18 5歳の誕生日と精霊祭


 妖精達との出会いと、その後に発生した原因不明の高熱が続いた精霊祭から一年が経過したルラント子爵邸。


 快報が邸を駆け巡ってからのアデリナは、これといった病気や大怪我等もなく過ごし、二ヶ月前には昨年と同じく近しい縁戚や使用人達に祝われ、無事五歳の誕生日を笑顔で迎えた。


 しかし、子爵家内の一部では昨年アデリナ四歳の誕生日とは幾つか大きく様変わりしている事柄があり、それを把握しているのは当主夫妻と最側近の三人、それから半年近く前に学院を卒業し正式にアデリナの専属侍女となったメルのみ。

 他にもわざわざ伝えずとも、何かしら感じ取って沈黙を守っている、家族のように信頼する古くからの使用人もいる。


 アデリナの身の回りでは、他言できない初めて見る出来事が時折発生する。本来の業務の多忙さから常に時間が足りていない当主夫妻と側近達だが、様々な問題にも即座に連携し周囲に悟られないよう乗り越えた。

 毎日届けられる膨大な書類を捌きながら対応する【アデリナ案件】に息つく暇もなかったこの一年が皆にとっては、まさしく矢の如く早さに感じている。


  昨年アデリナが目覚めた日の深夜に行われた大人五人による話し合いでは決め事がいくつか出来上がり、一番始めに決まったのが今では【アデリナの日記帳】と呼ばれる筆記帳の取り扱いだったのは当然といえば当然だろう。

 重厚で美しい装丁と中に束ねられた紙も、その質自体が絹のように滑らかで他ではなかなか見聞きしない純白の紙は、一見しただけでも興味をそそってしまう。

 それがアデリナの手元で一枚また一枚と増えるのは異質過ぎるので、アデリナが使用している時間以外は夫妻の寝室に設置されている個人的な物を仕舞う小型金庫に保管する事で意見が一致した……が、この案は話し合いから数時間後の翌朝、ベルタの悲鳴と共にあえなく撤回される事となる。


 話し合いの翌日早朝、まだ就寝中のアデリナが目覚める前に閉じられたカーテンを引き明け、身支度用の湯を手洗い鉢に注ぎ、清潔な布も用意したベルタが整った朝のセットに満足して、アデリナを起こすそうとベットふちに寄り、上掛けに手を添えてポンポンと合図をした。


 「お嬢様、朝です」

 「んー…」


 まだ眠いようで返事代わりのうなり声をひとつ上げた後、上掛けをすっぽり被り動かない小さな塊になるアデリナ。


 「アデリナお嬢様おはようございます。朝ですよ」

 「…ん……おはよう…べるた…」


 二度目の声掛けで自ら上掛けを除けると朝の挨拶をしながら、のそのそと起き出す。ルラント子爵の一族含む南部の貴族家の者は、貴族としては珍しく早朝から活動を始める者が多い。

 南部地方は農業や酪農、紡績、採掘に従事する領民が多く、仕事に取りかかる早朝から昼に、不具合やその他の急を要する報告が舞い込む事も少なくない故、南部の貴族達は朝型になったのだが南部以外の貴族は大抵午後から活動を始めるのが主らしい。


 アデリナは根っからの南部の貴族らしく、基本的に寝るのも起きるのも早い。乳母のベルタも寝かしつけと朝に起こすような事柄で困った記憶がなく、これに関しては現在隣国に揃って留学中であるベルタとロベルトの子で、朝にめっぽう弱い双子の男児達と朝晩格闘していたのを思えば嬉しい誤算であった。


 「アデリナお嬢様、お顔を洗いましょうか」

 「…うん」


 ベッドのふちに座り、眠そうな目を半目に開きながら返事をしたアデリナは、ふと枕元の横の空間に目をやり何かに気付いた表情をベルタに向ける。


 「ない…」

 「え?」

 「お夕食の時は持ってたのに」

 「…あっ……!」


 アデリナが最初に示した視線の先からの表情変化に、例の筆記帳の事を言おうとしているんだと気付いたベルタは、現在それが保管されている場所について説明するべく、アデリナの目線まで素早く腰を落とすと、ベッドから降りる体勢でこちら側に向き足を下ろして座っていたアデリナの傍らに、その筆記帳がベッドのシーツから数センチくうに浮いた状態で現れたかと思えば、ポスン!と音を立てて白いシーツの上へと落ちた。


 その間ほんの一瞬の出来事だがタイミングの悪い事に、しゃがんだ姿勢でいたベルタの顔の真ん前でそれは起き、続いて響いたベルタの悲鳴は寝ていた夫妻を呼び寄せる事態になり、確かに仕舞った筆記帳と他者の触れた痕跡のない金庫を確認しては、昨日の朝と同様に再び夫妻は頭を抱える事態になってしまったのだ。


 翌朝も同じ事が起きるのか前日と同じように、アデリナに知らせる事なく金庫への保管を試したが、起きたアデリナが日記帳の存在を気に掛けると、離れた金庫内からアデリナの手の届く範囲に現れ、前日と同様の結果になるのを朝早くから待機していた大人五人の目でしかと確認し一斉に深い溜め息をつく事になる。

 この一連の流れでアデリナの元から日記帳を離す案は直ぐに消え今に至る。


 次に決められた朝食後に行われる学習時間に関しては、勉強を教えるのがロベルト、アデリナの身の回りの世話が乳母のベルタと側近夫婦のみで勝手も良かったのか、何事もなくスムーズに行われた。

 

 そして最後に話し合われたのが、見習い侍女という立ち位置のメルへ日記帳の事を話すタイミングであったが、当初の予定通りに話し合いの日から約三ヶ月後に学院卒業を待って伝えられた。

 卒業前の最終試験もあり、邸勤めの日数が減った事もメルに気付かれなかった要因のひとつだろう。

 


 ◇ ◇ ◇ ◇



 それまでも学院の授業が無い時間や休日は、見習いメイドとして邸内の様々な仕事をして下積みは重ねており、それも将来的にアデリナの侍女になりたいという本人のやる気の現れだった。


 しかし物心つく前から厨房周りに出入りしていたメルは、長く働く使用人ばかりの邸内では皆が親戚のような、多少甘い目でメルを見てしまう事もわかっていた。

 それも相まって『アデリナお嬢様の侍女を希望していてもキチンとした正規ルートの勤め人に見えないのではないか?同じように頑張っても、多くの使用人や当主夫妻から見れば所詮【料理長の孫のお手伝いの延長】にしか映らないのでは?』といったジレンマが最終学年にあがり急に出てきて、その焦りは周囲の大人達も口には出さなかったが何となく感じ取れていた。


 そもそも貴族家で正式雇用がなされるのは学院の卒業証書に添えられている学院長直筆の評価表や、他で勤務していた先の紹介状等が必須であるため、全ては卒業を待ってからか…とも思っていたメルにとって、アデリナ四歳の誕生日に『卒業後アデリナの専属侍女になってもらう』という言葉を在学中に貰えた事は、これ以上ない幸福な出来事であっただろう。

 他家と違い、ルラント子爵家は雇用人の募集を全くしないのもメルの不安要因のひとつにもなっていたが、雇用の意思が言葉によって示されたお陰で、最終学年の残り半年を安心して伸び伸び過ごせた。


 しかし卒業の式典が終わり、実家で家族に卒業を祝われた後の夜に訪れた当主の執務室では、雇用契約と卒業の報告のため卒業証書を手に対面した夫妻と背後に控えている側近三人の空気感は、立場上深く関わってこなくても、十年以上邸内に出入りしていたメルにもある種の異様さを感じるものだった。

 まず、何故雇用契約とその説明が夕食も終わりアデリナも寝ている夜の八時という時間なのかと不思議に思った。数日前にベルタから時間を伝えられた時は、常に執務に追われている印象の夫人が多忙なのだろうと考えていたが、当主夫妻と最側近三人が勢揃いしているのを目の当たりにすると、ひとり娘の初めての専属侍女とはいえ只のいち使用人の雇用契約に、こんな多忙な面々が揃うものなのかと頭が真っ白になる。


 「メル卒業おめでとう。勤務と平行しての首席卒業だなんて良く頑張ったわね」


 アンナが祝いの言葉をくれた事で少し落ち着きを取り戻し、おずおずと尋ねた。


 「あ、ありがとうございます!奥様が試験前に十分な休みを下さったお陰でございます…が……あの、雇用契約のお話ですよね?それとも私、何か失態がありましたか?」

 「いいえ、メルは良くやってくれているし雇用契約に際しての説明で合っているわ。使用人の雇用契約は私の取り仕切る範囲なのだけど…。今回はアデリナの初めての侍女という事と、そのアデリナに関する事は秘匿内容や現在ここにいる五人で共有する情報もあるから当主執務室に来てもらったのよ」


 部屋に通されて直ぐに、話が長くなるからと腰掛けたソファーの対面に座るアンナが、いつも以上に柔らかく気さくな語り口調で話しだした。なかなかひとつの場所に集まる事のない、多忙な五人の大人達の視線を一手に集め、緊張で固まっていたメルへ気を遣ったのだろう。


 そこから始まった雇用に関する説明は想像の範囲であり、思ったより短い内容の話の後に続く後半の話は揶揄われているのか、はたまた何か試されているのかとメルが構えてしまう程に、夢物語のような【精霊様からの贈り物の説明と取り扱いの注意】だったが…。

 当主であるクラウスの話が進むにつれて、次第に初めて遭遇した珍しい生き物でも見るような、しかしそれを理性でどうにか押さえようとするような、何ともいえない表情で大人達を見て微動だにしない、真っ当な反応のメルの視線を浴びた五人の大人は、居たたまれない複雑な気持ちを抱えたままで、無事に雇用契約はなされた。


 二日後から本邸宅内で住み込み、勤務を開始する事で契約は纏まった。全ての話が終わり、頭を下げ執務室を後にしたメルを見届けた五人は閉じられる扉の音とと共に、どちらからともなく大きな溜め息を吐き頭を垂れる。


 「アデリナの熱が下がり、目が覚めた時に精霊様から贈り物を頂いたと話し始めた時のメルの表情の硬直の仕方は見事だったな……」

 「当然でしょう。この数ヵ月で日記帳に慣れてしまった当主様や私達とは違いますから」

 「あの顔を目の当たりにすると、良い歳をした自分が子供相手に夢物語を真剣に語っている気になって気恥ずかしくなってきたよ」

 「ご安心ください。お側に控える私も同じ気恥ずかしさを感じておりました」


 途中で説明を止めたかったと弱音を吐くクラウスに淡々と答える執事のレナード。


 「そうね、ここにいる私達が皆肯定しているのも混乱したでしょうし。でも私達が知っていて説明できる事なんてアデリナの熱が下がったら、あの娘の近くに見たことのない筆記具と筆記帳があったって事ぐらいですもの仕方ないわ」

 「まあ説明はそれとして、このまま奇人でも見るようなのが続くのもあれですし、実際体験した方が良いんじゃないですか?」


 アンナの言葉に、アンナ付きの執事ロベルトが軽口で返事をする。


 「…実際?」

 「せっかくだし、メルの正式な侍女としての初仕事は、日記帳が目の前に突如現れる!って良くないですか?」


 首を傾げたアンナにロベルトが楽しそうに返答すると、隣に立つベルタがこめかみを押さえ頭を振り、呆れた表情で夫のロベルトを見る。


 「メルも思いも寄らない話に驚いただけなのに、正式雇用の初日でそんな子供の悪戯みたいな事をされたら気の毒だとは思わないの?ロベルト」


 夫の提案に自身が度肝を抜かれた数ヵ月前の朝を思い出し、気の毒そうにメルを思いやるベルタ。 


 「ええ?でも実際どんな感じかは見た方が早いし、ベルタもメルの反応気にならないか?なあ兄さんは?」


 悪巧みの仲間を増やすように、楽しげな表情と軽快な言葉を近くに立ち並ぶ妻と兄に投げ掛けたロベルトへ、レナードが僅かに眉をしかめた後、淡白なトーンの小声で『勤務中に兄と呼ぶな』と告げてから主であるクラウスに視線を向ける。


 「……当主様、こいつの意見も一理あるかと思いますが、如何致しましょう?」

 「うーん、レナードが言うんなら、実際どんな事が起こるのか見た方が良いか」


 日中の仕事モードでは絶対に出さない、弟へのこいつ呼びを露呈しつつも、その表情だけは冷静さを装いクラウスに提案するレナードだが、ここにいる誰よりもメルへのドッキリを望んでいるのは涼しげな顔の兄だとロベルトは解っていた。


 (俺等兄弟の持つ性格上、不憫な生き物を見るような目をした小娘をあっと言わせたいだろうし、反面これから長く同じ秘密や仕事を共有する者としての歓迎もしたいんだろう)


 料理長の孫娘メルは、邸内の皆にとって赤子の時から成長を目にしてきた親戚のような存在で、学院卒業と子爵家への雇用は大変喜ばしい。

 しかし『やられたら悟られないよう静かにやり返し気恥ずかしく感じたら同じような感情を相手にも味わってもらう…それと慶事は別問題』と思うのは、この兄弟の信条である。


 そして計画というには簡単な、アデリナの就寝後に日記帳を夫妻が管理し、早朝からアデリナの側に待機させたメルそれを少し離れた位置で並びながらも顔には出さず、内心ではいそいそと見守る五人の大人達という図が出来上がる。

 そうして数ヵ月前にこの五人が驚いたのと同じように、アデリナの目の前で起きる出来事に対し目を見開くメルを満足そうに見守る大人達……という、メル以外にとっては平和な新たな一日が始まった。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 メルの侍女就任の際の、そんなこんなの事柄もありはしたものの、様々な忙しさを乗り越えた甲斐もあって今現在は、ゆったりとした空気の中で平年通りに精霊祭の朝を迎える事が出来ている。


 周囲に大人ばかりなせいか、年齢より元々話す内容も受け答えも達者な子供だったアデリナだったが、昨年病後からの成長は誰の目から見ても著しく、文字数字の初期学習は予想を超える早さで進み、当初緩やかに進めて一年での学び終えを見込んで作成されたカリキュラムが、四ヶ月足らずという早さで初期の読み書きを終了してしまった。


 結果として、それ以降の朝の学習時間は、今までに覚えた内容の復習と五歳から始まる学習の簡単な予習に当てられ、ロベルトによる学習時間の回数も週に五日一時間から週一程度と激減した。

 元々飲み込みの早かった読み書きの習得速度が急激に加速したのも、あの筆記帳…現在の呼び名だと【アデリナの日記帳】の影響が大きい。


 すっぽりと時間の空く事になった学習のない日の午前中は、侍女のメルや他のメイドと過ごしたり、子爵家の図書室や美術品保管室の入室許可を貰い、そこで絵本や図鑑を読んだり美術品を眺めたりしている。

 あとは最近の一番の関心事である植物の世話のために、庭や温室にいる時間が多くなった。ルラント家は代々土や大地にまつわる精霊に愛され守られていると伝わる一族で、実際ルラント家の領地は作物の実り多い土地で有名である。


 代表的な例でいうと、当主の重要な仕事のひとつに年に二回の【農地特別視察】というものがあり、形式的には【農地ごとの土に当主自ら直接手を当てて祈る】で、実際祈っているようにも見える。

 しかし実際は、この土地と共に生き土地に合致している血筋であるルラント家当主の魔力を流し、土地を守るため僅かながらに活性化させて豊作へと導いているのだ。

 一度に通す魔力自体は微々たるものだが、確実に土の状態も良くなり領民自身のやる気も上がる。この地を治める領主自らが農地に膝をつき祈る、という誠意を目の当たりにする事による相乗効果は侮れないのだ。

 何代も続く祈りは、この地の確かな恵みとなり領内の財政や様々な豊かさで恩恵をもたらしている。辺境の立地であるのと、三代前に隣国末姫の当家への輿入れにより隣国の一部土地を持参品として持ってくるという、前代未聞の嫁入り道具?で土地は現在のように国内最大という広さになってしまった。

 それにより祈りの場所も増えたという。


 自国の王都含む北側との間に、巨大な岩山が境界のようにそびえる南部の地は、大昔から宝石等も採れるが昔は採掘の技術や資金が乏しく、詳しい調査も出来なかったという理由で放置していて、現在は資金は潤沢だが他所からの要らぬ介入があると邪魔だという理由で採掘や宝石の存在は公表はしていない。


 ルラント領の肥沃な土地の作物や、その他の事業で財政も潤っている現在、無用な争いに巻き込まれたくはない……要は自衛だ。

 一年を通し頂上に雪が積もるほどに高く巨大な岩山を隔てた、北側の一部高位貴族や、その他新興貴族等から【山向こうの田舎貴族】と蔑みの別称で呼ばれることも少なくない【南部四領地】という四つの領地に分かれる四貴族家は、いつしか北側との争いや関係修復よりも南部の幸福度向上へ舵を切る事になった。

 それに伴い一部鉱山の存在は正しい形でこの国の貴族社会には伝わっていない。


 話は特別視察へと戻り、そんな何代にも渡り祈りを捧げて土と共に生き土に密接した家柄なので、アデリナが植物に熱心な興味を持つことも、土に汚れることも当主夫妻を始めとした屋敷内の誰もが偏見や疑問を持つこと無く自然な流れとして見守っていた。

 もちろん王都や北部貴族の家でははばかられる事なのも、幼いアデリナ以外は常識としてよく理解している。


 裏庭の隅に最近作られた【アデリナ専用花壇】なるものに庭師長のエドガーが植えてくれた、向日葵の種の成長を観察しながら水をやる每日は子供なりの使命感もあり、楽しく充実した日々として過ぎて行っている。

 だが、これとは別に両親と最側近達以外は知らない、秘密裏に育てている鉢植えがアデリナにはあった。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 ことの発端は、本日の精霊祭初日から遡ること二ヶ月前のアデリナ五歳誕生日の朝。あの日は昨年と同様、午後に到着する近しい親類の出迎えや軽い茶会、夕方から始まる誕生祝いの夕餐が子爵家の主なスケジュールだった。

 そのため朝食を終え、食堂を後にし廊下を歩くアデリナの目には通常の朝より忙しそうに、更に通常より速度早めに各々の持ち場で働く使用人達の姿が映る。

 ゲスト到着前の最終確認等、当日にやることは盛り沢山なんだろう。


 「お嬢様、このままお部屋に向かいますか?それとも図書室になさいます?」


 このまま歩き突き当りを左に曲がると自室に向かう廊下が続く。その手前左側に家族用の小さな図書室があるのだ。アデリナの斜め後方からこの数ヵ月で専属侍女らしく、少し落ち着いてきたメルが慣れた問い掛けをする。


 「あのね、お部屋でエプロン着てからお庭に行きたいの」


 アデリナの言う【エプロン】とは調理等に着用するのとは少し意味が違った。土いじりが大好きな娘のために母であるアンナが自らデザインし、水や土汚れを弾く特別な布を用い作られたワンピースを覆うデザインの特製前掛けのようなものである。


 時に夢中になりすぎて、土まみれで部屋に戻ってしまうアデリナの衣類汚れが、最近の使用人達の悩みのひとつだとメイド長との軽い笑い話で知る事となったアンナ発案による予防策だ。

 アデリナは散歩中以外の庭でのお茶の時にも急に走りだし、目についた植物を触り始める事が多々あった。ごしごし洗いや強い洗剤を使えない遊びには向かない、やや高級な布地の衣類でもいつの間にか土まみれにする天才アデリナ。

 そんな子供のドレスやワンピースを土汚れから守り、洗濯メイド達の負担を減らす有り難いものが【エプロン】である。


 「…エプロン、ですか?今日はアデリナお嬢様のお祝い準備で庭担当の皆さんも忙しくしているようで、お嬢様の向日葵含め敷地内にある全ての植物は早朝にお水を上げ終えていますよ?」

 「うん知ってる。ひまわりじゃなくって新しい種を植えるの」

 「種…ですか?」

 「この間持ってきた食器に、お花の種を植えたいの」


 数日前に裏庭の一角に植えてある向日葵に水をあげた後、アデリナとメルが共に厨房の扉前を通りかかった際のことである。厨房の出入り口付近に出された木箱の中に、いくつかの不用品が納められているのに遭遇した。

 その中の高価ではなさそうだが、乳白色の美しい陶器製の穴開きザルがあった。パッと見のそれは破損はないように見えたが、よくよく観察すると内側のフチ部分に数ミリ程度のヒビが確認できた。

 そのザルをじっーと見つめていたアデリアは、扉を開け出てきたキッチンメイドに貰っても良いかと尋ね、良い返事を聞くとホクホク顔で自ら抱え自室へと持ち帰っていたのを思い出した。


 「あー、お嬢様がお気に召したあの白い……」

 「うん!私お部屋のバルコニーでもお花を育てるんだ。芽が出たらお父さまとお母さまに見てもらうから、それまで内緒ね!」


 両手でぎゅっと握りこぶしを作り、熱弁するアデリナにメルが微笑む。


 「わかりました。あの器ですと土も多くは要らないでしょうし、庭小屋にあるバケツに土を入れてバルコニーまで運びましょう…って…あら…ところで何の種を植えましょう?」


 メルは一通りの作業を順に思い浮かべながら、肝心の種の存在が無いのに気付いて尋ねた。


 「秋にとったガーベラの種だよ!エドガーが五歳のお誕生日がきたら蒔いてもいいって言ってたの」


 こちらをじっと見上げ懸命に話す様子が可愛らしい……などと思いながら、メルはそういえば去年の秋に庭師長のエドガーの側でアデリナが楽しそうに綿毛と一緒に種が飛ばないよう息を止めながら種の採取をしていたな…と遠くもない記憶を引き出す。

 あの時採集をしつつ、育て方も尋ねていたし確か『秋でも蒔けるが、お嬢様自らが世話をするならこれから冬を迎える秋より、春蒔きの方が良いだろう』とも教えてくれていた。


 (そうかお嬢様はあれから、今日の種まきを楽しみにされていたのね)


 あの日からガーベラについての話をしてくることがなかったのでメルは忘れていたが、数日前に処分前の陶器を回収して自室に持ち帰ったのも、今日の為なんだと思うと小さな主の成長が感じられ、とても誇らしく嬉しかった。

 行動が決まれば時間はそう残っていない。二人は急いで庭に向かい、木製のバケツの八割程度の土をアデリナの自室のバルコニーまで運んだ。土自体は思ったより重量があったので二回に分けての運搬になったが、土いじりに慣れてきたアデリナの手際はとても良く、作業自体は一時間もかからず思いの外スムーズに終わった。


 最後に水をたっぷりやり終え特製エプロンと共に、これまた特別に子供用サイズに作られた空になったブリキ製のジョウロを持ち、満足顔の表情で立っていたアデリナはその後、昼食をとったり親族を迎えたりと、昨年同様に家族や使用人達に祝われて誕生日の一日を幸せな心地で終わらせることが出来た。

 昨年と違うのは、自身の考えで行動し楽しむ幅が増えたことだろう。しかし何気ないこの種植えが十日後、またしても夫妻と側近達の悩みの種となり育つなどど、メルは想像だにせず温かい気持ちで十日間の水やりや、種への声掛けをするアデリナを見守る日々を送る。



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