第10話 夕顔2 謎の女
「なるほど、ここにキギコの後日談を挟んで来たか。」
「空蝉キギコ。」
「もう一人は?」
「そういえば、名前何だったけ。」
「ずるい女。」
「源氏とは遊びだったのね。」
「あわよくばとは思っても、やっぱ身分がね。」
「分相応の結婚は賢い。」
「受領クラスじゃ源氏の女になっても、せいぜい三番手四番手。」
「まだ出てないけどナギコは親王の娘だから、そっちの方が上。」
「それネタバレ。」
「そういえば、改元するんだってね。」
「クワンコウ元年になるって。」
「菅公?」
「甦る延喜?」
藤式部
「はい、ではお静かに。
今日も始まり始まり。」
それはともかくとして、あの
「その人物については思い当たる人はおりません。
人が訪れるのをひどく嫌って密かに隠れて住んでいる様子なんですが、退屈しているのか、南の
顔の方はよく見えなかったけど、なかなか可愛かったですよ。
先日、高貴な人らしく先祓いをしながら通る車があったのを覗き見て、女の童が急いで、
『右近の君、すぐ見に来て下さい。中将殿が今から通ります。』
と言えば、すぐにそれらしき女性が出てきて、
『お黙りっ!』
と手で制して、
『どうしてわかるのよ、ちょっと見せて。』
と言っては、こっそりと女中部屋にやってきました。
仮設の橋のようなもので道を作ってやって来たのです。
あんまり急いでたので、衣の裾を何かに引っ掛けてよろけて倒れて、橋から落っこちたようで、
『ああん、もう、この橋を作ったのは葛城の神なの?
夜しか働かなくて昼間サボってたんでしょう。
もっとしっかりと作っておいてよ。』
とぶつくさ言って、外を覗こうと思ってた気持ちもすっかり醒めてしまいました。
『今通ったお方は、
あのお方にあのお方も‥‥。』
と一人一人、頭の中将の従者や召し連れている童の名前を列挙して、その根拠としてました。」
それを
「ちゃんとその車を見てみたいな。」
と言って、もしかしたらあの
「私の方の恋文のやり取りなんかもあれから結構進展しまして、家の中もくまなく見せてもらったのですが、ただ、自分達だけしかいないように思わせていて、いろいろ話を聞かせてくれる主人のお付きのうら若い
うまく誤魔化せていると思っているようで、小さい子供がいることをついぽろっと言ってしまったことでも、そうれはこうでしょって言い直したりして、誰も主人がいないような状態を演じています。」
などと言っては笑いました。
源氏の君は、
「尼さんのお見舞いに行くついでに垣間見させてくれ。」
と言いました。
仮住まいとはいえ、住んでいる家の程度を思えば、これこそが
惟光も、些細なこととはいえ源氏の君の意向にそむかぬ方が良いと思うのと、自分自身の抑えられない助平根性とで、あの手この手といろいろと策略をめぐらしてまわり、密かに源氏の君をもぐりこませることに成功しました。
このあたりのことは長くなるので省略します。
知っている女に会いに来たというわけではないので、源氏の君も特に名乗ることもなく、やむをえないとは言え、わざとみすぼらしい格好をしてました。
ですが、さすがに牛車から降ろして歩かせるなんてことは前例のないことで、配慮に欠けると思われてもいけないので、惟光は自分の馬を貸して、自分は走ってお供をしました。
「私の思っている人にこんな他人のお供で歩いてる姿を見られたりしたら、ちょっと辛いですね。」
とぼやいてはみるものの、源氏の君の正体がばれないように、いつぞやの夕顔の花の説明をしたお供の者と、面の割れてない童一人だけ連れてやってきました。
もしかしたら例の思い当たるとおりかもしれないと、隣の乳母の尼君の家に泊まることもしませんでした。
女も真意がわからず不審に思ったのか、源氏の使いの者が来ると人に後を付けさせて、暁の道を探らせ、住所を突き止めようとしたけれども、いつの間にか撒かれてしまいました。
源氏の君もそんなふうに正体を明かさぬようにしてはいるものの、この女を不憫に思わないわけもなく、気になってしょうがないようで、立場をわきまえない軽はずみな行動だと気が咎めるものの、結局頻繁に通ってしまうのでした。
恋の道は真面目な人でも狂わせることがあるもので、源氏の君も見た目は平静を装って、人からうしろ指さされるようなことはしてこなかったのに、不思議なほどに朝別れるときには昼間会えないというだけで夢うつつの状態で、思い悩んでは気も狂いそうになります。
ここまで気に掛けるようなことではないと、必死に気持ちを静めようとしているのですが、その女の様子はと言うと、完全に醒めた様子で柳に風で真剣さを欠いていて、やたら若作りをしてはいるもののこの種のことには慣れているという感じです。
そんな高貴な身分ではないのにどうしてこう気になるのだろうと、つくづく思うのでした。
いかにもわざとらしく、着ているものもみすぼらしい狩衣にして変装し、顔もほとんどわからないようにして夜も深く人が寝静まるのを待って出入りしていたので、昔話にあるような狐や蛇の変化みたいで、その女の方もますます不安に駆られて泣きたくなります。
その人の様子は手探りでもわかるので、他ならぬあの好色漢の仕業にちがいないと惟光の大夫を疑いながら、何とか知らん顔してやり過ごそうとするのですが、それでも予想外に頻繁に通ってくるので何が何だかわからず、女の方としても気味悪く不審に思っていたのでした。
源氏の君もこのように安易にゆるゆると逃げ隠れしてたのでは、すぐにどこか他所へ行ってしまうと思われるだろうし、あの女もどう見ても仮住まいのようだから、いつどこかへ引っ越してしまうかもしれないとお思いになり、姿をくらまされてもどうでもいいと思えるのでしたら、その程度の遊びだったということですむのですが、それですむとも思えません。
人目を気にして通えなかった夜などはとても耐えられず、苦しくなるほど恋焦がれていました。
このまま誰に断るでもなく二条院に住まわせて、それがばれてとんでもないことになったとしても、それが自分の気持ちなので人にわかってもらえなくてかまわないと、それほどにまでこの恋は深いのだと思いつめてました。
「まあまあ、もっとくつろげる場所で落ち着いて話を聞いてください。」
などと語りかければ、
「でも、あっやしー。
そんなこと言って、下心のないお誘いなんて、何か恐いなー。」
といかにも子供っぽく言えば、
「だよなー。」
とにっこり笑って、
「だが狐はどっちかな。
今はただ化かされて下さい。」
と体を寄せて囁けば女もぴったり寄り添い、やっぱりそういうことかと思ったようでした。
前例のない不釣合いなことだとは思っても、ここまで一途に突き動かされた恋心にはどうしようもなく愛らしい人に見えていて、それでもあの
思い当たるような急に背を向けて姿をくらますような感じが少しもしないので、滅多に通わなくなったりすれば心変わりすることもあるだろうけど、気持ちの赴くままに多少気持ちが揺れる程度ですめば、かえって可愛いものだとすら思えるのでした。
*
八月の十五夜、一点の曇りもない月の光は隙間だらけの板ぶき屋根から至る所漏れていて、普段見ないような住居の様子も珍しくて、暁近くになると隣近所の家から、怪しげな下層階級の男達の声は、目が醒めたところなのか、
「おーーー、さぶいさぶい‥‥。」
「いやー、今年は農業収入にもあまり頼れないし、田舎への行商もできそうにもないから、かなり大変だなー。
北隣さん、聞いてくれやー。」
などという会話も聞こえてきます。
人それぞれのごくささやかな稼業のために起き出して、ざわめき騒がしくなってゆく物音が間近でするのを、その女はひどく恥ずかしがってました。
見栄を張りたがる女なら、消えてなくなりたくなるような貧民窟なのかもしれません。
それなのに、何ごともないかのように、辛いことも憂鬱なことも傍から見て痛々しいことも気にするそぶりも見せず、人に接する態度はあくまで大変上品そうで天真爛漫な子供のようで、これ以上ないくらいの混沌とした隣近所の荒々しさをまるで意に介さない様子なので、なまじ顔から火の出るように恥ずかしがるよりは罪を免れているように見えます。
轟々と鳴る雷よりもおどろおどろしく踏み轟かす精米の
「わあっ、これは耳が痛くなりそうだ。」
と源氏の君には何の音か知るよしもなく、ただよくわからない不快な物音にしか聞こえないようでした。
どうでもいいことばかりたくさんあります。
白妙の衣を打つという砧の音も、あちこちから弱々しく聞こえてきてあたりに充満し、空飛ぶ雁の声と一つになって、聞いてられないほど悲しげなものばかりです。
それは端っこの部屋でして、遣り戸を引き上げて、一緒に外を見ました。
庭はそれほどでもありませんが、日に焼けて白んだ呉竹でも、植え込みに降りる露はどこでも同じようにきらめいてました。
虫の声は騒々しいくらいで、屋内に入り込んだコオロギですらいつも遠くから聞こえてくるのが普通という生活をしている耳には、耳元にいるかのように鳴き乱れるのをずいぶんいつもと勝手が違うと思うものの、その女のことを思う気持ちで一杯だと、どんな難点も許されてしまうのでしょう。
貴族のような
もう少し色気を出してくれたならと思いながらも、もっとお近づきになりたいと思って、
「さあ、この辺の近所で、誰に気兼ねもせずに朝を迎えましょう。
ここで会うだけでは、いろいろ差し障りもありましょう。」
「どうしたの、急に?」
とまったく無表情に言うだけでした。
この世だけでなく来世まで一緒にいようと約束すると、急に驚くほど打ち解けたような雰囲気に変って、さっきまでの恋の達人とも思えないほどなので、源氏の君は人が何を思うかもかまわずに右近を呼び出して、随身(惟光)も呼んで車を中に引き入れさせました。
女の方のお付きの人たちも、源氏の気持ちがいいかげんなものではないのを知ると、何だかよくわからないままに付いて行くことを申し出ました。
明け方も近くなりました。
鶏の声のようなものは聞こえず、吉野の修験者でしょうか、ただいかにも年取った声で額を地面に擦り付けてお祈りするのが聞こえてきます。
老いた体で五体投地を繰り返す様子は見るに耐え難く、とても気の毒に思えて、
「朝の露と同じようなはかなきこの世に、一体何が欲しくて祈っているのかい?」
と尋ねると、
「弥勒様の御到来。」
と言って拝み続けました。
「ほら、お聞きなさい。
この世だけとは思ってません。」
と感動して、
「
来世の約束守っておくれ」
玄宗皇帝と楊貴妃の長生殿の喩えは不吉だから「比翼の鳥のように羽を並べて」とは言わずに、弥勒の世までとしました。
五十六億七千万年先まで約束だなんて、ずいぶん大きく出たものです。
「前の世の約束を知る身がつらく
来世までとは信じられない」
こんな返歌を詠んでいるあたり、女の方はというと、何とも歯切れの悪い所です。
月もまだなかなか沈まないというのに突然家から連れ出されことになって、女はまだ決心つきかねているので、あれこれ説得しようとしているうちに急に月が雲隠れして、明けてゆく空は見事なまでに美しい。
明るくなって人に見られたりする前には、当然急いで出発しなければならないため、女を軽くひょいと抱えて車に乗せると、右近も乗り込んできました。
そのあたりの近くにある何とか院とやらに到着しまして、管理人を呼び出すのですが、荒れ果てた門にはしのぶ草が茂り、見上げれば例えようもないほど木が鬱蒼と茂ってます。
霧も深く、露がびっしり降りていて、簾を上げるだけでも袖がびしょびしょになるほどでした。
「まだこうしたことには慣れてないんで、いろいろ気を遣うもんなんだね。
昔から人はこんなに迷ったか
初体験の東雲の道
あなたは慣れてらっしゃるのでは。」
と源氏の君が言うと、女は恥ずかしそうに、
「よく知らない山に沈んでゆく月は
わけもわからず消えてゆくだけ
心細いの‥‥。」
と言うが、ここが何だか恐くてぞっとするような所に感じられるのは、あの小さな家に大勢で暮していたからと思うと、面白いなと思いました。
車を中に入れさせて、奇麗に準備された立派な寝殿造の西の対の居住空間の高欄に車の引く所を掛けて、真直ぐに立たせました。
右近は華やいだ気分で、昔のことなども密かに思い出してました。
管理人がひどく恐縮して飛び回っている様子を見て、事態が飲み込めたようです。
車から降りたのは、ほのかにあたりの様子がわかる頃だったでしょうか。
仮の宿ではあるけど、清潔に整えられてました。
「お伴に誰もお付けにならないなんて、何とも気の毒なことです。」
と言っているのは懇意にしている
「しかるべき人を招集すべきではないでしょうか。」
などと主張するのですが、
「ここは特別誰も来ないような隠れ家にするために求めたもので、決して誰にも言ってはなりません。」
と口止めしました。
お粥などを急いで届けさせたけど、打ち合わせの不十分で受け取る配膳係が到着しません。
従者も連れずに外泊するのは何分経験のないことでしたので、
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