14 不思議な筆記帳②


 見たことのない筆記帳ーー

 見たことのない万年筆ーー


 それらを手にした娘のアデリナは自室のベッドの真ん中で、寝具の上に広げた筆記帳へとせっせと自分の名前を書き込んでいる…らしい。

 うつ伏せの体勢でリズミカルに足をバタバタとさせ、鼻歌まじりのご機嫌なアデリナを書類片手に、時折話し掛けながら見守っていたアンナだったが、アデリナ用の果実水を手に厨房から戻ってきたベルタを目にすると『お父様を呼んでくるわね』とアデリナに告げながら、婚姻記念の際にクラウスが帝国の工房にオーダーし作った揃いの指輪へと僅かに魔力を通す。

 この指輪には夫妻が離れた場所にいる時、一キロに満たない程度の距離限定で互いの位置がわかったり、呼びあう為の魔法式が施されている。

 元々一つだった希少な鉱石である魔晶石を二つに割り、ペアリング仕様に術式が組まれている物だが滅多に使う事はない。

 新婚当時、浮かれた夫のクラウスがやたらと乱用してアンナに説教される事もあったため、アンナ自身がこの機能を日常的に使用することは今までなかったが、記念の装飾品としてデザインは気に入っているのと、身に付けていないと夫が目に見えてしょげてしまうので常に身に付けてはいた。

 頻度で言えば、邸内の側近達を呼ぶための呼び鈴型の魔導具の方を十とすると、指輪の使用度は一にも満たないし直近で使ったのも思い出せない程だ。


 アンナが娘の寝室を後にし続きの居室を通り廊下に出ると、遠くから階段を掛け上がる音が聞こえた直ぐ後、廊下の角から足早にこちらへ向かってくるクラウスの姿が見えた。

 遠目にも伺えるほどに、血相を変え足を早める夫を目にして『指輪を使うタイミングが悪かったみたい…』と少し反省する。


 「アンナ!何があった?アデリナは…」

 「ごめんなさいクラウス。アデリナは変わらず健康そのものよ」

 「そ、そう…か。良かったぁ…」


 指輪の波動を感知した直後から、焦りでこわばっていた肩の力が抜けホッとする。


 「今はベッドの上で大人しくしているわ。色々と書きたいことが多くて夢中なせいでベッドから動かないという方が合っているかしら…」

 「ああ…あの筆記具達か」


 夫妻の脳裏に、娘の抱えていた筆記張と万年筆が浮かぶ。アンナはクラウスを促しアデリナの居室のソファーに移動すると、思わず指輪を使うほど慌ててしまった理由を話すため、手短にこの数時間に確認したアデリナを取り巻く様子を話した。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 「お母さま、ここにお父さまとお母さまのお名前を書いてほしいの。それから裏庭の大木のお名前と…」


 ベッドの側で書類に目を通しサインをしているアンナへと紙を差し出し、両親と子爵家の邸宅に関わる名称の手本をねだるアデリナは、二ヶ月前から始まった授業によって読む事には早々に慣れてきたが、書くのは自身の名と花や果実などの短い単語くらいで、それすら時折反転し鏡文字になったり逆さにひっくり返る事もある。

 よって、今すぐに書きたい人名やまだ習っていない文章などは手本に頼るしかないのは至極当たり前だった。

 アンナが【父クラウス・ルラント、母アンネリーゼ・ルラント…】等々と、読むことは容易に出来るアデリナへ簡易的なお手本をサラサラと白紙に書いていく。


 「ありがとう、お母さま!上手に書けたら見せてあげるね」


 ベッドの上で手渡した紙を笑顔で受け取って嬉しそうに言うと、筆を再び自分だけの世界に集中しだした。

 二十枚程度の多くはない枚数の紙を挟み束ねる紺青と銀色の装丁が美しい本に心の赴くまま絵を描いたあとは、自身の名前や何やらを手本と本を交互に見ながら書き綴るアデリナ。

 そして、それを書類に目を通し頭を悩ませながら見守るアンナとベルタに、アンナの執務室とアデリナの寝室を書類や関係資料を手に行ったり来たりするロベルトの姿、そんな光景は一時間を優に越えていた。


 「お母さまー!みてー」


 アンナに向けて両手で本を開き見せ、得意気な顔でいるアデリナだったが、椅子から腰を上げベッドへと近付くアンナの目に映るのは、早朝に見た時と何ら変化も無く線のひとつすら引かれぬ真っ白なままのページだった。


 「あらアデリナ、インクをつけなきゃ」


 ルラント邸内含む南部の貴族とルラント領地の要職に就く者が執務で使用する筆類は、効率化を最優先にしインクを付ける必要のない高価な魔導具であることが多いため、アンナは『うっかりしていたわ』と、たった今アデリナ用の果実水を求め厨房へ向かったベルタに仕舞ってあるインクも探してくるよう頼もうと踵を返そうとした。

 まず普段であれば一時間以上もインクのつかない状態で帳面に向かっているなど有り得ないが、今は次々に積まれる書類を通常の倍の速度で読んでは処理し、片付いたかと思えば再び持ち込まれる膨大な書類に目を回していたアンナは執務以外の事柄から、日常事に脳を切り替える際に一瞬ポンコツになっていたように思う。


 「いんく?」


 扉へ向かおうと背を向けたアンナにアデリナが不思議そうに問うと、呼び止められる形で再度アデリナに顔を向け答える。


 「その筆先につけなきゃ書けないでしょう?……って、こんな長い時間なにを……「書いてあるよ?ここも、ここも、ほら!」」


 アデリナは不思議そうな顔で、手にしている紺青の本を掛け布団の上にポスン!と置くと話しながら掌でペラペラと真っ白なページを次々と捲りだす。

 アンナはその捲られていく紙に、ふと違和感を覚え目線を離せないまま吸い込まれるよう一歩一歩ゆっくりと足を動かし、両足の行き止まったベッドの端に腰を落ろし、アデリナに確認するように語り掛けた。


 「たくさん…書いたのね。初めに書いたページからお母様に読んで教えてくれるかしら?」


 混乱している心の内が出ないようニッコリと微笑み、アデリナの肩を撫で問いかける。


 「うんっ、あのね…」


 そんな嬉しい母からの提案を聞き、寝具の上に広げられた本を最初のページから一枚一枚意気揚々と説明しだすアデリナだった。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 「……それでしばらく話を聞いて、実際に書いている様子も見ていたのだけれど…」

 「けど?」

 「朝、私達が隅から隅まで確かめた時には二十枚にも満たなかったはずの紙が多くなっていたわ。その後もアデリナが何かしら書くと増えるの」

 「?……増え、る?どういう事だい?」

 「そのままの意味よ。あの子が書いても書いても私には書き跡すらなく白く美しい紙にしか見えないけど、確かにアデリナが何かを記してその分の紙が増えていくわ。それで驚いてしまって…つい指輪で貴方を…」


 『ふえる…ふえ、る?』と口の中でブツブツ呟きながら腕を組み目を閉じてしまったクラウスだったが、その様子を共感しかない不憫な眼差しで見つめるアンナ。数十秒そうしていると、何かしら気持ちの整理が出来たのか閉じた双眸がパチッと開いた。


 「それが事実なら、いやいや…君の言葉を疑うわけじゃなく「わかるわ、私も動揺して思わず貴方を呼び出してしまったもの」」


 焦るクラウスと直ぐ様肯定するアンナは目を合わせ、どちらからともなくふっと笑うと、わずかに考える余裕が生まれ、どちらともなく頷き背筋正して娘のいる隣室へ共に移動した。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 「アデリナご機嫌如何かな?」

 「お父さま!」

 「顔色も良いね、食欲はどうだい?」


 アンナと共に寝室に入ってきたクラウスにアデリナが手を伸ばすと、その体はヒョイッと軽々抱き上げられる。


 「機嫌はとってもいいし、お腹も空いてきたかも」

 「そろそろ昼食の時間だね。私も二人と一緒にとる事にしよう。ところで何をしていたのかな?」

 「絵を描いているの」

 「そうなんだね」

 「ほんとはもっと文字も書きたいけど…」


 僅かに肩を落とし、言葉を濁しシュンとする娘の様子にアンナが気遣うように声を掛ける。


 「まだ始めて間もないのに、アデリナの勉強は予定より早く学んでいるってロベルトが報告してくれているもの。知らない事はこれから少しずつ覚えていけば良いわよ」

 「そうだ、焦らなくていいからね」


 まだ学び始めてふた月、それでも每日一時間程度行われる勉強時間と、好奇心を持て余し関心事に没頭しがちなアデリナとの相性はすこぶる良く、名前や簡単な単語の読み書きはあっという間に覚えていった。

 とはいえ二ヶ月弱の一日一時間で学ぶのは文字だけでなく数字関連もあり、文字教科だけでいうと一週間で三時間にも満たないものだ。ここまでで覚えたのは圧倒的に読みが大部分で、流暢に日記や手紙が書ける程ではない。

 絵本の読み聞かせの時に知っている単語をちらほら見つけて喜ぶ位の微笑ましいものだ。


 「お勉強いっぱいしたいな……」

 「うーん…勉強は早くても来週からかな。治ったと言っても、あと少しは休んでいっぱい栄養をとること。元気になるのは勉強と同じくらい大事な事だからね」


 そう言ってクラウスはアデリナをギュッと抱きしめた後ベッドへと下ろす。医師の診断によると熱が下がった事で病的な不安要素はないらしいが、目に映る娘の姿は発熱前より明らかに痩せており寝続けた結果体力も衰えているようで、立ち上がると多少ふらつきも見える。

 体重と体力の回復面ではクラウスとアンナも不安が全て払拭したわけでもなく、医師達にも焦ることなく徐々にしていくよう口酸っぱく言われた事もあって、ここでアデリナの要望を通すわけにはいかない。


 「それで、アデリナは良い子で大人しくしていたかな?」

 「いい子にしていたよ!お母さまがこれを書いてくれたから、マネして書いたの」


 アデリナの手には今日の日付や、簡単な文字が記されたアンナ特製のお手本が握られていた。


 「ん?これは勉強じゃないのかい?」

 「ちっ、ちがうもん!私ベッドでおりこうさんにしているもん」


 取り上げられては堪らないとばかりに身の回りに散乱する筆記具や紙をかき集め、クラウスに主張するアデリナの小動物のような動きに思わず笑いがこみ上げる。


 「そうか違うのか、ごめんごめん。昼食の用意が済むまでもう少しあるから続きを見ていても良いかな?次は何かな?」


 クツクツと笑いながらアデリナの頭を撫でるクラウス。


 「日記は書いたから、次はおーじの絵を描いているよ」

 「そうなんだね」

 「最初のページにも描いたんだけど思ったように描けないから、練習するの」


 『また出た。おーじか…』夫妻がそう思った時ふいに、目覚める前に二人で同時に見たと思われる夢の中で、確かに聞いた耳に残る大人と子供のがよみがえった。


 「おーじはあれかもしれないな」


 子供がいたな…との夫の小さな呟きに、肩を寄せ座るアンナが目を伏せ肯定の素振りをみせる。クラウスとアンナが共に不思議な夢を思い出しながらアデリナの手元へ視線を移すと、くっきりとは見えないものの、アデリナがペンを走らせる度に薄っすら筆先にキラキラと何かが発光しているように感じられた。

 目で見えるというよりは、光る粉がチカチカと弾けるように感じられるという表現が相応しい微かな光だ。夫妻は知らないがアデリナが妖精達の完全な姿を認識する前に『見た』あれに似た光。

 夢で聞いた大人と子供の声を思い浮かべたのが起因しているかのように、一瞬前まで見えなかったはずのものが今は微かな光として見て感じとれる。

 気づいた瞬間ハッと目を擦ってみたが光は消える事なく見え続け、もう驚く事にも慣れてきた事に重ね、今朝までの看病と執務によって頭と身体に疲労を募らせている夫妻は、抵抗しようもない現象を受け入れる方向に舵を切り、筆を走らせるのに夢中な娘の傍らで『あ~、どうしようか…』と遠い目をしたまま隣室のテーブルへと運ばれる食事が揃うのを待ちながら過ごす事にした。



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