2 アデリナ4歳誕生日までの数ヶ月と当日(前半アデリナ視点)
私の名前はアデリナ・ルラント四歳の子爵家の娘。二ヶ月前に誕生日を迎え大きくなった私には、お姉さんらしい幾つかの新しい【日課】というものが出来て、現在はそれを中心に時間が流れ三歳の時とは比べられない程もっと楽しく、そして忙しくなった。
一日の始まりである朝の目覚めから以前とは違い、毎朝決まった時間に起きて七時になる少し前に合わせ身支度を済ませると、食堂に向かう。そしてお仕事を中断し七時ピッタリにやって来るお父さまとお母さまに朝の挨拶をした後、お話をしながら一緒に朝ごはんを食べるの。
お誕生日の前日までは、今よりは少し長く寝ていたし、朝ごはんも待っていれば運ばれて来て、自室から出ることもなく済ませる事が出来た。それから大抵食べている最中にお父さまが来てお喋りをしたり、お母さまが来たらベルタに代わってお食事の面倒を見てくれる事もよくあった。
それらを思い出すと今現在、自室を出て廊下や階段を歩き食堂に向かう朝から晩の食事時間は、まだまだ新鮮で不思議な気分が抜けないでいる。
『当主様と奥様はたくさんのお仕事があるのでアデリナお嬢様が起きるより早い時間から執務室でお仕事をしているのです』って乳母のベルタやお母さま専属の執事ロベルトが言っていた。
それもあり唯一過ごせる朝の家族三人の時間でさえ三十分くらいの短いもの。それでもお父さまお母さまが揃って、毎朝お喋りできるのは私にとっても嬉しく大切な時間。
家族でテーブルを囲んだ後は、八時からの一時間くらいを文字や数字を習う【お勉強の時間】としている。いつもはお母さまのお仕事のお手伝いをしているロベルトも、この時間だけは私の先生に変わる。
ロベルトが最初に教えてくれたのは初級の文字の読みに書き取り、そして『これからとても必要になるので最初に覚えちゃいましょ!』と言っていた時計の読み方だった。
文字のお勉強全般は、何事もなく楽しくすんなり学んでいった。ただ時計のお勉強に関しては、朝の決められた勉強時間以外でも廊下とかでロベルトとバッタリ会っちゃうと、悪巧みをするみたいな楽しそうな笑顔で近付いてきて、ロベルト愛用の懐中時計を開き『さてお嬢様、今は何時でしょう?』って気が緩んでる時に限って現れ、何度も何度もしつこく聞かれた。
お勉強を始めたの最初の週は、ロベルトのお顔をした時計のお化けに追い回されている夢を見るくらいだったけど、翌週末の朝ごはんの時の何気ない会話から、時計を難なく読めるようになった私に気付いたお父さまが『凄い!勉強を始めてまだ一週間なのにアデリナは天才だ!これは父上達にも手紙で知らせなくては!』って食堂で大袈裟に騒ぎだして、お母さまに呆れられていたの。
凄いのは私の夢にまで出て、追いかけてきたロベルトなんじゃないかなって思ったし、天才はかなり言いすぎなんじゃないかって恥ずかしかったけど、お父さまに呆れた顔を向けていたお母さまやベルタやメルも、お勉強をがんばっている結果だわ偉いねって、たくさん誉めてくれるのを聞いて、少し前には出来なかった事が出来ているんだって思って嬉しかったし誇らしく感じた。
早起きやお勉強以外の毎日の日課、三つ目は敷地内のお散歩。お勉強が終わった後、二時間から三時間くらいをみんなが本邸って呼んでるお家の周りとか、裏庭だったり少し離れたところにある大きな温室の中をお散歩する。晴れている時はお外で、曇りや雨の日は邸宅内って感じらしい。
一人でのお散歩が始まってからの今日までは、お勉強日とお散歩日がある平日に雨が降ることがなかったから、まだこれといった雨の日のお気に入りの過ごし方は見つけられていないし、お母さまからの決まり事もまだない。
たくさん歩いてお部屋に戻ったら、ご本を読んだりお絵かきをして好きなことをしていると、すぐ十三時からの昼食時間になる。四歳になってから変わった事の最後のひとつ、これは毎日ではないから日課とは違うんだけど、お昼ごはんの時に少しだけお食事マナーのお勉強が始まりだした。忙しくて来れない時もあるけど、昼晩のお食事はお母さまが一緒に過ごしてくれる事が多くて、お母さまがいる時のお昼には簡単な作法や食べ方も少しずつ教えてくれる。
例えば、前までパンを食べやすくちぎってくれるのも、盛り付けられた料理の簡単な切り分けも乳母のベルタがしてくれて私はフォークでそれを口に運ぶだけだったけど、四歳になってからは毎日少しずつ自分一人で出来るよう、お母さまがお手本を見せてくれては見よう見まねでフォークやナイフを手にモタモタと料理を口に運び、ある時は上手く出来たり時に失敗をしたりを繰り返している。
お食事のマナーは時計の読み方を覚えたり文字を読み書きするよりむずかしくて、なかなか上手くいかないため今もまだまだ勉強中だ。
朝と晩ごはんは今までと同じようにベルタが助けてくれるけど、前より手伝ってもらう事がひとつ、ふたつと少しずつは減っていってると思う。
お勉強やマナーに関して、何故こんな事を習うのか良く分からない事も多く、ある時ベルタに聞いたら『六歳から始まる多くの勉強のために、今やっている事はそれに慣れるための大切な練習時間なのですよ』って言っていた。
お母さまが一緒のお昼に教わるテーブルマナーも『六歳まではまだまだ先だもの。慣れるための練習はした方が良いけど今は楽しく何でも美味しく食べる時間も大切よ』という母の方針もあり、朝と晩や一人でのお昼ごはんの時は基本自由に食べても大丈夫なんだけど、あまりにお行儀が悪すぎる流石にベルタに注意されちゃう。
いつも明るくて優しいお母さまとしっかり者で優しいベルタは二人とも怒ると同じくらい恐いところが似ている気がする。
それ以外にもお母さまは『マナーだけじゃなくて六歳になったら邸宅外から様々な方面の専任の先生が来てくれるから朝も昼も夜もちゃんとしなきゃいけなくなるのよ』って言っていた。
ずっとちゃんとするのは少し難しいなって思うし、来てくれる先生は優しいと良いなとも思う。六歳になって今よりもっと大きくなる頃には一人で出来る事がもっと増えて、お母さまみたいに素敵になれているのかな?そしたら【良いこと】がまた起こるのかな?
多くの事が解禁された先日の誕生日の朝、そして解禁のきっかけとなった半年ほど前の光景が脳裏に浮かび『もっとがんばる!』と気合いの入るアデリナだった。
◇ ◇ ◇ ◇
遡ること二ヶ月前のアデリナ四歳誕生日の朝食前の食堂
『今日から試しに一人で裏の庭園を少し散歩してみる?問題がなければお散歩を毎日の日課にするつもりよ』
『これはアデリナの新しい決まり事になるんだよ』
お誕生日の朝ごはんの前お父さまとお母さまがそう言った。お庭での散歩はお父さまやお母さまのお仕事がない日にしかできなくて、でもいつも忙しいからお散歩のできない日がほとんど。そんな日はお部屋でメイドのみんなといっしょに過ごしていた。
いつもと同じような毎日を送っていたある日、もうすぐお昼ごはんだからと、メイドのみんなが本やおもちゃを棚に戻している時に、少しだけ開いていた扉の隙間から目に入った廊下へと好奇心が沸き立ったかとおもえば、気付いた時にはその隙間を抜け『どうぞ走って下さい』と言わんばかりに真っ直ぐ長く続いている廊下を全力で走り回っていた。
ゴールに思えた廊下の曲がり角で運悪く出くわしたのは、私のお昼ごはんのために戻ってきた乳母のベルタで、その直後に今までにない程こっぴどく叱られた。
更にその報告を受けてすぐ駆け付けたお母さまからも『今後一人では廊下にも出ちゃダメ!』って強めのお説教をされたし、お食事を運んでいる最中に偶々居合わせたメルに手を引かれ部屋に戻る時、遠い廊下の向こうからメイドのみんながベルタとメイド長に叱られている声が少しだけ聞こえてきた。
この時、私がお部屋から勝手に出ちゃうと叱られてしまう人達がいることを知り、お部屋から出たいって言葉が自然と出なくなった。
後に【アデリナ廊下爆走事件】として笑い話しなる事件の翌日『お部屋を抜け出してごめんさない』ってお母さまやメイドのみんなに謝った時、お母さまとみんなは顔を見合わせ眉を八の字に下げ、何やら困ったように笑っていたのが不思議に感じ今も記憶に残っている。
『みんな、もう下がって良いわ』
そう言ったお母さまが私をおひざの上に座らせて、ゆっくりとお話をしてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇
『あと九十回眠ったらアデリナの四歳のお誕生日がくるわね』
『きゅう…じゅう?』
『そう、アデリナは今いくつまで数えることが出来るんだったかしら?』
『アディじゅうまで言える!』
『そうね、その十が九回過ぎたらアデリナは四歳になって今より少しお姉さんになるわ』
『じゅう…がきゅう?』
両方の掌を広げて一つずつ指を折りながらも首をかしげるアデリナを見て母のアンナが『ふふふっ』と笑みを溢す。
『どう言えばいいのかしら?……そうね…今のアデリナはまだ小さいけど、たくさん眠って残さず食事をとって知らない事は周りにいる皆に聞いて覚えて何よりいっぱい遊ぶの。そうして今より大きくて素敵なお姉さんになれていたら……』
『なれていたら?』
言葉を切って見つめてくる母の目を見つめ聞き返す。
『きっと良いことが起こるわ』
人差し指をうっすら紅を引いた唇に当てニコッと笑う母。
『 良いことってなあに?』
『それはアデリナが素敵なお姉さんになったらわかるわ』
『えーーー!』
『ふふっ、少しずつ頑張っていけばアデリナなら五歳の誕生日までには賢く素敵な女の子になっているから大丈夫よ』
『……おたんじょうび…いいこと…アディ…、アディががんばると…いいこと…』
気楽に頑張りましょうとアデリナをギュッと抱き、軽快に話す母アンナの言葉は耳に届いているのか、母に抱き寄せられながらも顔を伏せ言葉とも言えない、声になっていない呪文のような何かを口の中でブツブツと呟くアデリナ。
『……?アデリ…『おかあさま!!』』
急に大人しく動かなくなった娘を覗き込みながら声を掛けようとした母の言葉を遮りアデリナがガバッと顔を上げた。
『な、なあに?アデリナ?』
『アディがんばる!お母さまみたいに素敵になるよ!』
『え?…ええ…』
深刻ではなく母子の水入らずの語らい程度で将来的な事として提案はしたものの、拳を握りしめ高らかと宣言する程の事を言ったかと面食らうアンナをよそに、何やらメラメラ燃え滾っている娘のアデリナ。
そもそもこの時の母娘は互いに思い描く『誕生日』が大きく違っていた事に母のアンナは、娘の乳母兼アンナ自身の侍女であるベルタやアデリナ周辺にいる多くもない使用人達からの報告で後日じわじわと気付き始める。
素敵なお姉さんになる!という宣言のような何かの後の夕食は、両親共に忙しくアデリナは自室で一人だったが、食事の世話をしているベルタが驚く程にすんなりと残すことなく全て平らげた。
『お嬢様が苦手にしている食材も全て召し上がられベルタは嬉しいですよ』
『だって、いつもベルタが『えいようがあるから食べて』って言うでしょ?それに『食べやすいように小さく切ってあるから食べましょう』って』
『まあ……ええ、そうです。その通りですわ、お嬢様』
アデリナの側で嬉しそうに微笑むベルタ。
『アディ大きくなれるかな?』
『ベルタには今のお食事でお嬢様が少し大きくなったように見受けられますよ』
『ほんと!?やった!』
ベルタの言葉に気を良くしたアデリナは『もっと大きくなれるように今日は早く眠るの!』と言い、普段はなかなか自ら布団の中には入らず、その上で転がったり跳ねたり絵本を眺めたりと睡魔が来るまでを過ごし、やがて目蓋が閉じ寝落ちた後にベルタが寝姿勢を整えて寝具を掛けるのだが、その日を境に進んでベットの中へと入ってから側に立つベルタに『寝るまで一緒に数を数えよう』と言い出した。
最初は何かの気まぐれかと思いつつも『もっと言える数を増やして奥様や当主様に誉めてもらいたいのかもしれない』とその幼い向上心を微笑ましく思い、寝入るまで付き合おうと椅子に腰掛けた。
元々、好き嫌いが多い方ではなかったアデリナだったが、あの日から全く食事を残すこともなく、数日で飽きるかと思われた就寝前にベルタと数を数える事も途切れないまま日にちを更新していった。
それと平行して、日々部屋から出る事を楽しみにし常々『今日はお庭に行けるのかな?』が口癖だったアデリナの口から、そういった言葉が一切出なくなっていたが、常に忙しいにも関わらず本格的な春を向かえる前と秋を迎える前は一年の中でも群を抜く忙しさのルラント子爵家。
目まぐるしい邸宅内でアデリナの口癖に関してすぐに気付いた者は居なかった。気付かぬ要因のもうひとつに、庭での散歩を言い出さなくなった直後から自室の窓辺によじ登り、そこから見た庭の風景や空を意欲的に描く事が増えて、ベルタが用意した多くの紙は様々な色で埋め尽くされ再び新しい紙の束が運び込まれる事が多くなったのもある。
これによって、アデリナの興味が絵を描く事に向いていると両親も周りの使用人達も認識し、多くの絵の描かれた子供用の本やそれに付随する書物をアデリナの部屋に持ち込んだ。
その報告を受けた両親が、多忙で顔を合わせる時間が極端に減ってしまうこの時期の埋め合わせもあるのか、邸内のファミリーエリアとは玄関ホールを挟む形で反対側に位置する、来客等に使用する事の多いエリアに設けられた美術品が展示保管されている【美術ホール】を見て回る許可が護衛騎士二人を伴う条件で出た。
『うっわぁぁーーー!』
ベルタが解錠し続いて騎士二人の開いてくれた両扉は、閉じられた状態であっても、それさえ美術品のような美しさだったが屈強な腕により開かれた目の前に広がるホールはもとより、初めて足を踏み入れたこの来客の為の区域は廊下ですら美術品のようで、アデリナの知る【自宅】とは全く違う異世界だった。
しかし美術ホールはそれを更に上回るもので、ファミリーエリアなら二階にまで届きそうな高すぎる天井と、天井自体と壁の一部が発光しているかのような装飾の一切無いシンプルな照明が、中央通路の両脇、台座の上に並び立つ白や黒といった様々な色や形の像の存在感を際立てるように照らしていた。
彫刻や像が展示された空間を堪能した後の次の扉の向こうは、幾つかの作風や画家毎に分けられているのか、異なる区画に各々多くの絵画が展示されていたり、要所要所に壺や宝石の式典用らしき短刀等の美術品も展示されており、子供ながらに飽きる事もなく歩きまわり幼い足に疲れが見えた頃、アデリナの手を繋ぐベルタが自身のポケットから一目で特別だと理解できる美しいが重そうな鍵を取り出し『次が最後の展示部屋です』と告げた。
鍵の重厚さに似合いの、それまでより重そうな扉の鍵穴へとそれを差し解錠されるまでを下から見上げ、最後の部屋という興味深い響きに先程までの疲れも忘れて重い扉が開かれるのを心を躍らせ待った。
◇ ◇ ◇ ◇
そんなイレギュラーなイベントはそう無いものの、美術品ホールでの刺激はアデリナに良い影響をもたらしたようで、それまでは興味もなかった…というより目に留まる事のなかった自室の本棚上部に並ぶ地味な背表紙を指差し『あの本も読んでほしい』おやつの時間に食べやすいサイズにカットされた果物をフォークに差し、目が真ん中に寄ってしまう程じっくり見つめては『この果物、描いてみたいな…切ってないのもある?』などと言い、邸宅内での過ごし方や楽しみ方が目に見え変わりだした。
それに伴い今まで気付かなかった様々な身の回りの情報を吸収している内に四歳の誕生日の朝を迎えることとなる。
『アデリナ誕生日おめでとう』
『おめでとうアデリナ』
アデリナが乳母のベルタと共に入室した家族専用の小食堂には、父母であるクラウスとアンナが既に腰掛けて新たな年齢を迎えた娘を待っていた。二人が祝いの言葉を口にしながら立ち上がりアデリナを抱き上げ、再度『おめでとう』と伝えると嬉しそうに破顔し両親の首に抱きつく。
『お父さまお母さまありがとう!』
『今日からは朝食は私達と一緒にとる事になるけど、明日からも起きれそうかな?』
『うん!アデ…私、ちゃんと起きれると思う』
『今朝はとても早起きだったって聞いてるわ』
『だって今日は朝ごはんはお父さまとお母さまと一緒だし、お祖父さまとお祖母さま、それに叔母さまと叔父さまとも来るんだよ!』
『ふふっ、そうね。でも午後のティータイム辺りに到着予定だから今からだと随分時間があるのよ』
八時間近く先の予定に今からこの興奮。思わず互いに目を合わせ苦笑いをする両親をアデリナが不思議そうに見ていると、父の腕から絨毯の床の上にゆっくり下ろされる。アンナがその様子を側で見ながら『ねえアデリナ』と呼び掛け…。
『今日から試しに一人で裏の庭園を少し散歩してみる?問題がなければお散歩を毎日の日課にするつもりよ』
と言い出した母アンナの発言の意味がキチンと理解できないまま首を捻る。
『お母さまがお迎えに来てくれるの?』
父と母のどちらか、または両方がいる時にしか庭の散歩をした記憶のないアデリナは至極自然な疑問を投げ掛けたが、アンナは微笑みながら軽く顔を横に振った。
『毎日の散歩はアデリナが一人で行くのよ。護衛騎士も付いて、もちろんベルタやメルも一緒にね』
『メル?』
乳母のベルタが伴うのは当然だったが、現在学院に通いメイドとしても見習い中という身の為、他のメイドや使用人に比べ邸宅内での勤務時間や日数が短く、日中にアデリナの目に入る事が少ないメルの名が出た事に不思議に思うと、いつの間にか食事に呼ばれていたらしいメルの『へ?』という、思わずといった小さく漏れた声が背後から聞こえて、アデリナは振り返った。
『メルには卒業後に正式にアデリナの侍女になってもらいたいの。料理長には許可を貰っているのだけど…良いかしら?』
続いたアンナの思いがけない言葉に、入り口付近に控えていたメルの目にみるみる内に涙が浮かび、次第に口をへの字にして泣き出すとメルの両脇にいたベテランメイド二人が微笑ましそうに涙を拭いたり肩にポンポンと手を添えたりと落ち着かせていたが、その様子からメイドや他使用人達の間では前もって知らされていた人事のようだったが、アデリナもメルもそれには気付いてはいない。
まだ涙の跡の残る顔のまま息をひとつ吸い、メルが夫妻に視線を固定した。
『当主様奥様、メルは誠心誠意アデリナお嬢様にお仕え致します!』
言いながらも引っ込んだはずの涙が再度溢れだし、後に続くはずの感謝の言葉はしゃくり上げる言葉にならないもので、その場にいる皆からは穏やかな笑いが出て、真ん中に立つアデリナは成り行きを右に左にと首を動かし不思議に眺めていた。
『お母さま!【じじょ】ってベルタのことじゃないの?』
そう他の使用人の配置場所や役職と違い、この家で侍女と呼ばれるのはアデリナの乳母で、母アンナの専属侍女ベルタだけであり生まれた時から【侍女兼乳母のベルタ】はアデリナにとってベルタの名字かミドルネームにも近いものであった為、状況が飲み込めないまま頭を抱えているのだ。
周囲にとっては職業名だが、そんな当たり前の事でも三歳児に説明する事などないのだから仕方ないだろう。
『ええ間違いじゃないわ。それでアデリナ、ベルタは誰の侍女かしら?』
『お母さまの!』
『そうね』
得意気に答えるアデリナを頭を撫で誉めるアンナが更に問う。
『では、アデリナの侍女は?』
『ベルタは?』
『ベルタは今はアデリナの乳母だけど、私の侍女だもの大きくなるアデリナの身の回りの事までは出来ないの』
『お着替えは?メイドのみんながしてくれるの?』
『もちろん大きくなっても今まで通りメイド達も手伝ってくれるけど、これからはメルがずっと側にいて力になってくれるアデリナの侍女になるのよ』
『ずっと?』
『そう、ずーっとよ』
アンナの言葉を受けたアデリナが素早く身を翻すと、タタタッと小走りでメルの前へと移動し見上げた。
『メル、これからアディ…私とずっと一緒にいてくれるの?』
『はいお嬢様。メルはずっとお嬢様のお側でお世話させて頂きます』
『そっか!メルと一緒は嬉しい!よろしくね』
【ずっと】がどんなものか理解しろというには無理のある幼いアデリナは、かなり軽めのよろしくの言葉と共に満面の笑みを交わすと母の前に舞い戻って、残る疑問も解消することにしたが疑問を口にする声はおずおずと小さなものに、その表情も不安なのがうかがえる。
『お散歩……ひとりでもいいの本当?』
『前に良いことがあるわってお話しをしたの、覚えてる?』
『うん』
『あの日からアデリナが沢山の本を読んでもらって、お食事も残さないで、数字も……あの時は確か十まで数えられたのよね?今は?』
『アディ今は五十まで数えられるの!』
ここ最近は一人称を母や周囲の大人を真似ているが、興奮気味なアデリナはすっかり忘れて無邪気に答える。
『ええ、頑張っていることは知っているわ。私達が忙しくしている間も一生懸命だったってベルタや他のメイド達からも聞いていたの。本当に偉かったわね』
そう言ってアンナがアデリナを抱き上げると、クラウスも話に加わった。
『ここ暫くのアデリナの過ごし方から、部屋での時間だけではアデリナには足りないと思ったんだよ』
『それで四歳になった事だし、お父様や他の皆と話し合って、この際だし色んな予定を前倒しにする事にしたの』
【前倒し】や【足りない】が何なのかは理解していないが、解らないなりに真剣に聞きコクンと頷く。
『それで、さっきも言ったように試しに朝食の後に裏庭の四阿付近を散歩してみて』
『してみて?』
『問題なければ明日から平日に限り散歩の日を設定しましょう』
『このあと?』
『そうよ』
『朝ごはん食べたら?』
『ええ、今日はベルタとメル二人を連れてね。散歩の範囲はベルタが把握しているわ。どう?頑張った後に【良いこと】はあったかしら?』
『や!』
『『や?』』
『やったぁーーーーー!!!!!ありがとうお母さま!』
アンナに抱かれたままのアデリナが、力一杯アンナの首根っこにギュウギュウと腕を回しくっつくと母の頬にキスをした。それを見ていたクラウスが隣で拗ねたような眼差しを向ける。
『お父様にはないのかな?』
『お父さまもありがとう!』
母から手を離し同じように父の首にギュウ~っと抱きつき一頻り喜びを表現している内に、いつの間にか有能な使用人達の手でテーブルの上に並べられていた朝食をとるため腰掛けた三人は、アデリナの誕生日を笑顔で始められることに喜び、短い食事の時間を過ごした。
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