第7話 麦わら帽子の下

 全員、明るくて太陽みたいに眩しい。

 持留はそんな三人に囲まれて、既に少し疲れていた。斉賀が迎えに来る時刻よりも五分ほど早く集まったので、山口の彼女の河田みくを紹介してもらっていた。彼女のカフェラテのような淡い色の髪の毛は全体的にゆるく巻かれている。

「こんにちは! 晴太くんの彼女の河田みくです。よろしくお願いします」

「こちらこそ。持留って言います」

「野々垣愛莉沙です。河田さん、めっちゃかわいーね」

「いや、そんなこと。でも褒めていただいて嬉しいです。ありがとうございます。えっと、愛莉沙さん、って読んでもいいですか……?」

「もちろん! じゃあ私もみくちゃんって呼ぶね」

 そんな可愛らしいやり取りを山口がニヤけながら見ているのを、更に一歩引いて見ていた。交じれる気がしない。

 山口から、一緒に海に行きたいというメッセージが来た時、突如降って湧いたナンパという言葉に首を傾げつつ、斉賀と二人きりでの海水浴にならなくて安心した。好きな人と二人きりで海で遊ぶなんていうのは、例え男女であっても緊張するだろう。ましてや、同性愛者だということを人に知られたくない自分は、変に余所余所しくなり不快な気持ちにさせてしまうかもしれない。そういった心配は和らいだ。

 ただ、野々垣が来るのは少し不安だった。お礼をすると言って斉賀の連絡先を聞いてきた彼女は、斉賀が断ったことを伝えると残念そうにしていた。彼のことを憎からず思っていることは間違いなかった。まあそりゃそうだよな、あんなに格好いいし優しいんだもんな、と内心頷きつつ、斉賀が誰かと付き合うところを見たくはなかった。

 しかし、持留だって対策はしてきた。斉賀と野々垣が今日の海水浴をきっかけに付き合い、幸せそうに手を繋いで校内を歩く。そんな想像を何度も浮かべ、どんな風に自分が傷つくのかを把握し、心を抉り続けて、尚且その状態で笑顔を保つ。そんな悲しいトレーニングだけはバッチリだった。

 約束の時間ぴったりに斉賀の乗った車が待ち合わせ場所に到着する。大学生で車を持ってるだけですごいのに、その上格好いい乗用車だ。なんとなく照れてしまう。持留たちの前に車が止まって、斉賀が運転席の窓から顔を出した。

「なんか運んだほうがいい荷物とかあるか? 」

「クーラーボックスとか色々持ってきたぜ。トランク開けてくれ」

 山口がクーラーボックスと大きな鞄をトランクに詰め込んだ。野々垣と河田も、おそらく着替えなどが詰まっているであろう鞄を入れた。持留も続いて、そっと荷物を置く。

 車から降りてきた斉賀が、トランクを覗き込んで、顔をしかめた。

「荷物多くないか」

「必要なものしか入れてないから安心しろ」

「海水浴ってこんな準備大変なのか」

 呆れたように言いつつ、斉賀はトランクを閉めた後、持留と目を合わせて小さく笑ってみせた。

 髪を切っていることに気づき、これを見れただけで来てよかったと思った。目にかかりそうなくらい長かった前髪が整えられて、爽やかだった。

「斉賀、車出してくれてありがとうな。どう座ろうか」

「裕に助手席に座ってもらって、後ろ、お前と彼女と野々垣さんで詰めて座ってくれ」

 暑いから早く乗って、と言い残して斉賀が運転席に乗り込む。助手席に乗れるの、嬉しい。

「えー持留くん助手席いいな〜」

 野々垣が声をかけてくる。譲れということだろうか、と思って動きを止めた。ただでさえ暑いのに、更に変な汗が出た。じゃあ、野々垣さんが助手席で、と大人しく譲ろうとしたが、山口が横から口を出す。

「後ろ狭いからもちが助手席がベストだろ。みくが真ん中で俺と野々垣が両端に座る、で行こう。後ろに男二人いったらぎゅうぎゅうになる」

「あー、確かにそうだね」

 野々垣は残念そうに同意した。サンキュー山口。心の中で感謝しつつ、普通の顔をして助手席に乗り込んだ。

「裕、久しぶり。元気だったか」

「久しぶり、僕は特に変わりないよ。斉賀は髪切った? 」

 斉賀の手が己の前髪の先に伸びて、整えるみたいに指先で弾いた。耳に髪の毛がかからなくなって、刈り上げたもみあげが少しだけ見えるようになっていた。

「ああ、暑くてな」

「さっぱりしたね」

 格好良くて似合ってる、という言葉は心のなかで留めた。斉賀は何か言いたげな表情をしてみせた、ような気がしたが、後部座席の三人が乗車し終えて出発を待っているのを一瞥し、黙ったまま車を発進させた。

「運転よろしくお願いします」

「おー」

 斉賀の運転する車の助手席に座れるなんて、と密かに持留は感動していた。

 山口が後部座席からナビを覗き込んでくる。

「なー斉賀。この車ってスマホ繋いで音楽流せる? 」

「いける。お前のスマホ繋ぐか? 」

「繋ぎたい! 」

 ちょうど信号待ちだったので、ナビ画面を操作して接続を行う。その様子を皆で見守る。信号が変わって車が動き出し、一旦操作をやめた。

「いやーしかし。改めて謎メンだよね、文学部と工学部と……あと、みくちゃんは何学部なの」

「私、経済学部です」

「そうなんだ、なんかサークルみたいなバラバラさだね」

 野々垣はそう言って笑った。

 謎メンとは謎メンバーのこと、確かに個々を見ると繋がりがあっても、五人全員でみると本来関わりのない集まりではあった。

「持留くんと斉賀くんってなんで仲良くなったの」

「えっと、なんでだっけ」

 野々垣からの質問にとぼけて見せながら、持留はもちろん初めて会った日のことも二度目に会った時のことも仔細に覚えている。しかし、斉賀が言いたくないことも含まれているのではと考えたのと、あまり詳しく覚えているのが変に思われるかもしれない、と二つの心配が重なったため黙った。

「あー、裕が働いてる居酒屋に行ったんだよな最初は」

「合コンの時な」

 山口が訳知り顔で会話に参加する。女性陣が揃って驚いたように声をあげた。

「あー! 持留さんってあの時の店員さんですね」

「え、斉賀くんって合コンとか参加するキャラなの!? 」

 持留も河田に呼応して驚き、彼女を振り返る。

「あの時いたんだね。あれきっかけで山口と付き合ったのか」

「あの時緊張してて……お名前覚えてなくてすみません。綺麗な顔の店員さんいるって、友だちと盛り上がったんで、なんか見覚えあるなとは思ってたんですが」

「そうだよ、斉賀は合コンめっちゃ参加するキャラだ」

「おい、嘘つくなよ山口」

 と言ったのは斉賀。

 会話が混線したので、河田との会話を一旦ひっ込めた。褒められたところで終わったので、持留はなんだか落ち着かなかった。野々垣が前のめりに聞く。

「え、どうなの? キャラじゃないのになんでその合コン参加したの? 」

 斉賀は答えづらそうにしていた。

「……ただの数合わせ」

 車が久しぶりに信号で止まり、スマートフォンと接続するための操作を再度始める。車内にナビの電子音が響く。野々垣は斉賀の言葉の続きを待っているようだった。歯切れの悪い返事で、なんとなく続きがあるように感じられてしまうが、続く言葉はないと持留には分かった。

 気まずい空気になる前に何か言わなきゃ、と焦った時、河田が身を乗り出す。結構な勢いで運転席と助手席の間から顔を出した。

「あのぉ、斉賀さん! 」

「え、はい」

 驚いた斉賀の指が画面上でぴたりと止まる。

「斉賀さん、もしあかりちゃんのことで私に気を遣ってるのなら。あかりちゃんはもう彼氏できて毎日幸せそうなので気にしないでください! 」

「そうなのか……良かった。失礼な態度取ったから」

「事情は晴太くんから聞いてます。その気がないならあの態度が最善だと、私は思います! まあちょっと大人げない感じでしたが! でも、恋愛の駆け引きというのはある種争いにも似ているものですから」

 きっぱりと言い放った河田に面食らったような斉賀。最初の印象よりも随分口が回る。

「そうなのか、すまん、よく分からんけどとりあえず良かった」

「あ、あと、斉賀さんは晴太くんと私の恋のキューピッドだと思ってます! ありがとうございます」

「いや……嬉しくない……」

 ようやく接続が完了して、スピーカーから音楽が流れ出す。同時に車もアクセルを踏んだ。夏を賛歌する爽やかなJ-POPだ。

「え、なんかよく分からないけど、私以外全員その合コンにいた人が今日揃ってるってことだよね? なんかウケる」

「たしかに、言われてみれば……店員交じってるのおもしろ」

 野々垣と山口がけらけら笑った。持留もつられて笑う。河田は満足げな表情でスマートフォンを操作していた。文字を入力していることが推察される指の動きから、そのあかりちゃんとやらに何かを送っているのかもしれない。

 斉賀の顔をちらりと横目で見ると、目があった。彼も楽しそうに見えたから、持留は安心する。


   ◇


 大学から車でほんの一五分ほどのところにも海水浴場はあるのだが、今日は少し遠くまで足を伸ばすことになっていた。せっかくだからドライブがてら海沿いを走りたい、という斉賀の要望があったのだ。

「運転好きなの? 」

 後部座席の三人、特に山口、の止まないおしゃべりの合間、運転手に聞いてみた。

「バスとか電車に乗るよりは好きだな。自由にどこでも行けるのがいいなと思う」

「そう思えるのすごいなあ。運転も上手だし」

 一応持留も運転免許は持っているが、自動車学校を卒業して以来、一度もハンドルを握っていない。車の運転は恐ろしい、と考えていたからその返答に余裕を感じていた。公共交通機関で行ける範囲だけで過ごして生きている自分より、随分世界が広そうだった。

 海水浴場まで大体一時間ほど車で揺られ、その道すがらスーパーに寄って買い出しをした。冷たい緑茶を買って、トランクにある山口のクーラーボックスに入れさせてもらった。そもそも何が入っているんだろうと思ったら、蓋を開けたそこには大量の氷水と大きなすいかが一玉、夏の象徴の顔をして居座っていた。曰く、山口のお母さんが持たせてくれたらしい。すいか割り用。

 氷の中に、五人分のペットボトルを沈めると、水かさが上がって、すいかもわずかに高くなった。そんな様がなんともかわいくて、見ていたら氷を洋服の襟から入れられた。山口だ。背中を冷たい塊が滑る。驚いて身をすくめると、山口は笑っていた。

「つめたー、小学生かよ。意味わかんないし」

 文句を言いながらシャツの裾をぱたぱた振ったが、氷は出てこない。背中の体温で溶けたらしかった。

「もちはいたずらしたくなるんだよな」

「まだそれ言ってるのか。いい加減飽きない? 」

「反応が面白い。な、分かるだろ斉賀」

 山口は同じ講義を取っていた一年生の時からずっとそう言っている。驚いたら声を上げてしまうし、山口がたまにつくよく分からない嘘も信じてしまうが、みんなそうだろう。それを面白がる山口がいじめっ子気質なのだ。当時されたいたずら等、ひとつひとつを詳しく覚えてはいないが、

『銀行ATMの中には人が入ってるって知っているか』

と聞かれて、素直に

『知らなかった、そうなんだ』

と答えた。その講義中ずっと、笑いをこらえる山口の肩が震えていたのは印象深い。

「いや、普通の反応だろ」

 斉賀が一喝するように言ったが山口は変わらず軽い感じで笑っている。心配している表情の斉賀に見つめられて、思わず顔を背けた。そんなに心配されるようなことではなかったから、気恥ずかしかったのだ。

「氷、溶けたからもう大丈夫だよ」

 それだけ言って、助手席に乗り込んだ。先に車内で涼んでいた野々垣と河田は楽しそうに話をしていた。

 山口が授業で会う度につついてきたり、肩を組んできたり、なんのかのとからかってくるから、もしかしてこの人ゲイなのかな、僕のこと好きなのかも、などと考えていたのをふと思い出した。まだ福岡に出てきたばかりでゲイバーに通うようになる前のことだった。男なら誰でも好き、という訳ではもちろん無いが、体が触れると少なくとも意識はしてしまう。

 バックミラー越しに目が合うと、いじめっ子の恋人は愛らしく、小首を傾げて微笑んだ。

 そうだよな、と思った。ゲイバーやマッチングアプリ以外でゲイと出会ったことはなかった。そうだよなぁ。

 山口が好きなタイプの男じゃなくてよかったと、八つ当たりするみたいに思った。



 雑木林の景色が続いていた。カーブの先に海が見えて、吸い込まれるようにガードレールに沿って道を曲がる。持留は窓に張り付いて海面を見つめた。斉賀が助手席の窓を開けてくれる。冷房逃げるのに、優しい。お礼を言った。

 波立った先端が陽の光で輝いていて、後部座席が湧いている。そんなのを三セットほど続けて、海沿いをしばらく走った後に海水浴場にたどり着いた。

 海の家に隣接された駐車場に車を停めて、アスファルトに降り立つ。遮るものがない中、直射日光に炙られると今にもめまいがしそうだった。

「暑いね、帽子持ってきたらよかった。忘れてた」

 そう野々垣と話しながら、トランクから荷物を取り出す。今日は海の家の桟敷席を山口が予約してくれていた。山口を先頭に建物の中に入る。海水浴の経験はあったが、海の家を利用するのは初めてだった。思わず店内を見回してしまう。天井にある扇風機の首が回っていて、その風が当たるたび軒先の風鈴が氷の鳴るような音を立てていた。

 受付を終えて、案内されるまま砂浜へ進む。コンクリートの柱と平らな屋根だけでできた建築物を簾で仕切って個室にしている。そこが本日借りている席であった。海に面した側にもご丁寧に簾がかかっていて、日差しが遮られていた。七つほどに分かれている個室のうち、既に半分は家族連れの客が入っていて、賑わいを見せていた。設置してある椅子の上に荷物を置いて、そっと海側の簾を捲って覗き込む。

 白い砂浜と深い青色の海、青い空と白い雲が広がっていた。美しい、と感じて静かに眺める。

「これ、上に上げようか」

 後ろから斉賀が声をかけてきて、簾をぐっと上に持ち上げて屋根にうまいこと乗せた。斉賀は身長が高い。一八五センチあると言っていた。

「ありがとう」

「いや、綺麗だな」

 海を見据える斉賀の横顔を盗み見る。

「やばい! 海綺麗すぎる! 」

 山口が後ろで騒いでいる。早速泳ぎたいけどまずは着替えなければ、ということで荷物の番と支度をする組とに男女で分かれることになり、野々垣と河田はバッグを持って更衣室へと向かっていった。

「みくの水着楽しみだなー」

 彼女たちを見送ったあと、山口は心底わくわくした顔で言った。斉賀と持留は、ゴザの上に腰を下ろしたが、山口は落ち着かないようで一人で歩き回っていた。

「海で泳ぐなんていつぶりだろう」

 斉賀があぐらをかいた膝に肘をついて、そう言った。

「そうだよね。僕も中学生以来とかかも」

 持留は体育座りで、膝にあごを乗せる。ふたりとも海を眺めていた。屋根で影になっているところから日向になっている砂浜の境に指先を伸ばしてみる。光が触れたところにじりっとした暑さがあり、肌が焼かれていることを感じられるようだった。斉賀が真似をして、指を伸ばした。

 あ、この人は手も格好いいんだ。自分の指と並ぶ、彼の節くれ立った指を見て、また夢中になった。

「斉賀の手、関節目立つね」

 感想を漏らすと、斉賀は二つの手の形をしげしげと見比べ、思いついたように言った。

「多分柔道してるからだな」

「そっか、柔道部だもんね。武道格好いいな」

 柔道で鍛えた肉体、斉賀の水着姿を見ることができてしまうのだ。楽しみだと期待してしまうが、同時に罪悪感があった。恥ずかしくて目も向けられない可能性はあるが、とにかくどうなっても、視線を注ぎすぎないようにだけは気をつける、というのは数日前から決めていたことだった。

「おい、あれ見ろよ。黒ビキニの人まじでめっちゃ綺麗。え、待って。あっちの人、あのタンクトップの紐みたいなやつがない水着来てる。落ちないのか!? 」

 山口は目についた女性の水着に逐一コメントをつけていた。いっそここまで開き直れたらいいな、と羨ましさを感じる。

 しばらくすると、待つことに飽きてしまった山口が文句を垂れる。

「出てくるの遅くね? 女子」

「まだ一五分くらいしか経ってないよ。女の人は髪の毛とかもセットしないとだから大変なんでしょ」

「早く海入りたいんだけど」

「あー、じゃあ斉賀と山口は先に着替えてきたら? 僕荷物見とくよ」

「え、まじ。ありがと、もち。じゃあ斉賀行こうぜ」

 さっと荷物を持ち上げた山口とは反対に斉賀は座ったままだ。

「裕、一人で大丈夫か」

「え、荷物番くらいできるよ」

 斉賀と同じ時に着替えるのに抵抗があったから、ちょうどよかったのだ。できれば今行ってもらいたい。というか、同い年の男に対して何が心配なのかと不思議だった。

 渋々といった様子で斉賀は立ち上がる。更衣室へ向かう二人を見送ったあと、一人になった席で穏やかにため息をついた。人といるとどうしても気疲れしてしまう。リュックから必要なものを取り出し、ビーチサンダルをゴザの脇に置いた。

 開いた鞄の口から、無理やり詰め込んで持ってきた”それ”が目に入った。斉賀が喜んでくれたらいいなと考えつつ、ファスナーを閉じる。

 日焼け止めを手持ち無沙汰に振りつつ、ぼんやり海を眺めていると、背中に声をかけられた。振り向くと水着に着替えた野々垣と河田がいた。持留は立ち上がる。

「ねぇ、私らかわいすぎない? 」

 野々垣はグーにした両手を顎に添えて、少し釣り目な瞳でこちらを見上げてくる。大げさな動作で、恥ずかしいのを隠しているのがなんとなく分かった。

「うん、二人ともかわいい」

 お世辞ではなく素直な感想だった。野々垣の言葉も仕草もしっくりきていた。群青色のビキニと明るい髪色が、形の良い眼を鮮やかに見せた。

 河田はワンピースみたいな淡いピンクの水着が似合っていた。どういう構造になっているのか分からなかったが色々なところに紐がついている。高い位置で結んだツインテールが、風に吹かれて少し揺れた。対照的な外見の二人が並ぶと、画になっていて夏に映えた。

「そんな素直に褒められると照れちゃいますね」

 河田は口元を隠して恥ずかしがる。

 褒めておいてなんだが、目のやり場に困った。首から下に視線がいかないようにしようと努めた。女性には綺麗や可愛い以上の感情は抱いたことはないが、それでもなんとなく失礼な気がした。

「斉賀くんと山口は着替えにいったの? 」

「うん、もうそろそろ戻って来ると思うけど」

 更衣室にちらりと目をやってから、野々垣は鞄に手を突っ込んで、取り出した二つの帽子を机に乗せた。

「ねえねえ、斉賀くんはどっちの帽子のが好きだと思う? 」

 唐突な問いに、答えに詰まった。ざっくり編まれた素朴な印象の麦わらと、つばのカーブが波打って美しい女優帽。一人では選びきれずに二つ持ってきたらしい。彼女は斉賀とより親密になろうとしている、分かってはいたが改めて身に堪えた。

「えー、分かんないな」

「ていうか斉賀さんって彼女いないですよね? 愛莉沙さんと脈アリだと思うんですがもちさんどう思いますか」

「えっ」

「ナイス質問! 」

 二人の視線がじっと顔に注がれる。困った。斉賀と恋愛の話は極力避けてきたのだ。彼の好みや性的指向を理解したくなかったから。

「斉賀、硬派だからなあ。あんまそういう話したことなくて。多分彼女は今もいないと思う」

 なんとか答えを絞り出した。まっすぐ目を見て返事はできなくて、無意識に海へ視線をそらした。以前、斉賀がテキストの運搬を手伝ってくれた時に、野々垣の話をした。本当にそれ以外は、恋愛絡みの話は出ていないのだ。

「脈は!? 脈ありますか!? 」

 おじいちゃんが倒れたのか、と聞きたくなるくらいの勢いで河田が前のめりに聞いてくる。この子なんなんだ、と少し面白くなってしまう。

 持留は曖昧に首を傾げた。あると言えば盛り上がるだろうし、そう言ってほしいんだろうというのが伝わってくるが、どうしても言えない。お茶を濁すため、持留は女優帽を指さした。

「ごめん、斉賀の好みは分かんないけど、こっちの帽子の方が野々垣さんには似合いそうな気がする」

 そう言って、にっこり笑ってみせた。笑顔で押し切る。野々垣もつられて微笑んでくれた。

「選んでくれてありがと。私もこっちのが好きなんだ。斉賀くんも好きだといいな」

 ひょいと被って、小さな鏡を取り出して前髪を直す。そんな一連の動作も可愛らしい人だった。恋をしている表情に目を奪われる。

 よし、と言いつつ鏡を鞄にしまって、余った麦わらを机から拾い上げた。

 持留の視界に影がかかる。麦わらを被せられたのだと分かった。

「えっ」

 暑さで随分汗をかいていた。その状態で人の帽子を被るというのは心苦しすぎる。焦って外そうとしたが、上から押さえつけられる。

「持留くん、帽子持ってきたらよかったって言ってたじゃん。それ被っちゃいな。日焼けも防げるし」

「いやでも汗かいてるし汚れちゃうよ」

「いいから、選んでくれたお礼だよー」

 輝く笑顔で、今度はこっちが押し切られた。日焼け防止になるのは嬉しいし、それにこういう可愛らしい麦わらへの憧れもちょっとあった。

 持留は眉近くまで深く被らされた帽子のつばを両手で持ち上げて、被り直した。

「クリーニングして返すね」

「気にしなくていいよ」

 ひらっと手を振って、砂浜に一歩踏み出した。

「海綺麗、早く入りたい! 」

 その後ろ姿を見つめて、主人公みたいな人だなと思う。

 持留と野々垣が所属する学科のクラスは仲が良くて、頻繁に食事会を開くほどなのだが、それは野々垣が仲を取り持っているからと言っても過言ではなかった。決して明るくない持留のような人間にも、いつも声をかけて輪に入れてくれる。

 自分の気持ちは横に置いておいて、野々垣の恋を応援したくなってしまった。素敵な彼と素敵な彼女がくっつくのは、必然のような気がした。彼女の人柄も性別も性的指向も美しい体も、何もかもが持留には羨ましい。

 今日という、夏の日の主人公は野々垣だ。帽子の影に隠れて、奥歯を強く噛み締めた。

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