第26話 葵3 葵の上
「中宮との密通は大罪だから、源氏を許すな!」
「業平だって東国へ行ったんだから、源氏だって。」
「大宰府がお似合い。」
「みちのく一人旅で落馬で死ぬ。」
「何だかまたアンチが五月蠅くなってきた。」
「本が燃やせなかったから、ストーリーに文句つけてきたか。」
「冷泉院が即位すれば源王朝になって国が亡ぶ。」
「がんばれ右大臣、がんばれ皇太后。」
藤式部
「さあ、どうなりますかね。
今日も始まり始まり。」
八月、秋の除目が行なわれると決まり、
左大臣邸の中が人も少なくしんみりとしている時に、トーコは急に以前のように咽せたように咳き込み、ひどい不安感に襲われます。
内裏にそのことを伝える暇もないうちに、トーコは息を引き取りました。
みんなぞろぞろと地に足が着かぬ思いで内裏を退出すれば、出世のことも何も決まらずみんなすっかり意気消沈した様子です。
大声を出して騒いでいるうちに夜中になれば、比叡山の座主をはじめとする名だたる修験僧を召喚する間もありません。
「今は大丈夫」とすっかり油断していた所でとんでもないことになったので、左大臣家の者は柱や人にぶつかるくらいに混乱してました。
あちこちから弔事の使いの者がどやどやとやってきても取り次ぐこともできず、上へ下への大騒ぎで、そのひどい狼狽ぶりは恐ろしいほどです。
物の怪をたびたび取り込んでいたことを鑑みて、物の怪に魂を持って行かれただけで蘇るかもしれないと枕などのそのままにし、二三日様子を見たもののご遺体が時とともに変わり果てて行くのを見ては「もはやこれまで」と断念せざるを得なくて、誰も彼も無念の思いです。
崋山院も悲嘆にくれ弔辞を送ってきたことは、かえって名誉なことだとちょっとばかり嬉しいやら、
人に勧められて大がかりな加持祈祷を行い、何とか生き返らないかとあらゆる手を尽くしたものの、変容していくご遺体を見るにつけて、今だに未練が残るものの何の効果もなく、月日が過ぎ去ればどうしようもなくて、葬送の地、
あちこちからやってきて別れを惜しむ人たちや、あちこちの寺からやってきた念仏僧などが集っては、広い野原も満員です。
崋山院からの使いはもとより
「こんな歳になって、まだ若い盛りの娘に先立たれ、のた打ち回るなんて‥‥。」
と申し訳なさそうに涙ぐむのを、参列した人たちは悲しく見守りました。
夜通しひどく騒々しい葬儀でしたが、すっかり儚くなったご遺体だけを残して明け方近く皆帰っていきました。
大体みんなそうなのですが、
八月の二十日過ぎての明け方の月ともなれば、空もあたりの気色も物悲しいところへ、
「登ってく煙は雲と混じりあい
雲の上とは悲しいもんだ」
左大臣邸に戻っても、露ほどにも眠れません。
「なぜだかいつかは自然に分かってもらえると呑気に考えて、軽い気持ちで遊び歩いていたけど、辛い思いをさせてしまったな。
これまでずっと、さぞかし愚かで恥ずかしいと思っていて、そのまま終ってしまったのだろうな。」
などと後悔することばかりで、反省しきりではあるもののどうしようもありません。
いかにも軽々しい薄い灰色の喪服を着ても、まだ夢を見ているかのようで、自分がもし先に死んだなら、天皇の実子だからもっと重い黒い喪服になるところだと思うと、
「規則では薄墨衣軽いけど
涙で袖は黒い喪服に」
と歌っては、数珠を手に祈りを捧げる様子はより一層渋味を引き立たせ、お経を小声で読み上げながら、「
生まれたばかりの若君様をみるにつけても、「結びおいたかたみの子ではなかったら何にしのぶの草を摘もうか」という
母宮様はすっかり沈み込んで、床に伏したまま起き上がることができず、危険な状態に思われるので、またみんな大騒ぎして加持祈祷を始めました。
*
空しく時は過ぎて、七日七日の法事もせわしく行なわせるのも想定外のことだったので、心労が重なったのでしょう。
出来の悪い子でも人の親というものは可愛がるもので、あれほどの娘なら無理のないことです。
他に娘がいなかったので心のぽっかり穴が開いたようで、大切にしていた宝玉が割れるよりも痛々しげです。
方々に手紙は書いてましたが‥‥。
例の
つくづく世の中が嫌になり、何もかも鬱陶しくなって、子供という足枷さえなかったなら出家でもしちゃうのになと思ってはみるものの、すぐに西の対にいる
夜は御帳の内でひとり横になっているのですが、宿直の女房たちが近くで取り囲んで控えているとはいえ、自分の隣が淋しくて、
「よりによってこんな淋しい季節に‥‥。」
と寝てもすぐに目が醒めてしまい、美声のお坊さんばかり集めて行なわせている念仏も、明け方などに聞けばとても堪えられるものではありません。
「秋も深く、哀れさもひとしおの風の音が身にしみるなあ。」
と、不慣れな一人寝のなかなか来ない朝を待つ明け方の霧がかかる中に、菊の咲きかかった枝に青みの強い薄灰色の紙に書いた手紙を誰かが結んで置いていったようです。
「なかなか洒落たことを。」
と思って開いてみると、
《手紙のやり取りのできなかった間の気持ち、わかりますか。
人生の無常ときくも露に濡れ
残った者の袖が気がかり
このまま一人で悩んでいてもしょうがないと思いまして。》
と書いてありました。
「いつもより奇麗な字だな。」
と、さすがに放っておくこともできずに読んではみたものの、
「全然弔意がこもってないじゃないか。」
と気が滅入るばかりです。
そうは言っても返事を書かずこのまま音信不通というのも可哀想だし、
「亡くなった人は何のかんの言ってもそんなに悪く言われることはないが、何であんなことをこの目と耳ではっきり見たり聞いたりしたんだろう、なかったことにしたい。」
と、自分でも変なくらい、急に憎んだりすることができません。
「斎宮も物忌みの最中なので面倒なことにならないだろうか。」
などとしばらく悩んでみたものの、
「これで返事書かないなんてのはないよな。」
ということで、くすんだ紫の紙に、
《すっかりご無沙汰してしまいましたが、別に忘れてしまったわけではなく、いろいろ事情が許さなかったことは御察し下さい。
消え行くも残るも同じ露の世に
あまり執着するのも空しく
あの思いを消してほしいのです。
死の穢れを恐れて受け取らないなら、誰か読んで聞かせてほしい。》
と書いて送りました。
それでも心の中はもやもやするばかりで、こんなことが噂になったら崋山院は何て思うことか。
今は亡き夫の皇太子と崋山院とが兄弟だったということで格別に懇意にしていたということもあって、今回の娘を斎宮にする件でもいろいろと取り計らっていただいたうえ、亡き皇太子の代わりだと思っていると常々言っていただいて、すぐに内裏に住むようにと何度も要請されたというのに、そんなもったいないことをと遠慮してよそよそしくしていたところで、ひょんなことから若い君と恋に落ちて、ついに一大スキャンダルにまでなってしまうにちがいないと思うと、とても落ち着いてはいられません。
そうは言っても世間から風流なことで知られていて、昔から高く評価されてきた人だけに、娘が
「そりゃそうだろうな。
もともと何かにつけて才能のある人だからな。
もう俺のことなどどうでもよくなって伊勢へ行ってしまったら淋しくなるな。」
と思うと、さすがにこたえるようです。
ご法事など過ぎていっても、四十九日まではまだまだお籠りです。
慣れない退屈な日々に気が狂いそうになり、今は
「そりゃ可哀想だよ。
いい婆さんなんだから敬わなくちゃ。」
と咎めつつも、やはり可笑しくてしょうがないのです。
あの最初に
*
時雨が急に降り出す物悲しい夕暮れ、
風は荒く吹きつけ、時雨がざっとっ来ると涙と競争しているみたいで、
「朝は雲、夕暮れには雨になって帰ってくるのだろうか、今はどうなのかわからないが。」
とポツリと独り言を呟いては、頬杖ついてる姿が、女だったら死んだ魂でもきっと戻って来るにちがいないなと男ながらに惚れてしまいそうで、じっと見つめながら傍に寄り添えば、だらしなく着ていた服の紐だけをとりあえず結びなおしました。
これは夏に着ていたいま少し濃い目の喪服の直衣を光沢のある紅の
「雨となり時雨れる空の浮雲の
どっちの方を見ればいいのか
どこにいるのかわからないのに。」
と独り言のように呟けば、
「雨となり雲の上へと行った人
今は時雨に暮れて行くだけ」
と口ずさむ様子からして、深い悲しみがはっきりと感じ取れるので、
「妙なものだ。
今までは愛情などないのに、院などもあれこれ言うし、大臣が世話を焼くのも心苦しく、母宮の血筋もおろそかにできないなど方々に気配りして、これまで我慢して面倒くさそうに通っていたと思って、ちょっぴり気の毒だと思える時も何度もあったけど、本当に一番愛していたかけがえのない人だったんだな。」
とわかると、何でこんなことになったのか残念でなりません。
何もかもが光を失ってしまったような感じで、心が痛みます。
枯れた下草の中にリンドウ、撫子などが咲いているのを摘んで、
「草枯れた垣根に残る撫でし子を
別れた秋の形見と思う
あの人ほど芳しくはないなんて思ったりはしませんよ。」
と言いました。
本当に何も知らずに笑う赤子はやばいくらいな美しさです。
母宮様は風が吹くにつけても木の葉よりももろい涙を流し、まして源氏の歌を聞けば、それを抑えるなんて無理なことです。
「可愛さがかえって袖を濡らします
荒れた垣根の大和撫子」
なお、あまりに寂しすぎるので
滅多に手紙を書かない相手ではありますが、この種の手紙なら男からの文だということで咎められることもなく読むことができます。
にび色をした中国製の紙に、
《特にこの日暮れの袖は湿っぽい
物思う秋をいくつ過ごせど
いつもの時雨ではなくて。》
という手紙です。
一字一字心込めて書かれていて、いつもよりも心惹かれる所があって、「これは返事書かなきゃね」と周りの女房達も言うし、
《あなたのいらっしゃる大内山のことを思って手紙を読むと、これはと思いまして、
秋の霧が先に行ってしまっては
時雨の空もさぞかしと思う》
とだけ簡単に書き送るなど、心憎い気遣いです。
大体において結婚すれば相手の魅力も色あせるのが普通の世の中だというのに、愛想のない人に限って魅力を感じてしまうのが
いつもつれない返事だけど、こういう何かの時の機転を利かせた返事ははずさない、こういうところこそ、互いに心を通わす秘訣なんだろうな、なまじ優雅で上品だと常に人の反応を気にしたりして、かえって嫌味になるものだし、対の
退屈して淋しがっているのではないかと一時も忘れてはいないものの、ただ親のない子を放置しているようなもので、逢えないからといってやきもきしたり浮気を勘ぐったりしないため、気楽でいられるのでした。
すっかり暗くなったので
中納言の
「ほんと、可愛そう。」
と思っていると、ごく普通に親しく話しかけてきて、
「あの人の生前よりも今の方が、ここにいるみんなとじっくりと向き合うことができたし、すっかりここの水に馴染んで、これからここに通うこともなくなってしまうなんて淋しすぎる。
今度の不幸はもちろんのこと、こうやって考えれば考えるほど辛いことばかり多すぎる。」
と言うと、みんなさらに涙が止まらず、
「言うまでもなくこのたびの不幸に、ただただ目の前が真っ暗になるばかりなのはもちろんのこと、何一つ残すことなくここを出て行ってしまうなんて思うと‥‥。」
とそれ以上言葉も続きません。
悲しそうに辺りを見回して、
「残るものがあるじゃないか。
そんな薄情に思われても困るなあ。
もっと気長に構えていてくれれば、まだまだ長い付き合いになるじゃないか。
儚いのは人の命だけだ。」
と言って、ふと大殿油の火を眺める目がうっすら濡れているのが美しい。
特に可愛がられていた親のない小さい童が心細く思うのももっともだと思い、
「
といえば、堰を切ったように泣き出します。
小さな
「これまでのことを忘れたくないんだったら、今はぽっかり穴の開いたようになっているのを何とかこらえて、あの赤ちゃんを見捨てることなく、これからも仕えてくれ。
今までのことをなかったことにしてみんな散り散りになってしまったら、俺だってこれからどうしていいのかわからないよ。」
とみんなにこのまま留まるように言ってはみるものの、そうはいっても、
*
車の準備ができて前駆の者たちが集ってきた頃には、そんなみんなの気持ちを知ってか知らずか俄かに時雨となり、木の葉を散らす風があわただしく吹きすぎて行くと、
夜になれば、結局二条院に泊まることになるなと、仕えている人たちもそこへ行って待つことにしようとそれぞれに立ち去ると、この家に来るのが今日限りになるわけではないにせよ、どうにも悲しさに胸が締め付けられます。
《院が心配なさっているので、今日こそは参ります。
ほんのちょっと出かけてくるとはいえ、今日まで何とか死なないでこれたなと、ただただ心を取り乱すばかりです。
挨拶に行くのもなかなか辛いことなので、そちらには参りません。》
と書いてあったので、ますます母宮様は涙で目が見えなくなり、深く悲しみに沈んだまま返事を書く気力もありません。
どうしても涙をこらえることができず、袖を目に当てたまま離しません。
見ている人たちも本当に悲しくなります。
「こう歳を重ねてますと、たいした事でなくてもついつい涙もろくなるものというのに、ましてやこのような涙の乾く暇もないことの連続で、どうにもこうにも気持ちを抑えることができなくて、本当に取り乱してばかりですっかり自信をなくしてまして、院などにも合わせる顔がありません。
だから院にお会いしましたら、こういうことでお伺いできない旨を伝えてください。
すっかり年老いてこの先いくばくもないという時に、先立たれてしまったのが辛くて辛くて。」
「親より子の方が先に死んでしまうような不条理も、世間ではよくあることとわかっててはいたものの、今このように現実になってみて感じられる心の痛みは、ほかに較べるものもないと思います。
院も事情をお知りになられたら、きっとご理解いただけると思います。」
と答えます。
「ならば、日が暮れるとすぐにでも時雨が降り出すので、その前に。」
と急き立てます。
部屋の中をざっと見回すと、御几帳の後や障子の向こうなどの開いている場所に女房達が三十人ほどそれぞれ身を寄せ合っていて、それぞれにび色の濃いのや薄いのを着て、皆一様にひどく不安そうにこうべを垂れて集っているのがとても悲しげです。
「あなた様があの幼子を見捨てることなんてないと思いますので、何かの折には立ち寄ってくれると思って気持ちを落ち着けてますが、そこまで気の回らない女房なんかが今日限りここを見捨ててしまうんだと思いつめて、しばらく逢えなくなる悲しみよりも、今まで過ごしてきたこの歳月が終ってしまうことがいたたまれないと思うのも、無理もないことです。
なかなか仲がしっくりと行かないところもありましたが、それでもいつかはと淡い期待を抱いてまして、本当にどうしていいのかわからないような夕暮れです。」
と言いながらまた泣き始めました。
「そんなふうに心配するなんてよっぽど信用されてないんだなあ。
確かに、いつかそのうちにと呑気に構えていたころは自然と疎遠になることもあったけど、むしろ今となっては通うのをおっくうがる理由もないからね。
見ててくださいよ。」
と言いながら出発するのを、左大臣も見送ってから源氏の使ってた部屋に入って行くと、置かれている調度など以前と変わらないにもかかわらず、蝉の抜け殻のように空しい気持ちになります。
優雅な古典作品の漢詩や和歌を書き散らしてあって、草書もあれば楷書もあるし、その他の珍しい字体もごちゃ混ぜに書いてありました。
「恐るべき筆づかいだ。」
と空を仰いで眺めます。
ここにお見せできないのが残念です。
「舊枕故衾誰與共(古い枕古い衾誰とともにある)」という一節の所に、
「ともに寝た床から離れられなくて
あの魂も同じ気持ちか」
また、「霜花白(霜の花が白く)」とある所に、
「君なくてほこりだらけの常夏の
露をはらって何回寝たか」
昨日見た撫子(常夏)の花でしょうか、枯れた下草の中に咲いていた‥‥。
母宮様に見せて、
「言ったからどうなるものでもないことだけど、この悲しみに匹敵するようなことは世間にいくらもあると思ってはみるものの、前世の約束で若くして娘に先立たれ、心を惑わせることも決まっていたのかと思うとかえって辛くて、どんな前世だったのかとあれこれ考えてはあきらめようとするのだけど、それでも日が経つにつれて淋しい気持ちを抑えきれなくて、その上大将の君が『それならば』と遠くへ行ってしまうのではないかと、どうしてもそのことが頭から離れないんだ。
一日、二日と通わなくなり、滅多に来なくなったときでもずっと胸を痛めていたけど、朝に夕に光を与えてくれた人までいなくなったら、これから何を頼りに生きていけばいいのか。」
と声を抑えることもできずに泣き出せば、そばに控えていた年老いた女房まで、あまりの悲しさに耐え切れずにわっと泣き出し、それはぞっとするほど寒々とした夕暮れの光景でした。
若い女房達は所々に身を寄せ合いながら互いに自分の悲しい気持ちを打ち明けあいながら、
「あの方がおっしゃったように、若君様に仕えることで気持ちを紛らわそうと思ってはみても、形見とは言ってもあまりに幼すぎるし‥‥。」
と言って、中には「ちょっとの間休暇を貰いましょう」と言う者もいたりして、互いに別れを惜しみながら、どちらにしても悲しいことばかりです。
「これは泣けた。」
「久しぶりに全殿上が泣いた。」
「葬式会。」
「悲しい時に何も知らずに笑う子供って鉄板てか、反則ね。」
「ヨシコ様の亡くなった時もそうだった。」
「でもどうなるの?正妻がいなくなって。」
「身分で言うと御息所だが、無理そうだし。」
「若草も王族の血だから、そっちへ行くのか。」
「朝顔も王族。」
「式部の卿の宮の娘だったっけ。」
「よく覚えてるね。」
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