ち着き払った様で王子へと対応する。

 そのやり取りを窺っていたメルも特に問題も内容に思い、洗顔用の準備に取りかかろうと浴室へ続く扉へと向かった。一方しゃがんだ姿勢のベルタはというと、床に座る王子へ『お早く目覚めたのですね?』と声を掛けながら周囲に散らばるように置かれた数冊の本の存在に気付き、それらを拾い上げた。


 昨日アンナが自ら選んだ、分野も対象年齢も様々な男児や青少年向きの本の数々、それに混じって幾つか学者などが好みそうな難しい図鑑もあったのが自然と脳裏に浮かぶ。

 パッと見でも滞在が一ヶ月だと、いや大人ですら半年あっても読破するのは到底困難と思われる量と厚みと複雑な内容に思えた。しかし、目の前の王子はそれらが気になり早く目を通したいがために起きたのかもしれないと考え、その旨を尋ねてみたが……。



 「寝る前に一通り全て読み終えたので再度読み直している」



 ベルタへ向けて返されたのは想像だにしない返答だった。



 「えっ!!?ぜっ、全部お読みに…なった?……それは……えー…、ロベルトが昨夕ご用意した王子様用の本を全て読み終えた、という事で合っておりますか?」



 結果、先程メルの放った大声より一段大きく驚きを含んだ声を発してしまった。

 しかし、思わず張り上げてしまった声に気分を害した様子も見せず、静かに首肯しゅこうした王子の見た目の幼さと相反する落ち着き具合いに、ベルタは一つ息をいて自身も平静を取り戻す。


 「失礼いたしました。ご挨拶が遅くなりました。おはようございます王子様、朝の身支度に参りました」


 改めて頭を下げるベルタ。


 「王子様、少し早いのですが、先にお顔を洗ってお召し物を替えましょうか?その後に読書をお続けになっても宜しいかと」


 その言葉に、王子は若干不思議そうな顔でベルタをじっと見つめる。昨夜、風呂から出て寝間着に着替える際にも似たような表情をしていたのに思い当たったベルタは『もしかして衣類を着替えるのに抵抗があるのだろうか』?と思い一層優しく尋ねる。


 「お召し物を替えるのは好みませんか?そうでしたら、本日は夜の入浴時間までお召し替えを控える事も出来ますよ?」



 (妖精様や精霊様は着替えをする事がないのだろうか?それとも人間の手を借りて着替えるのが良くないのだろうか?)



 今日も食事以外はアデリナの私室で二人で過ごす予定となってはいる。



 (病でもないのに寝間着姿で過ごすのは貴族家での客人の行儀としてどうなのだろう。否そもそも妖精に人間の価値観を当てて考える事自体が……)


 云々と文化(?)の違いを考え出したが、昨日も夜遅くまでアンナとベルタは妖精王子の対応についての話し合いで頭を抱えた。

 結果、答えなどではしなかったのを教訓に、今朝からははなから深く考えず疑問に感じた事には即座に訊ね動く事に切り替える事となったのだ。

 しかし、ベルタの『お伺い』と『提案』に王子はブンブンと首を振って何やら考える様子を見せてから顔を上げ、ゆっくり口を開く。



 「………もしかして、温室に行くためには『温室専用』の着替えが必要?」



 と逆に疑問を投げかけてきた。自身の着ている寝間着とベルタを見ながら惑っているように見える王子の表情は至って真面目だったが、問われた不思議な内容にベルタは意図が分からず首を傾げた。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 起きたばかりにも関わらず、入室したベルタからの召し替え発言に驚いた王子は、昨夜読んだ書物には『着替え』についての記載は全く見当たらなかったと思考を凝らす。


 (着替えは昨夜、寝る前にしたばかりじゃないか……あれから寝台に横たわる以外の事はしていない。まさか人間達にとって日に何度も行う衣類の変更は、妖精達が自然に浮遊しだすのと同じくらいに当たり前の事で態々わざわざ記す事柄でもないのだろうか?)


 瞬時に着替えについての記憶を思い起こすと、いつかの日記でアデリナが【庭歩き用のエプロンが小さくなったので新調した】と書いていたのを思い出した。

 それに連鎖するように、同じく日記帳に記される事が最近多くなった【温室】という建物で過ごす楽しげなアデリナ。裏庭やそこにある大きな木は当然知っているが、温室に関しては行った事がないため日記で書かれている範囲での事しか知らない王子 。

 普段アデリナが過ごし日記にも度々出てくる幾つかのお気に入りの場所は全て興味があり、中でも温室は今一番気になり行ってみたい場所でもあった。




 昨夜、夕食が終わり二人しかいない寝台の上で植物図鑑をめくっていると、隣で自身も違う本に目を通していたはずのアデリナが突然覗き込んで、今開いたばかりのページに描かれている花を指差し身を乗り出した。


 「あ、これエドガーが温室で育てている木だよ!私見たもん!お花が咲いているところは見たことないけど絶対そう!」


 得意気に言い放った後にハッと何かを閃いた顔をしたかと思えば、正面から見合うように体勢を向き直したアデリナが僕の右手をギュッと取った。


 「そうだ!明日一緒に温室まで行こう!私が案内してあげる!」


 名案とばかりにそう告げ、ニコニコと嬉しそうに笑いながら元の位置にポスンッ!と戻った。




 つい数時間前の就寝前に交わしたばかりの他愛ない約束事。


 しかし、もし温室に行くための専用服があるなら昨日急遽この屋敷に世話になる事が決まった自分が着れる温室専用の衣服など無いかもしれない。

 アデリナが嬉しそうに提案してくれた申し出を果たせなくなったらどうしよう……。

 行けないなんて言って、また泣かせてしまうかもしれない。そう思い至ると、残念さと困惑さがぜになった苦い気分が込み上げ、思わずベルタを見上げて温室専用服についての疑問を口にしていた。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 王子からベルタへの不思議な内容の問い掛けと、たった数時間で読み尽くしてしまった多くの書物の事は、直ちにベルタから主人であるアンナに報告がなされた。

 そして数時間後の朝食時間も終盤に差し掛かった朝の八時。


 「王子様は温室に興味がおありなのですか?」


 アデリナの部屋で二人と朝食を共にしているアンナが食後のお茶を飲みながら、運ばれてきた甘味へと視線を奪われている王子へと頃合いを図り尋ねた。



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