33 精霊王の再訪は未だなく


 

 僕がルラント家に世話になり始めて今日で四十六日目。ひと月程で迎えに来ると言っていた王様の姿もなければ、元の姿に戻る気配も感じられない。

 アデリナの父クラウスや庭師長のエドガーと夜の温室に向かった日からは既に一ヶ月以上が経ち、妖精の姿でいた時に近い力も僅かながらに増えてきているのが分かる。

 夜の温室へと向かったあの日は、目が覚めから全く違った。昨夜まで自身を覆う重いだけの肉の塊といった感覚は薄れ、軽くなっていた。

 もちろん元の姿の時より重さはあるものの、常に違和感があった肉体が不思議と馴染む感覚に併せ、微弱ながら元の姿に近い力がどこからか流れてくる気がした。



 王様が消えた後の僕の身体は、王様と並び座っていた時より一段と重くなり耐えきれず傾いた。その姿に驚いたアデリナと周囲がざわめきの声を上げた中で、アデリナの母アンナだけは落ち着いた声で僕を二階にあるアデリナの寝室へと運ぶようロベルトへ指示をした。


 壊れ物でも扱うような丁寧な仕草で寝台へと下ろされた重い身体に布が掛けられると、それまで閉じていた目をゆっくり開く。

 先程屈んだ体勢からロベルトに抱き上げられた直後、重さに付随するような多少の息苦しさに耐えきれず、目を閉じた僕の耳に夫人の聞き心地の良い声が届いたのを、今でも覚えている。


 『今の状態で一人での寝起は不安でしょうから、王子様の専用部屋を用意し終えるまではアデリナの部屋で一緒に過ごして頂きましょう』


 重くなった身体に引き摺られるように、混乱で真っ白になった直ぐ後にあの言葉が聞こえたお陰で、人間の世界に放り出された不安の半分が吹き飛んだように思う。

 アデリナが共にいる事を思い出し、その隣に居ることを快く受け入れてくれる言葉が耳に入ると、いつの間にか強張って握りしめていた手の力が一気に抜けた。


 その後は、倒れた僕の姿に驚き泣きじゃくった後の真っ赤な顔で様子を見に来たアデリナと寝台の上で隣り合って座り、枕に身を預け脱力気味の僕を気遣ってか、アデリナは自身のお気に入りだという絵本や図鑑それから僕の渡した日記を広げて見せたり、読んで聞かせたり、と絶え間なく賑やかに話しかけてきた。

 今は二人きりの方が良いだろうとの気遣いにより、時々ベルタとメルが交互に様子見には来る事はあったが、夕食の時間になるまで誰もいない寝室で嬉しそうなアデリナの声を聞きながら過ごした。

 思えば他の妖精たちに邪魔されず二人きりでいたのは、この時が初めてだった。そう気付いた途端に嬉しさが増した気がしたのは何故だろう。



 「ねえ、アデリナこれは?」



 とある長い文字に指先を置いて指し示すと、アデリナはウンウンとうなった末に頭を抱え出し、やがて『えーっとえーっと』と言い出す。

 そんな会話の最中さなか、そっと開かれた扉の気配に気付いたアデリナが顔を上げると、パッと表情を明るく変化させ扉の方に向けた。


 「ベルタ!あのね、これ何て読むか教えて欲しいの!」


 丁度良い所に来たとばかりに、アデリナが読んでいた図鑑の中身を歩いてくるベルタに見せるようにして聞き、尋ねられたベルタの方も自身に向けられた本に視線を移しながら首を傾け近付き話す。

 ベルタの後ろでは続いて入室してきたメルが、夕食の準備のためか動き回っていた。


 「これは…【グロンドアーク共和国】ですね。共和国に群生する草花に関しての文ですが……」

 「王子がね、何て読むのか知りたいんだって」




 ◇ ◇ ◇ ◇




 入室した途端問われた内容に、草花自体への興味はあっても群生地など今まで全く触れてこなかったアデリナに不思議そうな顔を向けるベルタだったが、すかさずアデリナが言葉を足してくる。

 まるで弟の世話を焼く姉の気持ちとでもいうのか、自分が他人の役に立つ事があり嬉しそうといった様子が窺えた。実際ベルタの目には兄の周りで世話を焼く妹のように映っているが。


 「もしかして王子様は、簡単な文字はお読みになられるのですか?」


 妖精の王子様が、一部の国の人間が使う文字など読んだりするものなのか疑問に思い尋ねたベルタの問い掛けに、こちらを見上げた王子がコクッと首を小さく縦に動かしてから短く答えた。


 「アデリナの日記に書かれた『文字』は全て覚えました」


 そう答えた後、付け足すように王子が口を開く。


 「他にも『計算』というのも知っています」


 王子の意外な言葉に、日々の事柄を綴る日記帳にアデリナは計算式を書いたのか……と予想外とも『こんな事が出来るようになったよ!』との報告をアデリナならしてしまいそうだとの納得もしてしまう事に、内心で苦笑いしながらベルタが王子の目線に合わせて腰を落とす。


 「王子様、本に目を通すのはお加減に差し支えなどないですか?」


 再び小さく首肯する王子。


 「それでは、お疲れにならない程度に本をお読みになりますか?」


 ベルタの問いに僅かに目を見開いてから頷く王子からは嬉しさが伝わり、ベルタと後ろで作業をしつつ様子を見ていたメルは微笑ましい気持ちになって目を細めた。


 「本に関して奥様にお伝えして参ります」


 ベルタは一礼すると作業中のメルを残し寝室を後にした。





 その直後ベルタから報告を受けたアンナは、夕食前に自ら図書室に向かい王子の好みそうな内容が分からないのもあって、多種多様な分野の書物を多めに十冊余り選び、それを夕食の間にアデリナの寝室へ運ぶようロベルトへ指示した。

 冊数も厚みもそれなりにあるが、当主であるクラウスが帰って来るまでの数日間、軽く目を通せば何となくでも王子の好みが知れるだろう…そんな軽い気持ちで選んだアンナと、一冊一冊が結構な重さのある本を抱え歩きながら、同年代に比べ読むことに長けているアデリナでも困難そうな内容の本が何冊か混じっているな……と普段はアデリナの先生も兼務しているからかロベルトは思う。

 しかし翌朝の状況は、双方共に考えていたのとは違うものなっているのだった。




 翌朝ーーーー。




 まだ眠っているであろうアデリナの寝室の扉を静かに開けたベルタとメルは、いつもと同じようにベッドですやすや眠るアデリナとは反し若干異なる室内の様子に気付く。

 昨夕完全に閉じたはずのカーテンに少しだけ隙間が出来ていたのだ。そこから漏れる朝陽に自然と注意を向けた二人は、窓付近の床に差し込む朝陽に照らされた王子がガラス窓にもたれた体勢で、膝に大きな本を乗せ読み耽っているのに気付き目を見張る。


 「お、王、子…様?」


 熟睡中のアデリナを起こさないように配慮しつつも、予想外の事に驚き王子へと近付くベルタとメルに、読んでいた本から視線を外してゆっくり見上げた王子の顔は、まさに神々しく輝くような美しさでベルタとメルは思わず息を飲んだ。





 ◇ ◇ ◇ ◇




 ベルタとメルが入室する約一時間前ーーー。



 バサッという音で目覚めた王子の目に飛び込んできたのは、見慣れぬクリーム色の天井だった。

 右隣から聞こえてくる小さな寝息に気付き目を遣ると、掛布を蹴ったような寝相のアデリナがむにゃむにゃと気持ち良さそうに寝ている。

 おそらくアデリナが掛布を蹴った音によって目が覚めたのだろう。


 (ああ…そうだ…。人間の姿になったんだった)


 自身の手を天井へかざし仰ぐように見ながら、特に気落ちするというわけでもなく事実としてそう確認すると、改めてアデリナに視線を移した後に上半身を起こして薄暗い部屋を見渡す。


 「………」


 自身の身を包む着慣れない衣服に気付き、昨夜の就寝時間前ベルタとメルが部屋に来たかと思えば、寝る準備というのを始めたのを思い出す。

 居間に出る扉とは別に、寝台から見えるもうひとつの扉の向こうへと連れていかれると、生まれてから初めての水遊びとは全く違う『風呂』というものに入った。

 その後は綿毛のようにフワフワとした布で水気を丁寧に除かれてから、これまた初めて寝るのに必要らしい『寝間着』を着たのちに、やっと先に風呂を済ませたアデリナのくつろぐ寝台へと戻ることができ大層ホッとした。


 湯に浸かり終えて、気怠けだるく感じる身体を枕に身をうずめ、目を閉じぼうっとしていた僕の耳に『今日は王子様もいらっしゃいますし枕元の灯りはしばらく点けておきますね』というベルタの声が聞こえ、それに返事を返すアデリナの声も聞こえてきた。

 二人のやり取りする声が思いの外小さかったのは、多分身動ぎすることなく目を閉じている僕が眠っているとでも思っていたのだろう。

 妖精の姿の時には灯りなど不必要だったが、人間の身体は暗闇の中では何も見えないという事が分かったため、灯りをそのままにしてくれたのは有り難いなと思いながらも、重怠さから感謝を口にする事はないまま目を閉じ続ける。


 とても疲れていたようで、メルに布団を掛けられる側からあっという間に寝てしまったアデリナとは反対に、目を閉じている間も肉体の重さもあって眠気がこなかった僕の方は、ゆっくり目を開きサイドテーブルの上に置かれた本へと手を伸ばし、しばらくそれをめくる事にした。

 そうして最後の一冊に目を通し終わると、流石に身体自体が限界だったのだろうウトウトと目蓋が徐々に重くなるのを感じ、すうっと心地よく意識を手放した。


 時計の針が丁度零時を指し示す頃には枕元の灯りもフッと自然に消え、静寂の中に幼い二つの寝息だけが小さく聞こえる。








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