6 4歳精霊祭初日 和やかな親子水入らずの午後
アデリナ寝室
「あらあら、幸せそうな顔で眠っているわね‥」
散歩を終え、庭から部屋に戻るやいなやソファーで寝てしまったアデリナはメルと古参のベテランメイドの手によって着替えが施され、メイドに抱かれベッドへ移されようとしたところに執務を終わらせたアンナが寝室の扉を開け入ってきた。
ベッドの傍らまで近付きながら笑い呟く横顔は楽し気だ。メルともう一人のメイドはアデリナに布団を掛けると数歩下がり、入れ替わるようにアンナが小さな寝息をたてる娘のベッド前へ出て腰掛け、愛おしそうにおでこから頬を撫で少し眺めた。
数秒そうしたのち、背後で控えている二人向け囁くような小声で言葉を掛ける。
「今日の報告は執務室ではなく隣の部屋で聞くわ。あなたも持ち場に戻っていいわよ」
最初の指示はメルを見ながら、続く後の指示は大勢が休暇中の邸宅内で、いつもより広範囲の雑務を抱えるであろうもう一人のベテランメイドへ促すように告げる。
返事の後メルは隣室へ向かうアンナの後を追い、メイドの方はこの後にある仕事へと移動すべく歩く。
「さて…と、私も執務室から時々見てはいたけれど…あれは何だったのかしら?近くにいたあなたから見てどう感じたのか聞かせて貰える?」
アデリナが就寝以外の多くの時間を過ごす部屋の中央に置かれたソファーへと腰を下ろしながら、アンナは素直に浮かんだ疑問をメルに問いかける。
書類片手に双眼鏡で見ていた娘の姿は楽しそうではあったものの、アンナには見えない【何か】と戯れ転げ回っているように見えたが、実際距離はあれど目視出来る空間に居たメルの目にはどう映ったのか確かめたかった。
「あの、はい…お嬢様が…どう見えたのか、と…」
アンナからの問いかけに、何故かつい先程までの木の下で起きた不思議な光景が脳裏から薄れている事に気付き、続く言葉を言い淀む。
そんなメルの強張った表情を目にしたアンナは、実際は違うのだが自身の言葉に圧があったかと思い声を和らげる。
「ああ…何も責めているわけじゃないの。たださっきメルが私に相談に来た時に思ったのよね。今日のような日にあんな不思議なことがあるなんて、ってね?」
アンナの言葉に『あ!』と声にならない返答と表情でメルは反射的にアデリナの眠る寝室の方を見て、再び視線をアンナに戻し答える。
「確かに精霊祭の今日ならあの様な事が起こっても…」
辺境やでは昔から精霊に感謝を伝える精霊祭の日には、常時では見られない事象が起こると伝えられている。南部や隣国での子供の読み物にもそのような題材は少なくない為、南部生まれ南部育ちのアンナも何か起こるといいなと願い、ワクワクと過ごした幼い頃の精霊祭を双眼鏡を覗きながら思い出した。
「そうなのよ。この領地は国内でも稀に見るほどに自然豊かだし、まだ幼いあの子に精霊様達からの触れ合いがあったのかもしれないと思ったの。昼食の時にアデリナにも聞いてみるけど…まるでお伽話の様よね」
しかしそんな事はまさしく『伝えられている』に過ぎず文字通り言い伝え程度の認識だ。アンナも先程のメルのように寝室の扉を見つめ、困惑顔で頬に左手を当てると苦笑い混じりの吐息をこぼした。
「ほんと実際何があったのかしらね…」
◇ ◇ ◇ ◇
ルラント子爵家食堂ではいつもより遅い昼食時間がとられていた。
「このお野菜あまーーい!」
「わぁ!このお魚いつもよりおいしい気がする!」
「スープもとってもおいしい!おかわりしようかな」
食堂中央に置かれた八人掛けのダイニングテーブルでは、昼寝から目覚めたばかりのアデリナのプクプクした両手にしっかり握られたカトラリーも、食材で満たされた小さなお口も、話し食し休むこと無く忙しなく動き続けている。
庭で駆け回った後に十分寝たことで空腹が限界突破しているようだ。
「アデリナ、口に食べ物が入っている時は話さないようにね。それから慌てずに食べるんだよ。飲み込んでからゆっくりお喋りをするといい」
領都広場で早朝から領主としての仕事をし、集まった大勢の大人達との交流をある程度済ませ大急ぎで帰宅したのち、軽装に着替え食堂の定位置に座る事の出来た父クラウスの内心は、口いっぱいに食べ物を頬張り幸せそうにしているアデリナに向かい『美味しいのかい、良かったねぇ』とでも言って頭を撫で回したい衝動に駆られている。
しかし、娘の先の事を考え必要以上に下がりそうな目尻を凛々しく引き上げ、貴族らしい穏やかな笑みで娘を諭す。隣に座る妻アンナはそんな夫の甘やかし気質を知っている為、心の声が聞こえるようで可笑しかったが心の内に収め、素知らぬ振りで食事を進め食べ終えた三人は共に食堂を後にした。
いつもの昼時はというと、夫妻共にゆっくりとお茶の時間を割ける事は滅多になく日々舞い込む仕事が膨大で、各々執務室の机から離れられない事に加え、夫妻片方若しくは両方共に外での仕事もそれなりにあり昼食自体不在の日も少なくはない。
だが今日からの精霊祭三日間は午前に僅かな業務はあったものの、基本的には休みで屋敷内の使用人も通常より大幅に少なく、この三日間務めている者も皆で遣り繰りし半休等で祭りを楽しみ、後日改めて正式な休みをとるというのが子爵邸で仕える者の例年通りの働き方だ。
常に首都に住まう高位貴族と各地に住む高位貴族は、王城で早朝に行われる当主のみが入場を許される精霊祭始めの儀、その後昼から三日間に続き行われる当主とパートナーを伴う祝いの宴への参加が必須だが、首都から馬車で片道六日も要する下位貴族の子爵家には無縁な行事である。
とはいえ夫妻はこの地と領民を慈しみ大切に領地を治め管理しているので、必要以上に登城義務の発生しない王都までの長い距離と低い爵位に感謝しているのが実際の心情だ。
精霊祭の祭自体も子爵領内各地でも催され、それぞれの地に合った特色で領地民も楽しんでいるので子爵夫妻はとても満ち足りている。
◇ ◇ ◇ ◇
「お話の部屋に行くの?」
本邸右側の棟は全ての階が家族の私的フロアになっている。家族用のこじんまりとした食堂や私的図書室等の様々な部屋が地下から地上三階と屋根裏に配置されていた。
そんな棟の一階にある小食堂を後にしてアデリナの自室もある二階に向かいながら、両親の間で二人の手を取り歩くアデリナは父を見上げながら問う。
以前【談話室】という部屋の意味を聞いて理解はしたものの覚えた当時、難しい言葉を上手く言えなかったアデリナは、時折り使う家族の談話室の事を『おはなしのへや』と言っていた。
今も尚その言い方を無意識に使う娘を微笑ましく思い、クラウスは『そうだよ』と肯定し優しく返す。幾つかの扉を過ぎ三人が談話室に着きソファーに腰掛けると目の前のテーブルの上は既に調っており、最後の仕上げであるお茶を淹れる作業に移るメイドの動きは無駄がない。
昼食後なのでお茶請けは軽くしたい旨をアンナが食前に厨房へ伝えておいた焼き菓子と果物が並べられてる。
「あとは私がやるから下がっていいわ。ありがとう」
アンナが告げるとメイドは一礼したのち部屋を後にした。午前中にいたアデリナの専属侍女見習いのメルも、今日は午後からの約三日間はこの邸宅から離れた領地内の実家で過ごす予定だ。
久々に他の者の目がほとんど無い、親子水入らずを過ごせる数少ない日々を楽しめるのも精霊祭休暇ならではである。更に今日はアデリナに訊きたい事もあったので家族のみという空間は好都合だった。
真ん中にアデリナを座らせ両側に腰掛ける夫妻の装いも普段より気持ち簡素なリラックスしたもので、長時間家族と向き合うのに相応しく穏やかな緩やかさだろう。
そんな緩やかな雰囲気のままのアンナが、なんの気なしといった様子でにこやかにアデリナへ尋ねる。
「アデリナ、今日のお散歩はいつもより楽しそうだったわね」
「うん!お母さま私、おともだちがたくさんできたの!」
娘の言葉に夫妻は一瞬目を合わせ、再び娘の方へ笑みを浮かべると、内心ではしっかりと話を聞く体制を整えることにした。
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