第5話 陰鬱な恋バナ

 風呂に浸かっている時も、眠りに落ちる直前も彼のことを考えていた。

 医者にかかりたい。

 とある人のことが頭から離れなくなって、現実では決して起き得ない空想をしてしまう。そんな自分の症状を必死に説明して、何らかの病名をつけてもらわないと納得できない。

 そうやって、持留は自分の感情に名前をつけないようにしていた。いや、向ける方向を間違った性欲だ、と捉えることにしていた。

 恋と呼んでしまうと、途端に不幸せになってしまうから。



 アルバイト先の店長である香坂は、恰幅のいい男だった。その後ろについて歩き、目的の店へたどり着く。少し奥まったところに立地し、いかにも一見さんお断りという雰囲気のずっしりした木製の扉。香坂がそのドアノブを引いて中を覗き込んだ。

「カズハー、来たよ。もちも一緒」

 持留はドア枠と香坂の体の隙間から顔を覗かせた。店内が見えて、カウンターの奥にいる店主と目が合う。

「こんにちは、お久しぶりです、持留です」

「修一! もちちゃん! いらっしゃいませ、入って入って」

 前回の来店から間が空いたから、覚えていてもらえる自信がなかったが杞憂だった。冷房のよくきいた店内へ香坂に続いて、体を滑り込ませる。昼間散々日射を浴びたコンクリートは未だ熱を放っており、都会の宵はずいぶん暑かった。香坂と並んで、端の席に腰掛ける。

「もちちゃん、久しぶり〜。二か月ぶりくらいだよね」

「そうですね、ちょうどそのくらいです」

「修一はついこないだ来たもんね。来すぎじゃない? ありがたいけど」

「カズハが、もちが来なくて寂しいっていうから一緒に連れてきたんじゃん。もー暑いったらない」

 香坂は、カウンター越しに店主からおしぼりを受け取り、それで額を拭った。持留も貰って手を拭きつつ、カウンターに座る客にこっそり視線を走らせた。男性客が二人、離れた席に並んで座っている。知り合いではないことを確認して、わずかに安堵した。

 その二人のくすぐり合うような会話が聞こえて、もう付き合っているのか、これから進展する二人なのか考えるでもなく空想した。ここは変わらず自分の話ができる場所だ、と人心地つく。

 この店はゲイバーだ。店の決まりで男性客しか入ることができないようになっている。

「ふたりとも何飲むの。もちちゃんはいつも通りジンジャエールでいいかな」

「あ、じゃあ、それで」

「いやいや、待ってよ。折角なんだから酒飲みなよ」

 香坂は持留の注文を遮ってそう言った。店主は首を傾げる。

「あれ。もちちゃんって未成年よね」

「あ、いや……。こないだ二十歳になりました」

「そうなんだ、おめでとう。年が経つのって早いね」

 そっと口元に手を添えて、驚きを表す仕草が上品だった。店主はカズハと名乗っていて、持留は本名を知らない。

「一杯目奢るよ。遅くなりすぎだけど、誕生日祝い、好きなの飲みな」

 香坂がカウンターに肘をついて、持留の顔を覗き込んだ。申しわけなくて、首を振って遠慮した。

「香坂さん、車だからお酒飲めないですよね」

「いいんだよ〜。気にせず飲んで」

 人の良い笑顔を向けてくる香坂とは、このバーに通ううちに縁があった。アルバイト先を探していた持留と、人手不足の居酒屋の店長をカズハが引き合わせるのは自然な流れだった。

 香坂が切り盛りしている居酒屋は、持留の家からは遠いが、家とこのバーがある場所の中間地点にあり、往復の交通費を支給してくれる。ここに少しでも来やすくなるのが嬉しくて、アルバイト先に選んだのだった。また、同じ指向を持っている人がいる場所、というのはなんとなく心強かった。

 飲んでいいという香坂と遠慮して辞退する持留のやり取りが何度か続いた後、カズハは背後にある棚から芋焼酎の瓶を取り出して、ラベルを見せた。それは以前ここで香りを嗅がせてもらい、持留が是非飲みたいと言った銘柄だった。そんな些細なことを覚えてくれている。驚いた。

「記憶力すご、プロですね。それ飲みたかったです」

「へへ、もちちゃんの反応が可愛かったからいつか飲ませたかったんだ。ソーダ割でいいかな」

「ソーダ割でお願い」

 そう答えたのは香坂だった。持留は折れて、素直にお礼を言い、酒を注ぐカズハの手元を見ていた。

 慣れた手つきで氷を足元の冷凍庫から取り出して、細長いグラスに入れ、芋焼酎、その後炭酸水と注いでいく。暖色の灯りに照らされた透き通った氷は、まるで夕日が閉じ込められているように見える。

「どうぞ、お誕生日おめでとう」

 カウンターにグラスが置かれる。持ち上げると、爽やかな果物の香りが立った。口をつけて一口飲んだ。飲みやすくて、思わず笑ってしまう。

「美味しい」

「お口にあってよかった〜。飲みやすいよね」

 朗らかに笑いながら、カズハは自分の刈り上げた襟足を撫でた。

「あ、修一は何飲むの」

「アセロラジュースとかある? ビタミン取りたい」

「え、なになに、美意識高い時期なの。あるけど」

「夏って紫外線強くて日焼けしちゃうからさ、隙あらばビタミン取ったほうがいいと思うんだよね」

 カズハは、透き通った赤色のジュースを、コースターの上に置いて差し出した。

「あ、そうなんですね。ビタミンって日焼けに効くんだ。僕も飲んどこうかな」

「どこまで効果あるかは分かんないけど、気持ち的にさあ」

「えー私も飲もっかな」

 カズハが言うので、持留は右の手のひらを差し出して、是非どうぞという仕草をした。

「あ、じゃあ僕のにドリンクつけといてください」

「え〜せっかく僕がもちに奢ったのに」

 香坂がそう言って口を尖らせた。

「なんか……ドリンク入れてもらわないと落ち着かないんですよね。それに三人で乾杯したくないですか」

 それなら、と香坂は渋々頷いた。持留は嬉しくて頬を高揚させた。二十歳の誕生日は母親からおめでとうとメッセージが届いただけで、お祝いをされたのは今日が初めてだったのだ。

 カズハが自分のアセロラジュースを用意したのを見て、持留が音頭を取った。

「えへへ、じゃあ乾杯」

「もちちゃんおめでとー」

 透明なグラスと赤色のグラスがぶつかり、小さく音が鳴った。ぐいっと飲んで一息つき、カズハは話を切り出した。

「もちちゃん、最近、大学どうなの」

「特に何もないですよー。あ、テストあるから来週は忙しいかもです」

「あ、そうなんだ、ずっと忙しいのかなと思って心配してた。なんか大学以外であったりしたの」

 心配させるほどの期間来なかったことを申し訳なく思った。

 今日ここに来たのは二か月ぶりだが、以前は週に一度くらいは必ず通っていて、わりと常連だったのだ。

「えっと……何かがあったわけではないんですけど。前まで僕、男漁りが目的でここに来てたから。最近、そういうのする気がなくなっちゃって」

 香坂とカズハが笑い声を上げた。情けないというかだらしない理由だったから、笑ってもらえて安堵する。

「たしかに、もちちゃんってお天気お姉さんみたいなかわいい顔しといて、結構夜は奔放だよね。ちょっと変わった感じ? 」

 問われたがうまく言葉にできなくて、持留は唸った。酒に口をつける。飲みやすさから、あっという間に一杯空けてしまった。同じものを、とカズハに頼む。少しだけ酔いが回ったようで、心なしか浮遊感があった。

「なんていうか、その……」

「好きな人でもできたの? 」

 香坂に聞かれて言葉に詰まる。カズハからグラスを受け取ろうとした手が止まった。彼の―――斉賀の顔が浮かんで、頬が熱くなる。

 持留の反応は肯定しているのと同じことだった。

「え、まじでそうなの。言ってよ〜」

「もちちゃん顔赤い」

 持留は盛大に慌てた。赤くなっていると言われた顔を隠したくて両手を頬に添えた。香坂は微笑ましそうに持留を見つめて聞いた。

「相手どんな人なの? 」

「いや、そんな僕みたいなのに、好きな人とかそんな」

 先ほどカズハが言ったこと、お天気お姉さんみたいな顔、というのはよく分からないが、夜は奔放というのには同意する。

 初めての性行為はマッチングアプリで出会ったユーザーネーム以外何も知らない男が相手だった。その人とは二時間、共に過ごしただけでそれ以降一度も会っていない。大学進学を機に、福岡に来てから経験だけは重ねたが、体を交えた男、誰一人として現在まで関係が続いている相手はいなかった。一時の性欲を鎮めることが目的で、関係を続けるための努力は煩わしかったのだ。

 持留は、自分に恋愛などと言うものは相応しくないと思っていた。それなのに。

「なんでなんで、恋していいじゃん」

「こ、恋って思いたくなくて」

「なんで」

「相手、ノンケだし」

 持留は自分の声が震えていることが恥ずかしかった。ごまかすために酒を飲んだ。

「間違った性欲向けちゃってるだけで……」

 心底困っている、落胆がにじみ出るような声にカズハも香坂も一瞬黙った。

 恋ではないと否定しながら、間違った性欲だ、と捉えながら、斉賀がゲイで僕のことを好きになってくれたなら、とそんな雲のような期待を抱いてしまう。心底愚かだ。

「たしかに叶わないかもだけど、いっそ割り切って片思い楽しんじゃうのも手じゃない? 」

「いやー、なんかノンケにこういう気持ち向けるの罪悪感すごくて」

「うーん、ちなみに気になるようになったきっかけってあるの? 」

 カズハに聞かれて、彼との出会い頭を思い出した。

 おしぼりを押さえる手が腹に触れた時、そのまま壁に押さえつけられるような形になった。なんだこのイケメンと思ったすぐ後、顔が初対面ではあり得ないくらい近づいた。その瞬間、息が詰まってしまって、もうまともに彼を見ることすらできなかった。

 けれど、ただそれだけなら顔が好みの人と接点を持つことができてラッキー、くらいだったのかもしれない。

 顔だけではなかった。斉賀は、基本無愛想なくせに、優しく親切で、たまに子どもみたいに可愛らしい。さらに、持留に特別優しくしてくれている気もする。鍵を一緒に探してくれた。

 考えれば考えるほど、好きにならないほうが難しい。

 それを二人にどう伝えようか迷った。

 そのまま話すと、アルバイト先で出会ったことがバレてしまう。斉賀はあの居酒屋を結構好き、だと言っていたから、もしかしたら香坂と顔見知りの可能性もある。なんとなく恥ずかしく、少し誤魔化して話すことにした。

「えと、出会いから結構衝撃的で……、初対面でいきなり壁ドンみたいになって。それで体触られたから、なんか下半身が誤作動しちゃって」

「どういう状況? その人ゲイじゃないんだよね」

「あ、や、成り行き上みたいな」

「成り行き上って何」

「転びそうになったときに助けてくれてたまたまそうなった……」

「少女マンガみたい」

 質問攻めをしていた二人が、声を揃えて言った。そうだ、本当に少女マンガみたいだった。

「しかも、優しくて親切で本当にいい奴なんです」

「顔は? 」

「顔も格好いいんですよ! 女の子にモテる」

「そんなん好きになっちゃうね」

「そうですよね……」

 話しているうちに感情がこみ上げてきて、心拍数が上がっているのを感じた。顔の熱は全く引く様子がない。頬を両手で挟んで、収まれ収まれと念じる。落ち着かないのに、口は勝手に動く。自分はこの気持ちを誰かに話したかったんだと気づく。

「今度、海行く約束してるんですよ」

「海って、めっちゃいいじゃん。ウキウキな夏じゃん」

「って、僕も思ってたんですけど……、やっぱ性欲が邪魔っていうか、水着見るの恥ずかしいし申し訳ないし。二人きりっぽいし」

 カウンターにおでこをつける。結構酔いが回っているのかもしれなかった。思考がぼやける。

 海に行こうと誘われた時は、単純に楽しそうだとしか思わなかったのだ。夏らしいことをしたかった。ただ我に返って考えてみると、海で斉賀といる自分がどんな風になるのか全く想像できない。

「普通に楽しんだらいいじゃない」

「そうだよ、気にしすぎ」

 励まされて、とりあえず顔を上げて頷いた。

 斉賀のそばにいられるだけで幸せなはずなのだ。あんなに格好いい人に優しくしてもらえて、遊びにも誘ってもらえる。幸せだ。

「浮かない顔だなあ」

 香坂に言われた。カズハも心配そうな表情を作る。

「ノンケ好きになるとしんどいよね……」

「こればっかりはねぇ、どうにもできないし」

「うーん。あ、そうだ、ちょっと気分転換したらどうかな」

「気分転換ですか」

 持留は少し身を乗り出す。楽になれる方法があるのなら知りたかった。

「武仁がもちちゃんに会いたがってた。気分転換に会ってみるのはどう? 」

 カズハは名案、と言わんばかりに人差し指を立ててみせたが、武仁という名前を聞いて持留は、困ったような口元だけの笑みを浮かべた。

「そういう……ことする気分になれないので、大丈夫です」

「普通にご飯とか行ったらいいじゃん」

「石田さんと会うと、ご飯って感じではないんですよね」

 石田武仁は、この店で出会って何度か情事を重ねた男だった。体の関係を持った男は何人もいたが、一番深く、一番多く、体を繋げたのが石田だった。色々教えてもらった相手ではあるが、今は出来れば会いたくなくて、この店に来る腰が重かった理由の一つだった。

 斉賀に心を奪われてから、人と体を重ねることに乗り気になれなかった。

 もう二ヶ月近く、何かと理由をつけて石田からの誘いを断り続けていたから、店で鉢合わせするのは気まずかった。

 今日はアルバイト終わり、カズハが久しぶりに会いたいと言っているから、と香坂に誘われ、迷いつつも嬉しくて、恐る恐る来たのだ。

「あいつ、なかなかいい男よ〜? ねぇ修一」

「まあちょっと気取り屋の自惚れ屋さんだけど」

「たしかに」

 いい得て妙で、思わず笑って同意した。ベッドの上でも、得意気にキザなことを言っていたのを思い出す。少し乱暴なところもあったが、決して悪い人ではなかった。

「会いたくなってきたんじゃない? 呼ぼっか」

 カズハがズボンのポケットからスマートフォンを取り出そうとするので、制止する。

「いやー、本当にいいです。お互い体だけなので、乗り気じゃないのに会うの悪いです」

 カズハは断ってなお、石田を呼ぼうとしていたがちょうど客に声をかけられ、そちらへ向かった。

 横で香坂が煙草を取り出して、火をつけた。煙を吸って吐き出して、灰皿に灰を落とす。そして再び口にくわえる前に首を傾げた。

「そういえば、もち。煙草吸ってないんだ? 成人したら絶対吸うって言ってなかったっけ」

 バーで会話が止まった時の手持ち無沙汰を解消するために煙草を吸いたい、と以前の持留は常々話していたのだ。

 なのに、永一郎が良くないって言うから。ふてくされたようなことを思ってみる。けれど、この人が言うのだから、こんな美味しくないものは吸わなくていいんだ、と開放された自分がいるのが事実だった。

「……その人、煙草嫌いみたいなんですよね。一時吸ってたんですけど、やめた方がいいって言われちゃって」

「うわー、何それ。もちかわいいね」

 恋、いいなあ、なんてため息をつくみたいに香坂が言った。持留はもう、恋ではないと否定しなかった。

 端から見たら微笑ましいのか。叶わない、恋と認めたくもない情動の陰鬱さに拍車がかかった気がした。

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