第61話 玉鬘3 京での暮らし

 右近の家は六条院の近所でそう遠くないので、相談に行く機会もいくらでも出てくるとみんな思ってました。


 実際、右近は六条院に行きました。


 姫君ルリのことをそれとなく言う機会もあるかと、急ぎました。


 門を入ると辺りは広々としていて、参上する車も多くて迷ってしまうほどでした。


 身分の低い者が入るには眩しすぎるくらいの玉のうてなです。


 その夜は女君サキコの所にも行かず、どうしようか悩みながら床に就きました。


 翌日、昨日実家から戻ってきた身分の高い者や若い者の中で、女君サキコにまっ先に呼び出されたのが右近だったのを光栄に思います。


 源氏の大臣ミツアキラも同席してて、

 「随分長く家に帰ってたな。

 何かいつもと違う、やもめ女がすっかり見違えるようなことでもあったみたいだが、いい男でもいたのか。」

などと、いつもの通りうざい冗談を言います。


 「休暇を頂いて七日間すごしましたが、そんなようなことは私には無理ですよ。

 はるばる山を越えて旅をしましたが、可哀想な人なら見ましたね。」

 「ほう、どんな人だ。」


 そう聞かれても、ここで言うにも、まだ奥方に内緒にしてるようなことを言ってしまったら、奥方が後からそれを知ってまずいことになるんじゃないかと悩み悩んで、


 「今は申し上げられません。」

と言うと、他の女房たちもやって来たので、話はここで終わりにしました。


 大殿油おおとなぶらなどを灯して、夫婦でともにくつろいでる姿はとても絵になります。


 奥方サキコも二十七、八になったのでしょう。女盛りの大人の美しさが加わりました。


 何日か見なかっただけに、また一段と色香が増したように思えます。


 あの姫君ルリの美貌も負けないと思ってたけど気のせいだったか、持ってる人とそうでない人とはやはり違うんだなと比べてしまいます。


 源氏の夫婦は寝所に入るということで、右近に足を撫でさせました。


 「若い人に頼むと不愉快だといって機嫌悪くするからな。

 年取ったもの同士の方が互いに事情も分かってて、多少仲良くしてても安心だからな。」


 そう言うと女房たちがくすくす笑い、

 「そうよね。

 誰も、そういうご奉仕自体には腹立てたりはしないわね。」

 「冗談で口説くようなこというから、やきもきするだけでね。」

 「うちの奴も年寄り同士でも、あまり親しそうにしてると機嫌悪くするからな。

些細なことと見過ごしてくれないから危なくって。」

 などと右近に言うと笑いました。


 その奥方サキコもますます魅惑的にふるまい、こういう時の機知も身に着けていたのでしょう。


 今の朝廷の仕事からすると、そんなに忙しいわけでもなく、女性関係の方でもほとんど波風立たない状態で、ただしょうもない冗談を言ってはその反応を楽しんでは、こういう昔馴染みにも絡んでくるのでした。


 「そういや、あの探してた人が見つかったという、あれはどういう人なんだ?

 偉い修験者でも誘惑して連れて来たのか?」

 「まあ、人聞きの悪い。

 儚く消えてった夕顔の露のゆかりの人が見つかったのですよ。」

 「ほんと、あれは気の毒だった。年はいくつくらいだ?」


 右近は本当のことは言いにくく、

 「人知れぬ山里でした。

 昔馴染みも変わらずに仕えていたので、その頃の思い出話などをして、気持ちを抑えることができませんで。」


 すると耳元で、

 「そうか。事情を知らない人の前だからな。」

と言えば、奥方サキコが、

 「何こそこそしてるの?

 眠いから聞こえるはずもないのに。」

と言って袖で耳を塞ぎました。


 「で、見た目は昔の夕顔みたいな美人か?」

 「そこまで行かないと思ってたのでしたが、それはそれは立派に成長なされて。」

 「いいじゃないか。

 誰くらいの美人だ?

 うちの奴とか。」

 「さすがにそれほどでも。」

 「なんか相当いい女のようだな。

 俺に似ているなら先行き安泰だ。」

 そのように、父親にでもなったかのように言います。


   *


 この話を聞いてから源氏の大臣ミツアキラは右近だけを呼び寄せて、

 「ならばその人を近くに住まわせようと思う。

 もう長いこと何かのことあるごとに、行方がわからなくなったままになってることを、後悔混じりに思い出したりしてた。

 今となってこんなうれしい知らせを受けたのに、すぐさま住ませることができないのが残念だ。

 父の大臣に知らせる必要はない。

 あいつは子供がたくさんいててんやわんやだし、今急にそこに身分の低い者が加わっても、なかなか難しいんじゃないか。

 俺はこの通り暇を持て余しているし、知らない所から拾ってきたことにすれば良い。

 宮中の好き者どもをわくわくそわそわさせるネタにでもなるように、思いっきり大切に世話しよう。」


 そう言われると、何はともあれ大変嬉しいのですが、

 「それはお任せします。

 ただ、大臣に知らせなくても誰かが噂して伝わるものです。

 無下に死んでった者への代償として、ともかく姫君をお返しすることが罪を軽くすることだと思います。」

 「亡くなったのが俺のせいだというのかよ。」

と笑顔を崩さないまま涙がこぼれ出てきます。


 「ほんの一時の儚い関係となったことは悲しいし、その思いはずっと変わらない。

 今この六条に集められてる人たちの中にも、あの時ほど夢中になった人はいなかった。

 こうして長く生きて、俺の愛がいつまでも変わらないことを知ってる人も多い中で、それを伝えることもできずに右近だけを忘れ形見としてるのは辛いんだ。

 忘れたことなんてないし、娘がここに来てくれるなら、その願いが叶うような気がするんだ。」


 そう言って姫君ルリへの手紙を書きます。


 あの末摘花ナギコが手紙に不慣れだったことを思い出すと、同じように田舎で落ちぶれてた人がどんなだか不安ではあります。


 親になったかのように真面目に、それにふさわしいことを書いた後、



 《このように申すのは、


 知らなくてもいずれ知ります三島江に

    生える水草の筋の堅さを》



とあります。


 手紙は右近が自分で持って行って、源氏の言ったことなどを伝えました。


 装束や女房たちの使用する物などもいろいろ貰いました。


 奥方サキコにも相談してくれたようです。


 御匣殿みくしげどの(装束の縫製をする所)などにも準備するものを集めて、色や仕様の異なるものを選んでもらい、長く田舎暮らししてきた目にはなおさら珍しく思えるものばかりです。


 姫君ルリ自身はただ、「常陸帯のかごとのような」と、僅かなものでも本当の親の心遣いなら嬉しいものの、何で知らない人の家に入らなくてはいけないのかと、仄めかすように言って困っているようでしたが、右近にこうした方が良いということをいろいろ聞かされ、女房たちも、


 「源氏の所で立派に殿上人としての振る舞いを身につけたなら、父の大臣も探しあててくれるはずです。

 親子の関係というのは、長く離れてても終わるものではありません。」

 「右近様だってあなたを見つけ出す可能性がほとんどなかったのに、神仏の導きでこうなったじゃないですか。

 ですから、とにかくお互いに無事でいればどうにかなります。」

 そう口々に慰めました。


 まずは返歌をと促されて書きました。


 こんな田舎者がそんな、と恥ずかしがってましたが、中国製の紙に薫物をしたものを取り出してきて書かせました。


 《憂き草の筋といっても卑しくて

    何で今だに根を張っている》


 それだけです。


 字は弱々しく頼りなさそうですが、品が良くてそう悪くもないので源氏の君ミツアキラも安心しました。

 源氏の大臣ミツアキラは六条院のどこに住むようにしようかと考えます。


 「南東の区画には空いている対はない。

 あれの居城のようなもので、人も多く目立ちすぎる。

 南西の中宮の区画はあの姫君が住むのにも静かでちょうどいいけど、中宮だけにお付きの人の中に埋もれてしまいそうだな。

 やや外れになるが東北の区画の西の対の書類置き場にしてるところを他に移して、と。

 花散る里だったら遠慮深く人当たりが良いので一緒に仲良く暮らしていけるんじゃないかな。」


 そう決めると、奥方サキコにも今さらにあの昔の恋の話をしました。


 まだ秘密にしてたことがあったのと責められて、

 「しょうがないじゃないか。

 生きてる人のことだったら自分から話すところだけど、亡くなった人のことまでこういう時にちゃんと説明するのは、君のことを思ってのことだ。」

 そう言ってとても悲しそうに思い出します。


 「人から聞いた話なんだけど、たくさんの女を見てきたという人が、そんなに深い仲でなくても女というものの情の深さをたくさん見てきて、それで浮気心は出すまいぞと思ってきたんだけど、思わずやってはいけないことをしてしまうことがあって、あれは可哀想な人で本当に可愛らしい人で、今も思い出すのも本当これだけなんだ。

 生きていたなら北西の区画に住む人なみには扱ってきた。

 人にはそれぞれ良い所があるんだ。

 鋭く尖ったような才気は感じられなくても、優雅な可愛らしさがあった。」

 「それでも明石なみに立てたりはしませんね。」


 やはり北西の御殿が特別なのはわかっていました。


 明石の姫君ナミコのいかにも可愛らしく、何のことかもわからず聞いてる様子がまたいじらしくて、納得のいくことでした。


   *


 こうした話は九月のことでした。


 引越しも簡単にはいかなかったようです。


 まずは良い童女や若い女房を探します。


 筑紫では京を飛び出してきたそこそこの身分の没落貴族を、伝手をたどって呼び集めて雇ってたものの、急遽脱出する際のごたごたでみんな残してきたので、今は誰もいません。


 京の街自体は広い所なので、街の女なんかから良さそうなのを見つけては引っ張ってきます。


 誰の姫君かは伏せてました。


 五条の右近の家にまず姫君を密かに移動させ、そこで童女や女房の選考を行い、装束などを準備して十月に六条院にやって来ました。


 源氏の大臣ミツアキラは東北の区画の花散里ノブコに事情を説明しました。


 「以前情けをかけていた人が世を儚んで、辺鄙な山里に隠棲してたんだけど、幼い女の子がいて、長いことこっそり探しに行ったりしてたんだけど見つからなくて、そうこうしてるうちにすっかり大人になってしまってたんだが、ひょんなことから居場所がわかって、それならこっちで引き取ろうということになったんだ。

 母も亡くなっていたし。

 倅の中将(あの侍従カタトシがいつの間にか出世してました)ともうまく行ったんだから、何とかなる。

 一緒に世話してやってくれ。

 山の木こりの子のように育ったから、粗雑な所も多いかもしれない。

 教えるべきことはその都度教えてってくれ。」

と詳しく話して聞かせました。


 「ほんと、そんな人がいたなんて初めて聞きました。

 姫君がお一人で暮らすのは寂しいことなので、良いことね。」

と静かに言いました。


 「その子の母親はとにかくいい人で珍しいくらいだった。

 あなたもきっと気に入ると思う。」

 「しっかりと面倒見なくてはいけない人がそんないるわけでもなかったし、退屈してたので嬉しいわ。」


 源氏の側の女房達は未婚の娘とは知らなくて、

 「誰?またどこかからか見つけてきたの?」

 「やっかいな年増女の世話なのかな。」

 などと噂してました。


 牛車三台ばかりの引っ越しで、随行する人も右近がいるので、そんな田舎臭くはありません。


 源氏の大臣ミツアキラから綾布やらなにやら頂いていましたから。


 その夜、すぐに源氏の大臣ミツアキラが訪ねてきました。


 女房たちも、昔は「光る源氏」なんて呼ばれてた人のことは噂に聞いたことはありましたが、何しろ長いこと都を離れて都のことがよくわからないので、その後のことも知らなかったので、ほのかな大殿油おおとなぶらに照らされ、几帳の隙間からわずかに見える姿には恐怖すら覚えたのでしょう。


 入口の戸を右近が開け放てば、

 「これからこの戸口に入る人は、特別な人になるんだな。」

と笑ってひさしの席に膝をついて座りました。


 「灯りが暗くて、何だか夜這いに来たみたいだな。

 親の顔はもっとよく見てみたいだろう。

 そう思わないか。」


 そう言って几帳を少し押しやります。


 恥ずかしくてしょうがなくて目を合わせようとしない様子が、なかなか感じ良くて嬉しくて、

 「もう少し明るくしてくれ。」

と言えば右近は大殿油を持ち上げて少し近くに寄せます。


 「恥ずかしがりだな。」

と少し笑います。


 確かに夕顔を彷彿させる目元は恥ずかしそうです。


 源氏ミツアキラの方は他人行儀に接することが全くなくて、いかにも親らしく、

 「長いことどこへ行ったかわからず、いつでも心のどっかに引っ掛かっててもやもやしてたんだ。

 こうして会うことができたなんて夢みたいなのに、昔のことを思うと気持ちが抑えられなくてうまく言えないんだが。」

と言って涙を拭います。


 本当に悲しそうに思い出します。


 あれから何年たったか数えて、

 「親子だというのに、こんな長く離れ離れになるなんてないだろう。

 前世の縁というのも残酷なものだ。

 今となっては何も知らないうぶな乙女でもないだろうし、これまでの話など聞いてみたいのに何を怖がっているんだ。」

と不満げに言うと、何を言うともなく恥ずかしがって、


 「まだよちよち歩きの頃から籠ってたので、はっきり覚えてません。」

と幽かに聞こえてくる声に、昔のあの人の幼い感じがまざまざと甦ってきます。


 にっこり笑って、

 「長く籠ってたのは悲しいことだけど、今は他でもないこの俺がいる。」

と言うと、こうした受け答えの態度もなくはないなと思いました。


 右近にこれからすべきことを命じて、去って行きました。


 悪くない反応が嬉しくて、奥方サキコにも話して聞かせました。


 「どこかの山奥の家で長年暮してたんで、まあ相当残念な人なんだなと侮ってたら、却って俺の方が恥ずかしくなるくらいだった。

 こんな人がいるんだと宮中にも知らせて、兵部の卿の宮(かつてのそちの宮)などがこの屋敷の中のことに興味津々だから、夢中にさせてやりたいもんだな。

 スケベな奴らがここに来ると何だか真面目くさってるのも、こういうネタになるような女がいなかったからだ。

 うまいこと良い相手を見付けたいな。

 真面目くさった顔が眼の色変えるのをたくさん見てみたいもんだ。」

 「何て親なの。

 まっ先にそんな人の心を煽るようなことを考えて。

 悪趣味ね。」

 「君だって、結婚してなければ、同じように良い相手を探してるさ。

 ほんとあとさき考えないことしちゃったもんだ。」

 そう言って笑う顔が赤くなって、二十年前の若造に戻ったみたいで笑えます。


 硯を引き寄せて習字のお稽古みたいに、


 「変わらずに愛していたが玉かずら

    どの蔓たどりここにきたのか


 可哀想なことをした。」

と、ひとりぽつりと呟いて、今さら本当に好きだった人の忘れ形見だと思いました。


 息子の中将カタトシにも、

 「こういう人が今度ここに来たから、気を使って訪ねていって仲良くしてくれ。」

と言えば、すぐに訪ねて行きました。


 「大した者ではないですけど、こういう者もここにいるのでと、何かあったらまっ先に呼んでください。

 引越しの時に手伝いに行けなくて‥。」

と真面目くさって挨拶するのが痛いなと、これまでのことを知ってる女房達は思いました。


 筑紫にいた頃も思いつく限りの趣向を凝らした住まいでしたが、今思えばどうしようもなく田舎臭くて、こことは比べ物にならないと思えることでしょう。


 調度装飾を始めとして、どれもこれも今風の高貴なもので、新しい親兄弟と仲良く暮らす姿は顔かたちだけでなく正視できないほど眩しく輝いていて、今の三条からすれば大宰府大弐など卑しく思えます。


 まして大夫の監の臭い息なんて思い出すのも忌まわしい限りです。


 豊後の介カツタカの選択がいかに得難いものだったかが姫君ルリにも理解できたし、右近もそう思います。


 大雑把にやられては決断も鈍るということで、家司けいしを定める時にその資格をきちんと定め、身内の豊後の介カツタカも採用されました。


 長年田舎で苦労してきた人でしたが、突如の家司起用にすっかり報われ、本来なら立ち入ることも許されないような身分でありながら源氏の六条院に朝夕出入りして、部下までもって仕事を行うようになったのも本当に愉快です。


 源氏の大臣ミツアキラの配慮は細部にまで行き届いて有り難くほんと勿体ないくらいです。


   *


 年の暮れに新年の飾りや人々の装束など、自分の一族と同等にと考えていました。


 「そうは言っても田舎もんのことだ」と山奥の賤民か何かのように馬鹿にしたように思われても困ります。


 仕立て上がった物を持ってきた時に、我も我もと最高の技術で織って持ち込まれたたくさんの織物、若い女性の着るいろんな色の細長ほそなが小袿こうちぎなどを眺めては、

 「それにしてもたくさんあるな。

 みんなに平等に分けてやれ。」

と奥方に言うと、それらの物と御匣殿みくしげどので仕立てられた物を皆引っ張り出してきました。


 こうしたことは本当によくやってくれて、この世に二つとないような色合いや色つやのそれを見ると、誰にも代えがたい人だと敬服します。


 方々の擣殿うちどのから送られてきたきちんと糊を利かせて砧で打って艶を出したものを見比べて、深紫や赤のものをいろいろ選ばせて、御衣櫃みそびつ衣筥ころもばこに入れさせると、年配の上臈じょうろう女房が来て、こっちは‥、あっちは‥と分け揃えます。


 奥方サキコもそれを見て、

 「どれも優劣つけがたいものなので、着る人の容貌を考えて似あうものを渡すように。

 似合わないものを着せても間抜けだからね。」

と言えば源氏の大臣ミツアキラも笑いだして、

 「何気に人の容姿を秤にかけてないか。

 君自身はどうなんだ。」

 「小さな鏡で判断するのはちょっと。」


 さすがにきまり悪そうです。


 紅梅の深い浮き彫り模様のある海老染めの小袿こうちぎにやや淡い紅の今様色の装束。


 それに桜襲さくらがさねの細長に艶やかな赤い掻練かいねりを組み合わせたのが明石の姫君の装束です。


 淡い青に波の模様の織物の織り方は清々しいが華やかさに欠けるので、思いっきり濃い掻練と組み合わせて花散里ノブコに。


 曇りのない赤に山吹の花の細長が西の対に住む玉鬘の姫君ルリひめに与えられるのを見て、紫の奥方サキコは密かに想像します。


 「内大臣に華やかでああ美しいなと見せておいて、それほど上品に見えない所がそれっぽい。」

と、そんな計算をしてることは顔には出しませんが、源氏の大臣ミツアキラが見て、これはちょっとと思います。


 「何だよこのコーディネートは、喧嘩売ってるのか。

 まあ、物はいくら良くても所詮物にすぎない。だが人の容貌は悪くても味わいのあるものだ。」


 そう言ってあの末摘花ナギコの装束に、柳襲の織物の由緒ある唐草模様を乱れ織りにしてとにかく上品にまとめると、密かににやにや笑います。


 梅の枝に蝶や鳥が飛び交う中国のような白い小袿に、光沢のある濃い紫を重ねたものが明石の姫君の母ナミコの方に。


 想像される高貴な姿を紫の奥方サキコは面白くなさそうです。


 空蝉の尼君キギコには青味のある暗灰色の織物で、いかにもしっとりとしたものを見つけてきて、御料にあったクチナシの御衣おんぞ、許し色の薄紅を添えて、同じ日に来てもらおうということで、みんなに手紙を出して知らせました。


 つまりは、集まったみんなが似合ってるかどうか見たいわけです。


 みんなから返事がきました。


 使いの者はそれぞれ褒美の物を持ち帰りましたが、末摘花ナギコは二条院東院に残っていたので、離れた所ということでもう少し色を付けてくれても良い所を、律儀な人なので形式通りに山吹のうちぎで袖口の黒ずんたものを上着だけ持って戻ってきました。


 手紙には香を薫いた陸奥紙みちのくにがみの、古くなって黄ばんだ厚紙に、


 「さてさて賜るのはいかがなものと、


 着てみればうら見られての唐衣

 袖を濡らして返してやろう」


 筆跡もとにかく古風でした。


 とにかく苦笑いするしかなく、読み終えても手で握ったままで、奥方サキコは何があったのかと覗き込みました。


 お使いの持ってきたものがあまりに侘しく痛いと思ってたところ、お使いの方も機嫌が悪そうだと見たのか、いつのまにいなくなってました。


 そりゃひどいと、お使いに行った人たちはそれぞれの褒美のことを語り合っては笑ってました。


 こんなどうしようもなく古臭くて痛い女がまた余計なことをして、みんなどう対処すればいいのやら。


 源氏の大臣ミツアキラとしても恥ずかしい限りです。


 「昔の歌人は『唐衣』に『袂を濡らす』といったテンプレから離れようとしない。

 まあ、俺も人のことは言えないが。

 古いパターンに縛られて、今流行の新しい言葉を認めないのがステータスだと思ってるからな困るんだよな。

 人が集まる節句や儀礼などの折に、偉い人の前で格式張って読む歌人はたいてその会を『まとゐ』という言葉を使って表す。

 昔の恋の贈答の面白いやり取りには、『あだびと‥』という五文字を真中の五文字の所に置いて、下七七でその人のことをいろいろ言うというのがパターンになってたのだろう。」

と言って笑います。


 「いろんな物語や歌枕を研究し尽くして、その中から言葉を取り出そうとすると、そこからできる歌なんて大体同じような歌になっちゃうもんだ。

 常陸の親王の書き残した紙屋紙こうやがみの草子は、娘の末摘にこれを読めと言って書かれたもので読ませてもらったけどな。

 和歌の『何ちゃら髄脳』なんていっても視野が狭く、やっちゃいけないことばかり書き連ね、元から時代遅れな人間をますます身動き取れないように縛りつけるもんで、うんざりして突っ返した。

 そういうのを勉強しちゃった人の歌は、大体こんなもんだろう。」

 そうやって笑われてるあたり、残念な人です。


 奥方サキコは真顔になって、

 「なんでその本返しちゃったの。

 写本にして姫君にも見せてあげれば良かったのに。

 ここにもそうした本がないわけでもないけど、みんな虫が食っているじゃない。

 見てない人はそこにすら行き付けないでしょ。」

 「姫君の学問には必要のないものだ。

 大体女ってのはな、何か好きな一つのものを極めるなんて見た目が悪い。

 何一つ興味がないというのも残念だが。

 ただ芯の部分をしっかり持って、流されないように腰を据えて、穏やかにしているのが安心できる。」


 そんなことを言いつつ、返事を書こうとしないので、

 「『返してやろう』と言ってるんだから、このまま返されたままというのも野暮じゃない?」

と返事を促します。


 容赦なくそう言われて書きました。


 気分がすっきりしたみたいです。



 《返そうというのはそれ着て独り寝の

    夢に出てきてくれというのか


 納得。》



 そう書かれてました。






 「『何ちゃら髄脳』って、あの権大納言きんとうの?」

 「やばくない?」

 「まあ、最近あの手の偉い人の源氏物語への関心も薄れているからな。」

 「和歌に限らず入門書のたぐいって、たいてい『何々するべからず』の『べからず集』になるもんね。」

 「言えてる。」

 「唐衣に袂を濡らすというと、コレ。『七夕に我が貸す今日の唐衣袂のみこそ濡れてかへさめ』凡河内躬恒。」

 「唐衣の歌と言えばコレ。『ひとめゆく涙をせけば唐衣袂は濡れぬねこそながるれ』、紀貫之。」

 「袖を濡らすだったら、『七夕にぬぎてかしつる唐衣いとど涙に袖やぬるらん』、同じく紀貫之。」

 「ゆく人をとどめかたみの唐衣たつより袖のつゆけかるらん、よみ人知らず」

 「いつはりの涙なりせは唐衣しのひに袖はしほらさらまし、藤原忠房」

 「いつのまにこひしかるらん唐衣ぬれにし袖のひるまはかりに、藤原冬嗣」

 「きて帰る名をのみぞ立つ唐衣したゆふ紐の心とけねは、よみ人知らず」

 「仇人あだびとの歌と言えばコレ。『秋といへはよそにぞ聞きしあだ人の我をふるせる名にこそ有りけれ』、よみ人知らず。」

 「『卯の花の咲くとはなしにあだ人のこひわたるらむ片思ひにして』、山部赤人。」

 「『みをわけて霜やおくらんあだ人の言の葉ごとにかれもてくかな』、作者は忘れた。

 「ゆふだすきかけてもいふなあだ人の葵てふ名はみそぎにぞせし、よみ人知らず」

 「うゑてみる我はわすれてあだ人にまつわすらるる花にそ有りける、大夫の子」

 「『まとゐ』というと、『言の葉にたえせぬ露はおくらんや昔おぼゆるまとゐしたれば』貞観の頃の中宮温子よしこ様だっけ。」

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