閉ざされた空に闇をみる
藤雲
第1話
空は終着点だ。救いを求める時、願いを込める時、そして祈りを捧げる時。握った手に額を寄せ瞼を瞑り、届けと念じる想いの先はいつだって自由な空だった。孤独という窮屈な檻に閉じ込められていた僕は、そう在ることを許された空に酷く憧憬していたのかもしれない。
コツ…コツ…コツ…
間接照明だけが頼りの暗く長い廊下に、仕事場を目指す僕の均一で単調な足音だけが響き渡る。人気が皆無で物音一つすらしない無音に包まれたこの空間は、廊下であるはずなのに密室のような息苦しさを覚えてしまう。
『命の終着場』と呼ばれるこの施設は、理不尽な死を遂げた命が最期に訴えを起こすため流れ着く最終地点として存在している。ここで僕ら審導員は様々な境遇や意思、感情や欲望が混沌とする事実を重ね重ね熟考し、彷徨う魂へ最期の道標を与えるのだ。
施設内は密集した幾つもの巨大な棟が其々複雑な通路で繋がれており、まるで難解な迷路を彷彿とさせるような構造となっている。また、施設の周囲は要塞と同等の機能を持ち合わせた構築物で囲われていて、外部からの音や光は一切遮断されていた。故に、全く持って意味を成さない窓などの取り付けも当然だが皆無である。
施設内の殆どは深い暗闇で覆われており、等間隔に点々と灯る淡い間接照明だけが唯一の頼りとなっていた。道を見失ったら最後、きっと一生迷い続けてしまう…そんな風に錯覚させるようなこの空間に僕は溜息にも似た笑みを溢す。
「(この暗闇にも、さすがに慣れてしまったな)」
昔からここに住居兼職場を抱える僕は、この異様な巨大施設を実際に外界から見たことはない。厳密に言えば、過去の記憶が大幅に欠落しているため、ただ覚えていないだけかもしれないが。だが数多ある記録や情報を目にすれば、この場所がいかに異質で特殊な存在であるかは明らかだった。例えば外の世界を想像し、脳内でこの場所を俯瞰してみれば、まるで世界から断絶されているような、そんな建造物のように見える。
「(外の世界、か…)」
施設内は常に一定の温度で保たれており、当然だが天候にも左右されない。故に日常生活の中で自然というものを感じたことは殆どなかった。だからと言って不都合や不便な思いをした経験は無いが、今この瞬間にこの場に生きているという感覚はどんどん鈍っていくのだろうと、ただ少し心がつかえてしまう。
「(今日の世界はどんな情景だろうか)」
僕は暗闇に包まれながら、ふと外の世界へ想いを馳せた。広大で神秘的な自然や趣のある建造物に美しい街並み、そしてその中で懸命に生きる人々。そんな世界は果たして今、どのように彩られているのだろうか。
眩しい程の輝くような陽射しが晴れやかな温もりを与えているのだろうか、それともカーテンのような広い雨粒が大地を瑞々しく潤しているのだろうか。壮大な山々はどのように色付き、悠々たる海原はどれ程の音色を奏でているのだろうか。
「…ここは、窓のひとつも無いから分からないな」
そんなことを考えながら目線を横に移せば、相変わらずの分厚い壁が視界を埋め尽くす。僕は思わず諦め混じりの嘲笑をしながら、今更何を言っているのだと、くだらないその思考に思わず後悔した。
「(そんなこと、どうだっていい)」
僕は僕の仕事を着実にこなすだけだ。邪念に流されず真摯に業と向き合い、そしてそれを完遂する。それこそが自分自身に課した揺るぎない信念であると、僕は自らを律するように何度も言い聞かせた。真っ直ぐに続く終わりの無い暗闇を見つめれば、まるで深い穴に吸い込まれるような錯覚へと陥り、堪らず眩暈を起こす。暗闇には慣れているはずであるのに、どうにもこの感覚だけが呪いのように日頃から僕を追い詰めていた。
コ……ツ…………コ…ツ…………
「(……………あぁ、彼か)」
揺らぐ視界に必死な思いで抗いながら歩き続けていると、暗闇に染まる向こう側から自分とは別の足音が微かに聞こえてくる。当初は顔どころか姿すら確認し難いこの状況に不安を覚えたものだが、今となっては歩き方や足音で、ある程度の人物を把握できるようになった。
「(…慣れとは恐ろしいものだな)」
このヨタヨタとした頼りない歩き方に弱々しい足音。不規則に響くそれらの脆弱な音は、その疲憊した身体が当てもなくふらついているのを容易に想像させた。そしてその人物が旧知の仲である同僚だということも手に取るように脳裏へ浮かぶ。
「(…彼と出会ったのはいつ頃であっただろうか)」
残念ながら出会い当時のことは思い出せないが、持ち合わせている数少ない記憶の彼は常に弱々しく、顔を合わせる度に心が痛めつけられる印象があった。僕はそんな彼へ声をかけようと歩みを進めつつ、無意識に表情作りをしている自分に心底嫌気が差してしまう。
少しして丁度お互いが間接照明の照らす範囲に入った時、僕は確信を持って軽く手を挙げた。すると彼も僕に気が付いたようで、ゆっくりとした足取りのまま近付いてくる。会話の出来る距離になった所でニコリと笑みを浮かべてみせれば、彼もそれに答えるように弱々しく微笑んだ。
「おはようございます」
「おはよう、なんだか顔色が優れないようだけれど大丈夫かい?」
「えぇ……その……あまり、眠れなくて」
「そう、体調には気を付けるんだよ」
「はい…お気遣いありがとうございます」
彼は僕にそう礼を述べ、深々と頭を下げた。ボサボサの髪によれたスーツ姿、痩せた体躯に暗闇でも明確な目元の隈。僕は今にも倒れてしまいそうなほど弱々しく佇む彼をじっくりと見て、まるで自分のことのように胸が締め付けられ苦しくなった。
「(……酷い姿だ)」
職務に対する責任の重圧か、それとも過去に縛られ自責の念にかられているのか。あるいは何らかの病に冒されているのだろうか。彼が憔悴しきっている要因を想像してみれば、うんざりするほどの可能性が浮かんだ。
「(…苦しくない、と言えば嘘になる)」
僕らが扱うものは他者の命だ。本来、それぞれの生命には各個体に合った生存期間が予め設けられている。だが、突如として生きる筈であったその期間が一方的に奪われた時、その全う出来なかった命に対していわゆる執行猶予のようなものが与えられるのだ。
僕ら審導員の仕事はその猶予を与えるか否かを判断することである。そこで、判断結果を表す方法として存在するのが『転生』と『死』。例えば、理不尽な不幸であると判断すれば転生を言い渡し、真っ当な終結であると判断すれば死を宣告する、と言った風に。
「(…彼はきっと、押し潰されてしまったのだろう)」
残酷なことに、ここへ流れ着く命は毎日うんざりするほどの数だ。いくら捌いても、この重責に終わりは来ない。手元にある僅かな情報とその時の受け答えだけで、今まで数多の経験を経てきたその命の在り方を決断しなければならず、場合によっては恨みつらみを並べられ、怒号を飛ばされ、号泣される。それが僕らの日常だ。
加えて職務内容については規定上、同業者であっても決して他言は許されない。それ故に倫理の狭間で揺れ、いつしかその残酷さに溺れ、全ての責任を負い、悩み、苦しみ続けるのだ。
「僕らは孤独だ、だからこそ押し潰されないよう常時気を張らなければならない」
僕はまるで自分自身へ言い聞かせるようにそう伝えてから、弱々しく痩せきった彼の手をそっと握った。すると彼は咄嗟にこちらを向き、長い前髪の隙間から驚いた表情を浮かべる。虚無感の漂うその黒い瞳には薄らと僕が映っていて、底知れぬ暗闇へ吸い込まれるような感覚に眩暈がした。
「…大丈夫さ、ほら、君には僕がいるだろう?」
僕は脳が揺れるような感覚を精一杯無視して、彼へニコリと笑顔を見せてから握ったその手をゆっくりと離した。疲弊した同僚の心に少しでも安らぎを与えてやりたい、その一心でとった行動は間違いなく僕の本心である。
だがその一方で、酷い震えと不安になるほど冷たかった彼の手の余韻が脳内に深くこびりつき、心の何処かが騒ついて気分が悪くなった。
「……ではそろそろ行くよ」
僕は彼の手の感触を無理矢理忘れようとするかのように一方的な別れを告げた。一瞬、彼が何かを言おうと僅かに口を開いたが、僕は気付かないふりをして構わずその場を後にする。騒つく胸にそっと手を当てて深く息を吐き出せば、体内の不要なものが外へ出て行くような感覚がして幾分か楽になった。
「(…一体、何なんだ…)」
原因不明の不調に不快感を覚えつつ、僕は一心不乱に歩みを進めた。彼に奪われた掌の熱は徐々に血を流れて戻っていき、弱々しく震えていたあの感覚も次第に薄れて何故だか酷く安堵する。しかしながら脳内に浮かぶ彼の残像は、いつまでも水に映る影のようにゆらゆらと揺れ僕の記憶を刺激していた。
「(以前は快活な人間であったような気もするが…いや…だが今の姿からは全く想像できないな)」
薄らとぼやけた記憶に確証など存在しないが、必死に想像を膨らませれば微かに浮かぶ空想のような彼の姿。だが、その姿は現状とは随分とかけ離れていて、所詮空想は空想なのだと現実を突き付けられた気がした。
「(…うんざりするほど残酷だ)」
他者の命を自身の決断で左右させるというのは、想像以上の責任と後悔、そして迷いに襲われる。とは言え、それが我々の仕事なのだから仕方ないだろうと論破されればそれまでだ。もちろん覚悟はあるし、これまでだって幾度となく乗り越えてきたという自負もある。だが時折、言いようのない恐怖がぐるぐると渦巻き、あの決断は正解だったのか、むしろ正解などあるのかと自問自答を繰り返す散々な夜が訪れるのだ。
「(この重荷を降ろせたのなら、どれほど楽だろうか)」
僕はそんな悔恨の情にも似たものを抱きながら、今日も自分とは無関係の命を一方的に導く。罪人の命へ免罪符を渡すのも、善人の命を処刑台へ上がらせるのも、僕次第だというその事実に今更ながら心のどこかで怯えた。
「(…考えるのはやめよう、そろそろ到着だ)」
歩き始めてどれほど経過しただろうか。程なくして暗く長い廊下に、間接照明が仄かに照らす重厚な扉が現れる。このやけに重々しく堅苦しい大きな扉の向こうに、僕の仕事場が広がっているのだ。
僕は慣れた手つきで複雑に設定されたセキュリティロックを解除し、ゆっくりとその扉を開く。そして少し冷んやりとする空間に足を踏み入れれば、何も見えないほどの深い暗闇に一瞬で包まれるのであった。
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