5 4歳精霊祭初日 (後半侍女メル視点)
アデリナの誕生日から約ひと月が過ぎた子爵家。四歳を迎えた当日より徐々に始まったアデリナの屋敷内及び裏庭の散歩は、最初の数日は様子見の側面が含まれていたこともあり、本邸宅の周囲を壁に沿って休み休み三十分弱歩く程度の事から行われた。
しかし予想以上に活発に練り歩くアデリナは四日目にもなると、同じ場所を辿る事にすぐに物足りなさを感じ始め、翌週半ばには邸宅から数段下がった位置にある裏庭の噴水周辺に降りる事を母アンナへと直談判し許可をもぎ取った。
もちろんベルタやメルと護衛の騎士を伴う事は変わらないが、自由に動き回れる散歩ルートの拡大は両親の当初の想定より早い速度で推し進め、現在では本邸宅から遥かに距離のある裏庭中程辺りを歩く事も増え始めていた。
たった一ヶ月と数日でここまで散歩範囲を広げる事が出来たのは、散策速度以外にもアデリナの学習速度も想定より早く意欲的だった事もある。
これによって得られた先生の役割も担う執事ロベルトからの進言、併せて子爵家に代々仕えている一族で庭師長を勤めるエドガーからの『地中に埋め込む警備用魔道具の設置ならお任せくださいな』の言葉も大きく影響しアデリナお散歩ルートは幾つも増えていった。
今日この日まで、問題なく平和に時間が経ったルラント子爵領には暖かい日が増え、大陸内の全ての国の各地で共通して三日間催される【精霊祭】の日を迎えていた。
太古の昔から、実りや天候その他の生きていく過程で必要な全ての根元や源に精霊が関わっていると信じられており、この三日間はその精霊への感謝を祈る日とされている。
祝祭の中でもトップレベルの大祭で、騎士や治安部隊と精霊祭りに出店する商店等の者を除き、ほとんどの商いや役場学院は完全な休みだ。従って子爵家に日常的に仕えている使用人の大半も邸宅に姿はなく、アデリナの朝の勉強も勿論ない。
しかし子爵夫妻は共に前日夜までに持ち込まれた書類仕事に加え、領主であるクラウスには領都で催される祭り会場の中央広場で、精霊祭の始まりを告げる役目もある。
朝の六時の鐘が響くと王都では城内に集まる高位貴族当主らを前に国王が、各領地ではその地の領主や名代が告げるのが慣例となっており、開催宣言後のクラウスは、早朝から宣言の場に集まった領内の主要役職に就いている者や、各組合長等と挨拶程度に交流や言葉を交わす。
その頃、夫人のアンナは正午からの精霊祭三日間の休みを確保するべく、前夜までに届けられた多くの書類の処理を夫が帰宅するまでにキリの良いところまで仕上げるべく奮闘していた。
結果、両親の仕事が全て終わる昼食辺りまでの時間を持て余してしまうアデリナは、いつもと同じように今日も庭を散歩くことになっていた。
前日の朝食時、アンナに自室か夫人執務室で共に過ごすか聞かれたが、屋内より外に出る事を選んだのはアデリナ本人の意思によるものである。
というわけで本日は自室で一人での朝食を済ませたのち、昨夜メルが母から許可を受けたルートをアデリナとメル、護衛騎士の三人は学習の時間がない事で普段より一時間以上早い時間からゆっくりゆっくりと歩き、時々興味を引く何かに立ち止まったり、大規模な休みで人数の少ない閑散とした廊下などで稀に使用人に出会えると、嬉しそうに軽く言葉を交わしたりし普段と差して変わらない時間を過ごしていた。
三人の目指していた散歩の最終地点、裏庭の大木に到着するまでは実に順調だった…そう、つい先程までは…。
◇ ◇ ◇ ◇
裏庭の大木周辺 メル視点
「あのねメルはここまで!ここからは来ちゃダメなんだって」
アデリナがメルの手をとり、木の根本から軽く見積もっても十五メートル以上は離れたであろう場所まで引っ張り連れて行き、小さな手足全体を最大限に使って壁のようなジェスチャーで主張する。
メルが少しでも木の方向へ移動する素振りを見せると、再びぎゅうぎゅうと押し戻しにやって来るのだ。それはメルに限った事ではなく護衛騎士に対しても同じことをしているのが遥か遠くの方に見える。護衛騎士に向かい話している内容までは分からないが、ぴょこぴょこ跳ね元気に話している声自体は聞こえてくる。
「……困ったな」
誰に言うでもなく、アデリナを見守る位置としてこの距離は正しくない気がするのと、この後のスケジュールなどを考え思わず口から溢れ落ちるように言葉が出てしまう。ここからアデリナがいる大木の方に近寄ると、脱兎の勢いで来ては押し戻される…を繰り返されてしまう謎の行動をどうするべきか。
今居るこの距離は見守るには余りにも離れすぎていて、少し張ったくらいの声では届きづらいと少し考え、ハッと浮かぶ。
「あ!そうだ奥様だわ!」
メルは護衛騎士の元へ走り子爵夫人の元に行く旨を伝えアデリナの事を一先ず見てもらい、大急ぎで今の時間夫人が居るであろう執務室に大急ぎで向かい、着くやいなや事情を話し指示を仰いだ。
いつもなら直接夫人へではなく直属の上司であるベルタに聞いているが、クラウスとアンナの『三日間の休みは必須』との強い押しに従い、夫のロベルトと共に早朝義実家へと向かった為不在なのである。
アンナがアデリナを身籠ってから、執事のロベルトと侍女兼乳母のベルタが精霊祭三日間に邸宅を不在にするのは初めての事。
「そう…乳母のベルタなら分かるけれど、メルを困らせるなんて珍しいわね。一体どうしたのかしら」
アデリナの様子を聞いたアンナは、机の上に常備している魔道具の双眼鏡を手にし執務室の窓から娘のいる庭を見ながら、大きく驚くでもなく落ち着いた様子で答えた。
「あらあの子…何だかいつも以上に元気にピョンピョン飛び跳ねて……。ふふふっ…」
双眼鏡を覗くアンナの目は楽しげに細められた後に一瞬何かしら考える表情をしたが、考えるのを止めニッコリと笑いメルに体を向ける。
「子供の行動って本当に不思議ね。休みの間はあの辺り一帯の警備用魔道具は十分に強化して配置してあるし、今日のところは現在あの子が立っている範囲であれば好きにさせて、離れたところから座って見守ってくれればいいわ。暫くしたら適度な時間に部屋に戻るよう伝えて頂戴。 あの子が手を付けていない菓子類は…うーん、そうねメルあなた午後から精霊祭の休暇だし良かったら厨房にある分も併せて持って帰ると良いわ。ではもう戻りなさいな」
「は、はい!奥様ありがとうございます」
精霊祭の今日も今日とて、早朝から執務机に並べられた書類を相手にしているアンナの貴重な時間をこれ以上割かないよう手短に返事をし頭を下げ夫人専用の執務室を辞した。
仕事をこよなく愛し、精霊祭の期間も実家に帰らない子爵家専任料理長の祖母が、貴重な高級食材で手掛けた菓子類の実家への持ち帰りは、主人であるアンナの精霊祭の気遣いだと理解するメルの足取りは、焦りで疾走した行きとは意味が違う早さで心も足取りも軽く駆けていた。
◇ ◇ ◇ ◇
あれから一時間近くが経過した現在、この家の小さな令嬢アデリナを庭の真ん中で遠巻きに見守る護衛と侍女(見習い)の図が出来上がったのである。
いつも好奇心や元気が有り余り楽しそうに走り回ることはあるが、四歳という年齢にも関わらず、これといった我儘などなかったアデリナの突然の不可解な行動に、当初困惑気味のメルと護衛騎士ではあったが、気持ちの良い青空の下で楽しそうに転げ回るアデリナの姿を見つめている内に、不思議と困惑さは薄れ微笑ましい気分になり暫し見守りを続けていた。
風に吹かれ両手を広げたり幼い子ども特有のコロコロとした笑い声を上げながら芝生の上を走るアデリナの姿は、まるで誰かと遊んでいるようにも見える。
まだ見習いの身であるメルと今日の護衛に付いている入隊二年程度の年若い騎士の二人は、何をするでもなく互いに遠く離れた場所からアデリナを見ている。
目の前では平和な空気が流れてるが、実際この国や周辺国では七歳未満の幼い王公貴族の子供が誘拐される事件が長く未解決のまま続いているので警戒は怠れない。
公にはされていないがアデリナが生まれて一年と少しが過ぎたある日、ルラント子爵家の正門の外側と厨房出入り口付近に様子を探るための高価な魔道具が、それと判らぬよう偽装され仕掛けられているのが発見された。
発見の切っ掛けが厨房勝手口の外で遊んでいたメルの一言だった。これにより他の場所にも複数仕掛けられていると予想、警戒し探索を開始した数時間後の真っ昼間、三階の子供部屋にいたアデリナの誘拐未遂事件が起きてしまったのである。
そしてその半年後にも再び魔道具を仕掛けようとした不審人物の捕縛騒動もあってアデリナの周囲は本人は知らないだけで、現在もピリピリとした空気は絶えず続いている。
しかし、その誘拐未遂事件を知っているのはアデリナの両親と子爵家の身近な血縁者とその側近達、料理長であるメルの祖母や庭を管轄している庭師長のエドガーと子爵家騎士団の上層部のみで、当時一歳だったアデリナ本人すら知らない。
メルは料理長の孫という事もありハイハイ期の頃から厨房にいることも多かった。三年前は今より身長が低かった事もあり、厨房の勝手口付近に巧妙に設置されていた、目にしたことの無い存在にいち早く気付き料理長である祖母に『これは何?』と子供の自然な疑問を口にしたという経緯もあって、その後の誘拐未遂事件も詳しくはないものの知ってはいた。
そんな裏事情を全く感じさせない暖かな庭とアデリナの姿を眺めながら、三年前の犯罪用魔道具を見つけた後の緊迫感が張り詰めた厨房の空気を思い返していると、あっという間にこの不思議な光景の終了時間が訪れていた。
メルは自身のエプロンのポケットから懐中時計を取り出し、現在の時刻を確認するとパチン!と小気味良い音を立て蓋を閉じ再びポケットへとそれを仕舞い息を大きく吸う。
「アデリナ様ー!アデリナお嬢様ぁー!本日のお散歩の時間は終わりでございますーー!!」
離れたアデリナに届くよう、ありったけの大声で叫びながら両手を頭の上で大きくパタパタと振るメル。
強弱の波をつけ不自然に吹く風の中を、何やら変わった動きをしていたアデリナは呼び声に気付き、はたと動きを止めて一度こちらを見たあと背を向け、首を振ったり頷いたりをほんの短い時間繰り返したのち、満面の笑みでメルの元へと全力で駆けて腰に抱きついてきた。
「メルー!楽しかった!風がビュービューってお顔に当たって気持ち良かったぁ」
抱きついたまま顔を上げ喜ぶ小さな主の表情に、先程まで感じていた小さな困惑は何故だか不思議と消えていった。
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