第4話 青じそとんかつ
少し外を歩くだけで、頭の天辺が熱くなり肌が汗ばむ季節が来た。
「あっという間に夏だ。春は短かった。むしろ無かった」
そんな話をして、二人してシャツの襟口を引っ張りはためかせて、涼しい風を入れた火曜日。
その後の金曜日の話。
本日最後の講義が終わり、レポート提出のために必要な文献を探しに、キャンパス内の図書館を覗きに行くことにした。地面からの照り返しを受けながら、大勢の学生が行き交う広い中庭を突っ切った。手の甲で額の汗を拭う。
その時、ちょうど進行方向から、大量のテキストを抱えた男女の二人組がやってくる。その片方に見覚えがある。持留だった。歩み寄って声をかける。
「裕」
テキストが落ちないように顎で押さえていた彼は、斉賀に気がつくと笑ってみせるが、大変そうなのが見て取れた。
「暇だし一緒に運ぶ」
持留の手からテキストを取り上げようとしたら、腕の中の束を守るように背中を向けた。
「ありがと、でも僕のはいいから、野々垣さんのを持ってあげて」
言われ、横に立つ金髪に近いような明るい髪色の女生徒に目を向ける。持留の半分ほどの量のテキストを抱えていた。確かに言われてみれば、女性を手伝う方が自然ではある。頷き、野々垣と呼ばれた彼女の手から荷物を取り上げた。
「えー! よろしくお願いします。でもちょっと持つね」
野々垣は持留の持つテキストから半分弱ほどを取り、持った。そうして、持留を間に挟んで三人で歩き出した。文学部の校舎まで運ばなければいけないとのこと、ここからだとわりと遠い道のりだ。暑さが堪えきれず、揃って早足になる。
「めっちゃ助かるー。私達と一緒の学年なの? 」
「うん、ね」
持留がこちらを見て、同意を求める。目を合わせて頷いた。
「名前なんて言うの」
「斉賀永一郎」
「斉賀くんかー。斉賀くん、顔めっちゃ格好いいね」
野々垣は明るく言った。どう答えていいか分からず、口ごもると持留が会話を継ぐ。
「顔だけじゃなくて中身も優しいんだよ、斉賀は」
「ほんと、その顔でこんな颯爽と助けてくれたら本当に惚れちゃうでしょ! モテそうー」
今度こそ何か言わなければと思うが、返す言葉が思い浮かばず、
「いや、別に」
と一言で終えてしまう。鏡を見なくても自分が困った顔をしていると分かった。持留はしずかに笑っていた。その首筋に汗が光っていた。
「斉賀、モテるの」
その表情のまま、追い打ちのように聞かれた。凪いだ海のような瞳がこちらを見ていた。崩れやすい荷物を抱えて歩くというのは難しいもので、前を見ないとバランスが崩れる。横を見続けるわけには行かない。だから余計に、その瞳が印象づいた。なにか答えなければと焦る。
「……いや、モテない、ほんとに」
「モテる人はモテるなんて言わないもんねー。彼女いるの? 」
野々垣は遠慮のない性格らしい。斉賀の様子など気にせず明るく聞いてくる。
「いや、いない。ていうか、この荷物なんで運んでるんだ」
話が続くのが嫌で、無理やり話題を変えた。野々垣が説明を始める。講義で使う指定テキストの納品がかなり遅れており、ようやく今日届いた。代金については学生各々で既に支払っており、後は品を受け取るだけの状態。今日の講義から必要だったため、購買まで取りにいかなければならず、じゃんけんで負けた学生が取りに行くことになった。
「で、その運の悪い学生が私と持留くん」
「ほんと、運悪かったねー。ていうか男子だけでじゃんけんで良かったのに、女子参加しだしたの面白かった」
「ねー、みんなノリよすぎ」
横の二人がクスクス笑い合うのを、ただ聞いていた。変に疎外感を感じて、少しだけ気持ちが沈んだ。持留の屈託のない笑顔を横目で見る。そんな顔、二人でいる時には見たことがないような気がして、でもそんなことはないはず、と色々な場面を思い返した。あの時も、あの時も、持留は笑ってくれた、だから自分といる時もきっと楽しいはずだ、と思い直す。しかし寂しいような気持ちは消えなかった。
「なんかねー、男子が運ぶって話になったんだけど、女子も勝負ごとに参加したいって言って全員でじゃんけんすることになったんだよ」
野々垣が斉賀に向けて、補足説明を加えた。
「文学部、仲良いんだな」
「うん! 斉賀くんは学部どこ? 」
「工学部」
「あ、そうなんだ。理系すごー。女の子あんまいなそう」
「そうだな。俺のいる土木建築科は、同じ学年には女子一人もいない。別の学年には数名いるみたいだけど」
「ノーガールなんだー」
ノーガールがNo girl だと察するのに時間がかかった。そんな会話をしているうちに、文学部の校舎にたどり着く。この建物に来るのは初めてだった。匂いが違った。工学部の校舎はどことなく油臭いような、そんな匂いがしている気がするが、文学部は無臭だった。
教室まで運び、机にテキストをどんと置いた。クーラーがきいていて、涼みたくなったが本来自分はここにいてはならない。教授にお礼を言われつつ、去る前に持留と話したくて声をかけようとすると野々垣が先に寄ってくる。
「斉賀くん、ありがとー」
「いや、ついでだし」
何のついでかと言うと持留を助けるついでだった。持留は遠慮がちに野々垣の後ろにいた。野々垣が続けて何かを言おうとした時に、教授が呼びかけた。
「はい、じゃあテキストも揃ったし講義始めましょう」
教室のお喋りが止む。急ぎ足で出る前、持留と目を合わせた。すると、彼は顔を寄せて、小声で言う。
「ほんとありがとね。火曜日、また」
頷いて見せて、教室を出た。火曜日、また。その一言で、たまたま会えたということがとんでもない幸運に感じた。
持留と一緒にいると様々な感情になって、新しい自分を見つけることができる。
校舎の外に出て、直射日光を浴びながら再び歩く。暑い。もちろん暑いがどことなく爽やかだった。当初の目的の図書館へ向かいながら、あと一ヶ月もしないうちに夏休みが来ると思い至る。去年の夏休みは構造力学の問題集を独学で解こうとしたり、自動車学校に通ったり、所属している柔道部の合宿に参加したり、後はひたすら惰眠を貪ったりと決してつまらなくはなかったが、楽しい思い出もそう多くなかった。
今年は遊びに誘いたい友だちがいる。空の青さが爽やかなのは、きっとそのおかげだった。
◆
その次の火曜日のこと、いつも通り共に食堂へ向かい、持留はとんかつに誤ってサラダの青じそドレッシングをかけて衣をひたひたにした。意外と美味しいと言いつつ、なかなか箸は進んでいない。斉賀はきつねうどんを頼んだ。
夏休みのことをいつ切り出そうかと、そわそわしながらタイミングを見計らった。山に行きたい、川に行きたい、海を見たい、ドライブしたいなど少し考えただけでも憧れていたことが溢れた。
一方、持留は心ここにあらずという様子で、何か言いたげなのに黙ったまま、びしゃびしゃのとんかつを少しずつ齧っていた。とんかつの三分の一ほどが減った頃だった。
「あのね」
食堂の喧騒に消されてしまいそうな小声で、彼が話題を切り出した。
「どうした、とんかつやっぱり美味しくないのか」
緊張した面持ちに、嫌な予感を覚えてわざとふざけて返事をする。ちょっとだけ笑ってくれたが、すぐに元の顔になる。
「食べれないことはないのでガンバリマス……。あの、この間、一緒にテキスト運んでくれたときにいた、野々垣さん覚えてるかな」
「ああ、うん。覚えてる」
「野々垣さんがね、永一郎にこないだのお礼したいから……、連絡先教えてって言ってたんだけど、どうかな。教えてもいい? 」
「いや、お礼なんて別にいい。そんな大層なことしてないだろ」
「大層な親切だと思うけど」
「たまたま裕が持ってたから声かけただけで、見知らぬ他人なら声もかけない。だから礼には及ばない」
「そっか、分かった」
持留の眉から懸念の色が消えて、表情がほどけた。またとんかつを一口だけ齧った。
斉賀は拍子抜けする。あんなに強張った面持ちをしていたのに、たったそれだけの話だったのか。
「本当に気にしないでくれって伝えてくれたらいい」
「そういう風に伝えてみるね」
ほんの少し荷物を運んだだけなのに、お礼しなければと考えることができるのだ、と斉賀は感心した。
「しかし、丁寧な人だな。尊敬する」
途端、持留はまじまじと斉賀を見つめた。なんとなく照れてしまう。
「なんだよ」
持留は慌てたように視線を逸らして、答えた。
「や、えと、永一郎って素直でいい人だと思って」
「……素直ってなんだ」
「きっと、野々垣さんは」
言葉の途中で口を閉じて、持留は幽霊でも見つけたような顔になった。沈黙が長い。急な表情の変化が心配で、よもやとんかつが不味くて気持ち悪くなったのではと思うくらいだった。
「野々垣さんは、何だよ」
「……永一郎と仲良くなりたいんじゃない」
どういう意味だろうと考えたが、自分もつい先日同じようなことをした。持留が鍵を落として困っているのにある種つけ込んで、連絡先を交換した。だから、言い訳をつけて交友を持とうとする気持ちは十分に理解できた。
そして、斉賀は女性に連絡先の交換を提案される経験が何度かあった。自信過剰かもしれないが、合点がいく。
「野々垣さんは俺のこと好きなのか」
「分かんないけど、一般的にはそうなのかなと思う。ていうか興味がある、くらいかもだけど。知らない」
「こういう時ってどうするのが正解なんだ」
「僕も分かんないよ」
二人して黙り込む。持留の箸は完全に止まってしまった。茶碗を持つはずの左手は、もはや膝の上に置かれている。
斉賀は着々ときつねうどんを食べ進めつつ色々と考えを巡らせたが、結局彼女と仲良くなりたいという感情は自分のなかに現れなかった。
この人と仲良くなりたい、もっと話したいという気持ちは持留と出会って知ることができたから、もう迷わなくてよかった。
「うん。やっぱ、別に礼には及ばんし気にするなって言っておいてくれ」
持留は頷き、ようやっと箸を動かし食事を再開した。うどんは既に汁を残すのみ。
「とんかつ、二切れくらい食べようか」
ちらりと、こちらを見上げた目が細まった。その睫毛の先がくるんと外を向いていて、鳥の尾羽を連想させた。
「いいの? 助かる」
食べやすいように皿を斉賀の方へ寄せてくれた。衣から滴るドレッシングを零さないように、顔を寄せて食べた。液体を吸って膨れた衣は噛むたびに青じそ味をさせていた。
「思ったよりは、不味くないな」
「でしょ」
持留がちょっと得意げに笑う。斉賀は再度皿に箸を伸ばし、あと二切れ残っている片方を食べた。持留は最後の一切れをじっと眺めながら、少し残った白米だけを食べていた。もうこりごりな様子だった。その様が面白くて、思わず笑ってしまう。見守りながら、聞いた。
「なあ、夏休み、一緒にどっか遊びにいかないか」
とんかつからこちらに視線を移す。ちゅん、とした尾根をしばたたかせる。
「え、行きたい」
快い返事が返ってきたことが嬉しい。
斉賀は夏休みの展望を語る。海沿いをドライブして、隣県くらいまで行きたい、と。持留もキラキラした目で話す。
「こっち来てからドライブしたことないかも。いつぶりだろ」
こっち来てから、は大学進学をきっかけに福岡に来てから、という意味だと斉賀には分かる。
持留の出身地は鹿児島県だ。それを知ったのはついこの間のことだった。
『鹿児島って
『何それ知らない』
その時、そんな会話をした。土木学会の賞を取っている橋梁で、課題のための調べ物をしていた時にたまたま出てきたのだ。持留はスマートフォンでその橋を調べて、住んでいるところにまあ近いが聞いたことないと首をひねっていた。
『あと
『橋好きなの? 僕、出身地言って桜島以外のでかいもの出されるの初めてだ』
そう言っておかしそうに笑っていた。
「なんか他にしたいこととか行きたいとこあったら言ってくれ。車出すし」
「分かった! ……そういえば、来週からテスト始まるし、次の火曜はお昼休憩ゆっくりご飯食べる暇ないよね」
問われて、来週の予定を思い浮かべると、確かに相当忙しい。来週火曜は試験が3つ入っている。というか既に今の時点で課題に追われ気味である。斉賀は頷いた。
「そうだな、残念だけど。なんかあったら連絡くれよ」
「うん、とりあえず海は絶対行きたいね」
野々垣と彼が笑い合っていたときに寂しさを感じていた自分が救われた気がした。
昼休憩の終わりが近づいて、まだ残っていたとんかつの最後の切れっ端を斉賀は食べてやった。謝って、その後感謝する彼の眼尻に親しみが見えた。
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