24 5歳秋、ルラント家当主の祈り②
初春と初秋に行われる【祈り】を伴う特別視察。
広いルラント子爵領内はざっくりと四つの区域に分けられており、
この視察が【特別】と称されるのは領主が、季節ごとに必要とされる畑や農園の土へと直接手を当て【領主の祈り】というルラント家に代々伝わる儀式ーー?呼ぶほど見た目は仰々しい事などなく、いたって地味そのものだが、豊穣の助けになるという作業がなされる
領主の祈りがあるのとないのとでは『作物の成長や収穫量に相当の差がある』とアンナ自身、婚姻前に同行した春と秋の特別視察で農業に従事している領民達から効果のほどを直接聞いた。
その期間も決して短くもなく、行き帰りの道も悪路が多い視察に足手まといになる懸念も抱え婚姻前の貴族の娘が二度も行ったのにも、春と秋で祈る畑や農地が異なるという理由がある。
近隣の領地から嫁いできたアンナではあるものの、アンナの生まれ育った領地は石や岩の多い土地で農業向きではなく、鉱山やそれに付随して産み出される物での収益で成り立つ土地のため、農地を見て回る事に興味もあり、子爵家での花嫁修行中に無理を押して共に巡ったのだ。
「お母さまは、もう一緒に行かないの?」
「私が特別視察に同行するのは、作業して回るのに効率が悪いのよ」
アデリナの素直な疑問に『ふふっ』と困ったような笑いをこぼしながらながら返す。きっとアデリナは近所にでも出掛けるような感覚でいるのだろう。
ルラント領は国内でも一番広大な土地を有している。郊外にある農地も広い上に、全ての農地までの道が移動に適した平坦であるわけでもなく、その移動距離の長さや言うまでもない。
効率よく機敏に動ける騎馬で移動をし、視察の合間に季節毎の報告を受ける定例会議も行われ、天候次第では泥にもまみれる事も多々ある。時間の差は出るものの短くても十日から二週間程度の期間は常に時間に追われているのだ。
もしアンナが加わると、なんやかんやで更に一週間は延びてしまう……このような考えも、あの時無理矢理に付いていったからこそ出るのだと思えるので、当時周囲の反対を押しきってした行動に後悔は微塵もない。
更に当主夫妻が揃って不在になると様々な仕事が溜まってしまう為、どう考えても効率的ではない。その代わり特別視察前の夏の収穫作業が終わり落ち着いた頃、四人の領地補佐役の夫人達や領内の主要商家の夫人等を子爵邸に招き、女性目線の気付きや意見交換をするお茶会を開くのがアンナの女主人としての大切な役割である。
「アデリナがもう少し大きくなったら分かるわ。いつか、お父さまに同行する日が来るからね」
「じゃあ、私も【おいのり】出来るようになる?」
「もちろん!アデリナも立派なルラントの子だもの。もう少しお姉さんになったらお父様のように、領民のみんなのお手伝いをしてあげてね」
「うん!」
母の言葉に目を輝かせ大きな返事をする。
「りょうしゅの、いのり?…かぁ、どんなのかな?」
再びテーブルに頬杖をつき、夢心地のような顔で想像しだす娘の姿に口許が緩む。
「そういえば、お父様はお祈りを捧げる畑の土に手をついて目を閉じていたわね。後になって『あの時何を考えているの?』って聞いたら『この土地に豊穣の加護をって祈っているんだ』って教えてくれたわ」
「………このとちに、ほうじゅ…ほうぎょ…ほっ、ほほっ」
クラウスの言葉の真似をしたいらしく、小さな声で何度も挑戦するアデリナだが、正しく言葉を言えるより舌を噛んでしまう方が早いように思え、アンナは笑ってはいけないと我慢するため咳払いをして助言する。
「っんん!アデリナ、お父様がお祈りしているのは…そう、そうねぇ……あ!そうだわ『土さん健康になってね、元気な作物が育ちますように』って事だと思うの」
「げんき?」
「そうよ、わかる?」
「それなら私わかる!いつも種や苗を植えるとき『大きくなると良いな』って思っているから」
「そうなの?とても素敵だわ、それだからアデリナの植物たちは幸せそうに元気に育つのね」
アンナに褒められ、頭を撫でられると得意げな顔で『えへへ』と照れ笑いを浮かべる。
それから、ふと目の前にあるガーベラの鉢植えの土部分に目を留め徐ろに小さな両手をその土の上に、添えるようにそっと乗せてると今しがた母が言っていた言葉を発する。
「土さん健康になーれ!ガーベラさん元気になーれ!」
瞬間、溌剌と響くアデリナの声に呼応するように、目の前の四つの固く結ばれていたガーベラの蕾たちがひとつ、またひとつ満開といえるまでに開ききっていった。
「や、やった!ひらいたぁ!わーい、お母さま見て咲いたのー!」
「………はぁ…」
たった今、美しく咲き揃った花の前には、貴族の子とは到底見えない行儀など放り出し椅子の上で軽快に飛び跳ね喜ぶ娘と、もはや夫妻と側近達の定番のポーズになりつつある、額に手を当て溜め息をこぼす母の姿がある。
朝食前にも関わらず長い一日になりそうだと側近を呼ぶための魔導具へと手を伸ばした。
◇ ◇ ◇ ◇
朝の水晶ガーベラに施してしまった、アデリナの【領主のお祈りごっこ】のような時間から、八時間が経過した子爵家の昼下がり。
予測不可の事態ではあったものの、クラウスが不在の現在当主代理を任されているアンナは、これまでアデリナの周囲で起きたことと今朝の事柄を照らし合わせ、警備も十分だしテーブルの上で収まっているのだから、クラウスの帰宅前に大仰に騒ぎ立てる程の事案でもないと即座に判断をした。ガーベラが勝手に歩き出したのなら大問題だろうが。
またしても起こった頭の痛い事に深く考えるのを止めた、いや先延ばしにしたといってもあながち間違いでもないだろう。
側近其々が、夫人執務室・朝の報告業務で廊下を歩いている…・アデリナの部屋で必要な物を用意中…等の行動の最中だったロベルトとベルタとメルは、朝のバルコニーへの召集に『またかな…』と急ぎ集まり、アンナと同じく溜め息を吐きアンナと同じように急ぎ当主に知らせるまでもない事に同意した。
因みにレナードはクラウスと共に視察に出ている為、知らぬ間に丸投げされた新たな問題を知り、帰宅してから間も無く頭を抱える事になるのだろう。
というわけで、今朝の件は視察中のクラウスに魔道具での伝言を
アデリナが読み終えた本を元の場所へ戻し、新たな本を持ってこようとアデリナの部屋へと向かったメル、そして、もう少ししたら一息吐こうとのアンナの言葉を受けて、茶菓子を用意するため厨房へ向かったベルタ。
そんな二人を待ちつつ当主夫人専用の執務室の机で書類を処理するアンナと近くのソファーで好きに過ごすアデリナ、そんないつもと変わらぬ穏やかな時間を過ごしていた。
そんな中ーーーー。
ドォォォォォォン!!!!!!!
書類へと顔を落とし視線を伏せていたアンナ、その近くのソファーで日記を書いていたアデリナは突然の轟音と地響きに驚き顔を上げた。
一方で不思議なことに屋敷内を行き交う使用人たちには、アンナ達の居る部屋ほどの揺れは感じられず、ほんの一、二秒微かに揺れたような気のせいかと思うような程度の些細な揺れでしかなかった。
「……これは、どういう…こと…?」
先程の轟音と大きな
◇ ◇ ◇ ◇
一階に位置する裏庭に面したアンナの執務室の窓の外、白く美しい細工のされた
「お、かあさ…ま……」
無言の母の様子に不安を感じたアデリナが、いつの間にかアンナの傍らに立っていた。慣れ親しんでいる自宅の大惨事に、いつもは元気いっぱい天真爛漫なアデリナも、見たことのない怯えた目でギュッとアンナのドレスにしがみつき、顔をうずめ震えている。
「アデリナ、大、丈夫…大丈夫よ……」
娘にも自分自身にも言い聞かせるように、身を屈め娘の頭をなでて落ち着かせるため同じ言葉を繰り返したアンナは、何かを決心するかのようにゴクリと喉を鳴らしアデリナを再びソファーに座らせ話す。
「すぐにベルタとロベルトが来てくれるから、それまでここから動かないようにね。メルが先に来た場合は一緒にソファーから離れない事!いい?出来る?」
いつにない真剣な顔で言い聞かせる母の気迫に言葉も出ず、ただ大きく肯定の頷きをし、自身のワンピースの裾をギュッと握りしめ成り行きを見つめる。
アデリナから離れたアンナは、執務机にある呼び出しベルに魔力を通し軽く振一振りすると、ドレスの裾を
ギ、ギィィィー
……と小さな聞き心地の良くない音を立てながら外開きのガラス戸が開いた。
元々このような重い開閉音などしなかったので、大きな衝撃のせいで扉の何処かが歪み、動作に支障が出たのかもしれない。ドアノブに手を掛けかけるような体勢のまま、扉から歩幅一歩分すら離れていないアンナは、開き始めた扉に警戒し直ぐ様後ずさる体勢になったが。
「済まないね、奥方。先にもう少し丁寧に運ぶよう注意すべきだったよ」
扉が開くと共に聞こえてきた男性と思しき、外の惨状とは真逆の呑気とも應揚ともとれる声色や言葉が聞こえてきた事で、更に警戒を強めたアンナの目に、扉のガラス越しの時には確かになかったはずの、現実味を感じられない程にキラキラと光を帯びた粒に覆われた【何か】が、徐々に人間の形として姿を現し出した。
その【何か】……いや【何者か】のあまりに現実離れした出で立ちと存在感に、夢でも見ているのではないか…とアンナは言葉も出せず凝視し圧倒されてしまう。
目を見開いたまま息をするのも忘れ、固まるアンナとは対照的にその男は悠然とした笑みを浮かべ喋り続けている。
「折角の贈り物で屋敷を壊していては意味がないではないか。次からは気を付けるんだよ」
子爵邸の夫人執務室に突如として現れた男は、自身の目の高さの何もない空間に向けて諭すよう告げている。しかし注意の言葉とは裏腹に楽しげな声色と軽やかな動きで、右手を上げフィっと空気をひと撫でした。
すると、それに連動するように深くめり込んでいた大岩はいつの間にか消えて無くなり、バルコニーもいつもの馴染みある破壊前の姿に戻っていた。姿を消した巨大な岩はというと、バルコニーの手摺の向こう、庭の端に元からそこに存在していたかのように静かに鎮座している。
「…あ、の…え?これ……は……」
この一年で不可思議な事に対しての経験値や免疫力は、相当爆上がりしている自覚と自負のあるアンナも、流石にこれには顔色を変えるしかない。
しかし背後からは今の母の心情など知る
「き、黄色いの!お母さま黄色いのいる!きいろーっいらっしゃい!お母さま、もうソファーから降りてもいーい?」
「え?き、きいろい、の?……あ、あの時の妖精さ、ん…」
頭の中が真っ白になっていたアンナが、先程まで震えていたのが嘘のように変わり身の早いアデリナの明るい声に反応して、身体だけは謎の男と娘の間に壁を作るようにしながらも、様子を窺うために顔だけはアデリナへと向けた。
目に映ったアデリナは、一瞬前の怖がっていた顔から一転して楽しげに爛々とした瞳でこちらを見ており、混乱していたアンナも息を吸い込み深く吐くと少しずつ冷静さを取り戻していく。
それに伴って目の前に現れた人物の【見えない何か】と話している様が、あの日のアデリナと重なりだす。意を決して面識の無い怪しい術を操る男を見据えると、意識的に笑みを浮かべながら話しかける。
「お初にお目に掛かります。私このルラント子爵家当主の妻でアンネリーゼ・ルラントで御座います」
「ああ、そうか名乗るものなのだな。初めまして…でもないが、私はウルツだ。近くに気配がないが主は不在なのか?残念だな」
(初めましてでもないってなに?……気配?クラウスの?)
明らかに知らない男からの思いがけない言葉と、クラウスの事を口にされ若干困惑したが、おくびにも出さずこれ以上ない貴族的な笑顔で問う。
「ウルツ様…とお呼びしても宜しいのでしょうか?失礼を承知で伺うのですが、
「ああ、そう呼んでくれて構わない。以前この家の娘にうちの子等が失礼をした際に詫びと、その対処に来ただろう?」
「…お…わ、び?対…しょ……」
アンナは声には出さず、笑顔を張り付けたまま口の中で無音で
そんな中、他人様から正式な謝罪など受けるような出来事も、ましてやアデリナに対し何かをされた事などないのだ。
こと外部と接触の皆無なアデリナに起きる事柄といえば、この二年弱は妖精関連の事だけ……と考え、ハッ!と顔を上げ目の前の人物に目を向け直す。
このような容姿の人間に会っていれば、それこそ遠目にでも目に入っていれば、何があっても忘れることなど不可能だろう……。
まるで物語にでも出てきそうな、浮世離れした透き通る陶器のような肌と白髪に近い銀の髪という外見、そして先程の目にしたことのない術や霧のように姿を現した様。
何よりその声がアンナの頭を一気に駆け巡った。
「私達ふたりが見たあの、夢……。…精霊…さ…ま……?」
弱りきったアデリナの回復を祈り心身共に疲弊していたあの日に見た夢、頭の奥に焼き付いている声と影が、まるで答え合わせのように目の前の人物へと自然に当てはまっていくのを感じ、当然至極の流れでアンナは深く深く頭を垂れる。
心に落ちたその答えを見つけてしまうと、それは意識的ではなく自然な動作のように身体が動くのだから不思議だ。
「……っ、大変失礼致しました!本日は夫不在の為、私アンネローゼがご挨拶並びに拝謝申し上げます」
力強く早口で述べ大仰なまでに
「夫人、そう固くなられては頼み事に来た私が困ってしまう。それに、うちの子等の考えのない行いに
「?頼み事……とは「奥様!!!奥様!どうされましたか!?」」
廊下との境界である重厚な扉の向こうから、普段は大きな声を出す事も狼狽する事も少ない、ベルタの若干取り乱したであろう声が聞こえた。
その向こうからはロベルトとメルのものらしき声も漏れ聞こえるが、叫ぶほどではない程度の制止しているような後者二人の声は扉によって遮られ言葉の意味を判別できる程ではなかった。
「ああ失礼した。話を邪魔されないよう、この部屋の周囲に立ち入りを禁じているのだ」
「……左様ですか。外にいる者は私共にとって何より信頼する者達です。無礼は承知で申し上げます、私の側近達三人の入室をご容赦下さいますよう」
アンナは僅かに上げていた頭を再び深く下げる。
「いやいや、ここはそなた
然程悪いと思っていなさそうな、存在感の塊のような神々しい姿とは真逆のつかみ所のなく軽快な語り口と足取りで、アンナの前からスッと音もなく移動するウルツ。
向かう先はソファーの上で大人のやり取りを横目にアンナには見えない【黄色】と戯れるアデリナの隣だ。大人ひとり分程度の空間を開けて隣に腰掛けた。
それと同時に石のように固まり、びくともしなかったドアノブが突如として軽くなった事で、室内に飛び込んできた形のベルタと、前のめりに倒れそうだった妻をとっさに右手で抱えたロベルト、その直ぐ後ろでオロオロしているメルの姿。
ベルタの顔は見たこともない程に血相を変えて青ざめている。
「奥様、お嬢様大丈夫ですか!!」
「ふふふっ済まなかったねぇ」
入室したベルタの目が最初に捉えたのは、起立し礼をとる姿勢の状態のアンナ……そして初めて聞く声の主に目線だけ移行すると意識するより先に、声の主であろう男性の並びにいるアデリナをひったくるように抱きかかえた。
「べ、ベルタっ‥!」
「ほう、確かに信頼に値する者のようだな。濁りない気配だ悪くない」
「も、申し訳ありません」
「よいよい、元はと言えばうちの黄色が屋敷を壊したせいで騒々しくなってしまったからな。本来なら静かに話をするつもりでいたのだよ。のう、黄色」
「ベルタ抱っこ苦しい。私黄色いのとお話してるのに」
緊急性を感じて閉じる事にすら配慮しなかった扉の前、抱きしめるアデリナも主のアンナさえ、目の前の男に警戒している素振りもない様と、いつの間にこの人物が邸宅内に入ってきたのか等々が頭を巡り、思考が追いつかないベルタとロベルト夫妻とメルをよそに、目の前の会話は途切れること無く続いていく。
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