16  不思議な筆記帳④


 「ねえレナード」


 帳面に覆い被さるように、無心かつ無言で筆を動かしていた手を止めてアデリナが振り返る。


 「レナードのスペルってこう?」


 ソファ前に置かれたローテーブルの上には四歳の子供には扱いやすい手頃なサイズ感の筆記帳が広げられ、その周囲には母アンナによる書き方の手本や、うろ覚えな文字の確認等で書き埋められた紙が所狭しと置かれている。

 ふかふかとした毛足の長い絨毯にペタンと直座りし、筆記帳の純白のページに向かっているアデリナが右背後に立つレナードを見上げ返答を待っていると、大人の整った笑みを浮かべながらアデリナの目線に合わせて腰を落とすレナード。


 「ええ、正解ですお嬢様。このまま書き写して結構ですよ」

 「やった!ありがとう」

 「どういたしまして」

 「レナードのお顔かいたから、その下に大きくお名前も書くんだ」

 「…そうですか。それは、私を知らない方からしたら…とても分かりやすくて親切だと思います」

 「えへへ」


 レナードの言葉を受けて嬉しそうなアデリナの笑顔と、困惑を抑えながらのレナードの笑顔は端から見ると実に対照的なものに映る。いつもなら何があろうとどこから見ようと完璧なレナードの表情管理の綻びに、弟のロベルトは僅かに口元がゆるむが兄にバレると後が怖いので、直ちに気づかぬ振りで通そうと目線を夫妻側に向けやり過ごす。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 昼食を済ませたアデリナは椅子から下ろしてもらうと、ベッドのサイドテーブルに置いた筆記帳と万年筆を取るために寝室へ向かった。

 小さな背中に付いて行くアンナの後ろ姿を視界の端で確認したベルタは、使い終わった食器類を手早く全てワゴンに乗せ、それらを回収するのに廊下で待機しているであろうメイドへ渡すため移動させる。

 そのかん、流れるような動作と物音ひとつ立てない早業で事が進みテーブルの上が片付き、この後は夫妻が向い合わせで同じテーブルを使い執務を行う予定になっているので、僅かな湿りも残らぬようしっかりと拭きあげ整えた。

 そしてそれを見計らったようなタイミングで、廊下側の扉からレナードとロベルトが数時間で処理出来るとは到底思えない量の紙の束を抱え入ってきた。

 一家が食事を終える少し前から決裁待ちの書類を用意すべく、当主執務室と夫人執務室へと各々向かっていた執事二人は手にした書類をテーブルに置き、一瞬その場を後にしたかと思えば直ぐ様舞い戻ってきた。

 戻った二人の手には各自、主人愛用の魔導具のペンと蝋印や決裁用の印章やら、執務に不可欠な小物類が乗せられた長方形の銀のトレイがあり、これが最後の仕上げと云わんばかりにそれらを執務机と寸分違わぬ配置でテーブルに並べ始めた。


 楽しげな足取りで寝室に消えていったアデリナは、筆記帳と万年筆その他お気に入りの本等をいくつか選び抱えると、居室への扉を開いて待っていた父クラウスの隙間を通り抜ける。

 二、三歩踏み出し顔を上げたその先には、昼食を終え全てが片付いた後も尚アデリナの居室に再度集まってきた側近達と、自身の背後に立っている両親の姿。

 五人の大人達が子供部屋に長時間揃うという、多分見た覚えのないだろう大変珍しい光景にアデリナは不思議そうに首を傾げ問う。


 「みんなお仕事はー?」


 周囲の大人達が建国祭や精霊祭以外でゆっくりとしているところを目する機会のなかったアデリナには、皆が真っ昼間からここにいるのが不思議でたまらなかった。

 休息を伴う国の行事の時も家族である両親の寛ぐ姿は見ていても、側近や他使用人の休日を過ごす様子などは折に触れ耳にすることはあっても、想像だけで実際見たことがない。

 アデリナにとっての邸宅内は生まれ育った自宅である反面、多くの大人達が常日頃仕事をしている職場なのである。

 その中でも、この場にいる五人に関しては、午前の散歩から部屋に戻る前に思い付きで予告なく立ち寄る各々の執務室で目にする両親は、書類を眺めながら頭を抱え唸っていたりするし、またある日は長い廊下を走ってはいないギリギリの高速で器用に移動しながら業務に追われるレナード、他にも誰にも見られていないだろうと同じ長い廊下を焦った様子で疾走するロベルトの姿を、時に遠くから時に近くから幾度となく見ていた。

 そのため常に仕事が山積みなのは子供なりに感じていて、これらに加え来客や外での仕事も少なくない事も何となくだが知っている。

 例えばアデリナの少しの風邪程度だと、多忙なスケジュールを縫い心配で様子を見には来ても長居出来ないのは常で、両親が揃って付きっきりで寝室にいるなどなく、乳母のベルタとメイド達が付いているのがアデリナには当たり前だった。

 それ故、昼食の際ですら『何だろう?』と思っていたのに、午後の時間も引き続き五人が勢揃いでここにいる事なんて、熱も下がり痛みも不調もない現在のアデリナには違和感たっぷりに感じる。


 「 みんなお仕事はー?何でここにいるの?」


 日中の自室でアデリナの定位置となっているソファとローテーブルの配置された場所まで、筆記具や本を抱えトコトコと足を動かしながら顔だけは背後を付いて歩く父クラウスの方を見上げ、再度疑問を口にする。


 「熱が下がったとはいえアデリナは昨日まで寝込んでいたんだから、今日くらいは私達が側にいて様子をみていたいんだよ」

 「お父さまもお母さまも、今日はずっと一緒にいるの?」

 「そうだよ、夕方の食事時間までは一緒にいようと思っている」


 クラウスの言葉を受け、嬉しそうに目を一瞬目を大きく開くと定位置であるローテーブル前に着きポスン!と、その場に 座り込んでから答える。


 「お夕食まで一緒なんだね!すごいね!嬉しい!」

 「うんそうだね。ただお仕事はしなくてはならないから、私達と一緒にレナードとロベルトも執務室の代わりにアデリナの部屋で仕事をする事なるんだ。いいかな?」

 「うん!私はお絵かきとか、ご本を読んだりして、みんなはお仕事するんだね。同じだね!」


 みなまで言わずとも、大人達の仕事の邪魔をしない事は十分に理解すると共に、アデリナ自身も頻繁に我を通すという気質でもないのは、邸宅で働く者の皆が周知しているアデリナの普段の振る舞いだった。

 それも、先日の精霊祭でのアデリナの言動や振舞いは母のアンナや同伴したメルを少々困惑させた一因かもしれない。



  ◇ ◇ ◇ ◇



 夫妻が執務を、アデリナがお絵描きや文字を書き始めて間も無く二時間が経とうとしている現在。広げられた真っ白な帳面の上に夢中で筆を走らせるアデリナは、一歩離れ背後と左右に控え立つ側近三人に精霊祭の日の庭や、寝室で両親に与えたのと同じ種類の困惑と衝撃を知らず知らず与えていた。

 レナードとロベルト、そしてベルタのスペルを確認したり、似顔絵を描くのだと言い出せば、ローテーブルの向こうにロベルトを立たせてアデリナ専属のモデルかのようにポージングを求めたりしたが、描き始めるとすぐに『体を描くのは難しいから今度にする』と方向性を変えたりもした。

 そんなこんなで費やした長いお絵かき時間に反し、三人の目に映るのはインク汚れひとつ無い美しい純白の紙が綴られた紺青の本は、一見何の変化も見当たらない…ように見える。

 何も気に留めず、多少目を離していれば気付かない程に変化はない。アデリナが筆記帳を開く前、夫妻の使うテーブルの上に必要な物を並べ終え控えていた三人に、アンナが『アデリナの様子や何も書かれない紙の上じゃなく、その本の厚さを注視するといいわよ』とアデリナに聞こえない程の声で告げた。

 その際一瞬見せたニヤっとした悪巧み顔の笑みも、言葉の意図も分からない三人をアンナは急かすように。


 『処理済みの書類がある程度溜まって呼ぶまで向こうに居なさいな』


 …とアデリナの周囲に追い立て、向かいに腰掛けるクラウスはアンナの様子にやれやれといった苦笑いを浮かべるだけだった。

 しかし、その助言?があったからこそ三人が気付けた『変化』に三者三様の混乱を内に秘め立ち尽くしている状態だが、書類に目を通しながらも側近等の様子を窺い見て、ほくそ笑んでいるであろうアンナに気取られないよう平静さ装う。


 それ以外は、この十日間で溜まりに溜まった夫妻の執務も、あれよあれよと片付き目の前に積まれた書類も予想より早く数を減らしていくと共に、窓の外の日も傾き時計の針はあと少しで夕食時間を示す頃になっていた。


 「もうこんな時間か」


 レナードがクラウスの目の前に並ぶ仕事道具を下げますという言葉で、久し振りに時計を見たクラウスが詰めていた息を吐きながら首を左右に伸ばす。


 「お食事は如何致しましょう?」

 「もう少し進めておきたいから、軽く摘まめるものを執務室に頼む」


 レナードがクラウスの指示に頷き部屋を後にすると、アンナとアデリナの夕食用にセッティングを整えるベルタとロベルト。

 アンナはあと数日はアデリナの部屋で食事を共にする予定を伝えられている為、臨時で運び込んだキャビネットに執務道具一式を移動し壁沿いに避けた。

 これだけで明日の執務もアデリナの部屋で行う事が見てとれる。


 「お父さまは、お夕食一緒に食べないの?」

 「お夕食は別々みたい、でも明日の朝は一緒よ」

 「食堂で?」

 「いいえ、この部屋で」

 「明日もなの?」

 「ええ、明日もよ。アデリナがあと五回か六回眠って朝が来た時に元気だったら食堂での食事に戻せると思うわ」

 「そしたら、メルも戻ってくる?」


 見上げて訊ねるアデリナの眼差しに思わず眦が下がった。


 「もちろん!朝アデリナの熱が下がったって聞いて学院に行く前に来てくれたメルは心配そうだったでしょう?」

 「ちょっと泣いてた」

 「そう、アデリナの事が大好きで、ずっと心配していたのよ」

 「うん」

 「だから、もう少しだけお部屋で過ごしてくれる?せめて柔らかくない食事が食べられるまで。そうしたらメルも安心して戻って来れると思わない?」

 「お医者さまが良いって言うまで?」

 「そうよ」

 「うん、わかった!」

 「それまでは、私と一緒に過ごしましょう」

 「お母さまと?いいの?」

 「ええ、でも私も仕事ががあるからメルみたいに長い時間遊んだり、お喋りも多くは出来ないの。それでも良い?」

 「うん!お喋りはベルタがしてくれるし、私もみんなの分のお絵かき終わっていないから大丈夫!」


 万年筆をグッと握り、自分にも期限の迫る仕事があるかのように得意気な顔で承諾するアデリナ。それからの夕食の時間はゆっくりと進み、今朝は夜明けと同時に目覚めたアデリナの体力もデザートが並ぶ前には尽きてしまい、座ったままウツラウツラと体ごと揺れているのに気付いたアンナとベルタが『あらあら…』と微笑む。

 ベルタの手で寝室に運ばれたアデリナがぐっすりと心地好い眠りについた頃、主要な部屋を除きほとんどの灯りが落とされた静かな邸内の当主執務室では、当主夫妻と側近達による五人の話し合いが始まった。



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