第2話 うさぎとか猫とか
二百人は優に収容できるであろう講義室は、ほぼ全ての座席が学生で埋まっていた。横に三列、縦にたくさん、三人がけの長机が並ぶ中、斉賀は教壇向かって左側の席に掛けた。隣接する座席には友人である前田という男が座っている。彼含め同じ学科の学生で席を固めて講義を受けているのだ。山口もいる。皆と今日初めて顔を合わせたが、特段話すこともなく、一言挨拶、そして課題が終わらないという話をしたあとは、お互いそれぞれの作業をしていた。
講義が始まる五分前の教室、教授もまだ来ていない休み時間の只中、室内は学生各自のお喋りで賑わっていた。
この大学では自分の学部の専門科目以外に、決められた単位数の教養科目を受講しなければ進級できない。今から受けるのは、教養科目の中から選んだ「心理学入門」と題する講義だ。斉賀がこの講義を選択したのは、所謂、楽単と呼ばれる講義で、労力を割かずとも単位を取得できると聞いていたからであった。ただ、考えることは皆同じ。学部を問わず、ある意味人気の講義となっており、人混みが苦手な斉賀にとっては想定外に辛い授業となった。
受講人数が多く、皆が席に詰めて座らなければ立ち見が出てしまうため、三人がけの席に三人で座ることになる。体が大きい斉賀は、横に座る者と肩が触れてしまい、身動きし辛い。
定刻になり、年配の教授が入ってくる。「心理学のおじいちゃん先生」と呼ばれていて、他にも心理学を教える教授はいるのだが、おじいちゃん先生と言われると皆、この人を思い浮かべる。
「講義始めるよー。みんなちゃんと入口のぴっ、のやつしとかないけんよ。もし学生証忘れた人いたら、先生に言いに来て」
マイクを通した教授の嗄れ声が聞こえる。出欠を取るために学生証をかざして使うカードリーダーのことを入口のぴっ、と呼び、登録忘れがないよう、注意喚起してくるのは毎授業でのことだった。カードリーダーはカードをかざすと、小さな電子音をあげるのだ。
斉賀は教授の話を聞きながら、心理学のテキストを自分のペースで読み進める。今まで触れたことのない知識は興味深い。
文章内の「内向型」と「外向型」という言葉が心に留まった。ざっくり意味を汲み取ると、内向型は他者との関係をあまり重視しない。反対に外向型は対人関係を重視する性格分類。
自分はまるっきり内向型だな、と斉賀は思う。自分から友人を作ることはせず、いつもその時その時で話しかけてくれる人と一緒にいる。小中高と一人きりになることもあったが、困ることはなかった。
ただ、交友を持つ機会が少なかったために、自分には人とズレているところがあるのではないかと、近頃少し不安を感じている。人の気持ちや好意を察せる程度の能力もない自分は、今後不測の事態に陥るのではないか、と。
ふと、持留の横顔が浮かんだ。先週の金曜日のことを思い出す。持留とは、初めましてにも関わらず楽しく話せたような気がする。会話が弾んだ、とまでは到底言えないが、幸福な余韻が今でもあった。また話せたらいいと考えるし、実際大学内で彼を探してしまう。しかし、見つけることはできていなかった。
斉賀は視力が悪い。正確に言うと、高校生から大学生にかけて段々と遠くがぼやけるようになった。日常生活では困らないと思い、眼鏡もコンタクトも作っていなかったが、人を探すのが難しい程度には影響があった。ついでに、遠くを見ようと目を細めるせいで、目つきも悪くなっていた。
腕時計を見ると、既に講義開始から一時間弱が経過していた。おじいちゃん先生がたまに冗談を交えながら進める授業は、なんとなくで聞き流してしまっている。横に座る前田は、水理学のテキストを机に広げた上、顔をうつむかせて眠っている。さすが楽単と呼ばれるだけはある、前の席を見てみてもメモを取りながら話を聞いているのはごく一部で、各々自由に過ごしている。斉賀も欠伸を噛み殺した。
解説が一段落つき、それでは、と教授が仕切り直す。
「今からレポートを返します。初回で学部ごとに班分けしたの覚えてるかな? 班長さんが前まで受け取りにきてね。一応、名前改めて呼ぶからね」
四月に提出したレポートの返却をするようだ。これだけの人数分、目を通して保管して返却する、大変だろうなと思う。返却までしてくれる教授はあまり見たことがなかった。
名前を呼ばれるたび、教室のあちこちで人が立ち上がり教壇へ向かう。リズムよく呼ばれ、教室前方に列ができた。斉賀が属している班のリーダーは前田である。未だ眠っている彼を肘で小突く。
「おい、呼ばれるぞ」
深く眠っていたのか、声をかけると息を呑んで目を瞬かせた。
「前田さん」
ちょうどそのタイミングで名前が呼ばれる。慌てて立ち上がる友人のため、座席から腰を上げて、通路に出られるようにしてやる。そんなに急がなくてもいいと思いつつ声をかける間もなく、前田は急ぎ足で歩いていった。見送りつつ、腰掛けようとした時、
「えー、最後、もちどめ、さん」
教授が呼んだ声に耳が鋭く反応した。彼だ、違いない、と立ち上がったであろうその姿を見つけるため、教室を見回す。
いた。オーバーサイズの黒のTシャツを着ていて、あの日と変わらない髪型。視力の悪さでぼやけてはいたが、ちゃんと分かった。会ったのは今日を含めても、たった五日前のことだから、変わらないのは至極当然なのだけれど、何故か嬉しい。彼が本当に同じ大学にいてくれて、見つけることができた。それだけで嬉しかった。
教壇を先頭にできた行列の一番うしろに持留がつく。所在なさげに、先頭を見つめていた。
斉賀は辺りを見渡す。教授が話している間は、一応静かにしていた学生連中も、前に行列ができたと同時に、喋っていい雰囲気をなんとなく嗅ぎ取ったのか、そこかしこでお喋りが始まっていた。
今なら立って歩いてもバレないのでは。
そう考え、席から立ち上がる。教授がレポートの束を学生に渡しているのを見つつ、行列に近づいた。持留のすぐ後ろまで行き、声をかけようとした――。
その時、男の怒鳴り声が講義室に響き渡った。
「おい、勝手に立ち歩くな」
ざわついていた空気が一瞬で静まる。おじいちゃん先生が怒っているらしかった。え、誰に対して、と一瞬考えるが、もちろん教授はこちらをまっすぐ睨んでいる。
なになに、という感じで持留が教授の視線を追って斉賀の方を振り向いた。
「え、あれ? 永一郎」
驚いたように持留が言った。斉賀と教授を交互に見やって、戸惑っている。
「すみません。ちょっと久しぶりに会う友だちがいて、その」
言い訳はぼそぼそした声になって、おそらく教授まで届いていない。人前で怒られていることが恥ずかしく、頭が真っ白になる。講義が終わってから声をかければよかったではないか、浮足立った自分の行動に後悔した。
「集団での授業なのだから勝手な行動は慎むように」
ため息をついたあと、教授は柔和な表情を浮かべて、斉賀から視線を逸らした。何事もなかったかのように、レポートの受け渡しを再開する。ただ、教室は静まったままだ。
「永一郎、あとで」
持留が小声で呼びかけ、固まったままの斉賀に戻るよう促した。頷き、大人しく席に戻る。工学部の連中がニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「斉賀、だっさ」
「うるせー」
自分にため息をついてしまう。恥ずかしさのあまり、先程の一連の流れが頭の中をぐるぐる回ったが、彼が名前を覚えていてくれた、と思い至り自分の失態が少しだけマシになった気がした。
持留の方を見ると、彼もこちらを見ている。遠くて表情までは見えないが、きっと心配そうな顔をしているなと想像した。
◆
「ごめん、めちゃくちゃ面白かった」
持留と共に学食に来ていた。カウンターで好きなメニューの皿を取るか注文するかして、会計に持っていくセルフシステムで、二人並んでメニューを選んでいるところだった。
心理学の講義が終わり、合流してから、持留は笑い通しだった。一緒に昼食を食べようと斉賀が誘ったときも、学食に来るまでも。
斉賀は仏頂面でほうれん草の巣ごもり卵をカウンターから取り、自分のトレーへ乗せた。
「だって、あの優しいおじいちゃん先生がめちゃくちゃ怒ってると思ったら、知ってる人が怒られてるんだもん。面白すぎる」
「そんな笑うなよ」
こらえるように手の甲で口を押さえて、それでも肩が揺れている、笑顔の持留と目が合う。笑ったまんまチーズケーキを取っていた。
カウンターを進んでいくと突き当りにレジがある。到着するまでに主菜を選ばなければいけない。
「何食べる」
聞くと、ようやく笑いをこらえた彼は、塩ラーメンと即答した。そして、カウンターの向こうにいる給仕の女性にもその注文を伝える。斉賀はカツ丼を頼んだ。奥の厨房で白米をよそったり、麺を湯切りしたり、用意してくれている様子が見えた。
「お腹空いたね」
持留がにこにこしながら言った。この間より機嫌がいいようだった。まあ腹を抱えて笑うようなことがあれば、それも当然かと斉賀は複雑な気持ちになる。
「あれ、ごめん、ちょっと笑いすぎたかな」
斉賀の様子でそう判断したのか、持留は首を傾げる。心配げな表情。
「いや、別に」
あっという間に完成したカツ丼と少し遅れた塩ラーメンがそれぞれのトレーに乗った。そのまま会計に進む。斉賀はプリペイドカードで支払い、持留は三つ折りの財布から小銭を出した。五百円玉、百円玉、十円玉、とコイントレーに並べていく指先を見つめた。
支払いを終えるのを待ち、トレーを抱えてテーブルへ向かう。途中でセルフサービスの茶を汲んだ。学食はいつも通り混んでおりほぼ満席で、空いている席を探すのも一苦労だった。
「あそこ行こう」
斉賀はぽつんと空いた一角を顎でしゃくる。足早にそこへ向かった。カウンター席にトレーを置き、横並びに二人で座る。
「じゃ、食べようか」
「ああ」
合掌して、いただきますと共に呟く。この大学に入学してから、もう何回食べたか忘れてしまった程の慣れ親しんだ味。食べ進めると、思考の内の、空腹が占める割合が減っていき、一息つく。麺に息を吹きかけて冷ましている持留を横目で見る。先日も見た横顔がそこにあり、この間と同じ並びだと気づく。
「こないだ、あの後どうだった」
麺をすする前に、聞かれた。咄嗟に反応できず
言葉の意味をゆっくりと噛み砕いた。
「別に、何も」
特に言うことが思いつかなかった。盛り上がる空気に斉賀だけ入りきれないまま、場はお開きになった。皆、最寄り駅の方へ向かったが、斉賀はその反対方向に家があったので、店の前で別れた。一人になれることにほっとした。また呑みましょう、なんて社交辞令を言われたが、きっともう二度と誘われないだろうと感じた。
「普通に帰ったよ」
「そっか」
持留がれんげでスープを啜る。斉賀は質問を返す。
「なんであそこでバイトしてるんだ。遠いだろ」
「えー、そっちこそ。なんであそこで飲むことになったの」
「あの店、結構好きなんだ。あと俺の家があそこから近くて」
「そうなんだ、学校から遠くない? 実家暮らし? 」
「いや、一人暮らし。亡くなったばあちゃんが昔住んでた家があって、そこに住んでる」
「そうなんだ。おばあちゃんが遺してくれたのって一軒家? 」
「そうだな」
「え、すご。もしかして庭もあるの」
「そんな大きいわけじゃないけど、ある」
「すご! いいなあ」
大きく開かれた瞳に蛍光灯の灯りが入り、煌めいた。手放しに憧れられると照れくさい。
持留の名を呼ぼうとして、どう呼ぶか悩んだ。彼も自分を永一郎と呼ぶのだから、と斉賀は呼びたい方を選ぶ。しかし、少し躊躇う。
「……裕……も、もしかして家あっちの方? 」
「ううん、違うよ。大学の近くのアパートで一人暮らし」
「じゃあなんであんな遠いところでバイトしてるんだ」
答えを待っていたら、持留は言い淀んで微笑み、その視線がふいと左にズレる。意味深な表情に惹き込まれた。顔を覗き込んで、話の続きを促した。そんな斉賀の様子に、慌てたように持留が
「や、なんか、ごめん。別、大した理由じゃなくて、ただ知り合いに会いたくないだけ」
笑みを浮かべたままの表情が心なしか翳った気がした。
「分かる。その気持ち。俺もできるだけ外で知り合いに会いたくないと思う」
「ほんと? 自分のこと暗いなって思ってたけど、そうでもないかな」
「……まあ俺は暗い、けど裕は暗くない」
「なんで分かるんだ」
「だってよく笑うし」
「そっか。そう見えてるなら嬉しい」
持留は目を伏せて、口元だけで微笑った。なんだか、彼の台詞も表情もすごく意味深に見えて、気になって仕方がない。明るくて朗らかな人、という印象なのにどこかに翳りがあってそれが何なのか好奇心を持った。
「ていうか、悪いな。俺があの店でなら参加するって山口に言った」
「お店で働いてるの、見られるのが恥ずかしいってだけだし、気にしないで。というか、斉賀の案でみんなあの店来てくれるのすごいねえ」
「いや、山口が無理やり全員丸め込んだんだろうが……」
ラーメンを食べ終えた持留は、湯呑みの茶に口をつけた。小さなフォークを手にとって、ちまちまとチーズケーキの周りのフィルムを剥がしている。ラーメンとチーズケーキ、合わなそうな食べ合わせだと今更ながら感じて、煙草のことを思い出した。
煙草と持留も、同じくらい合わないのだ。そのことを話そうとして、口をつぐむ。自分は、煙草はやめた方がいい、とまた言ってしまう。わざわざ掘り返して余計なお節介をするのは控えたほうがいいと判断した。ほうれん草の巣ごもり卵に箸をつけて、黄身を崩す。二口、三口と小さな小皿の中身をあっという間に食べ終えた。
「永一郎はこの後も授業あるの? 」
「ああ、後2コマある。裕は」
「さっきの授業で終わり」
持留は自由を感じさせる笑顔を浮かべる。ピースサイン付き。素直に羨ましかった。
「マジか、いいな」
「へへ、ていっても夕方からバイトあるんだけどね」
シフト何時からだったっけと呟き、持留がトートバッグを覗き込んだ。バッグの中を探り、一度ぴたりと動作が止まった。戸惑ったような顔を浮かべる。しかし、それも一瞬で彼は何事もなかったかのようにスマートフォンを取り出した。
ただ、そのわりに表情が暗く、動揺しているのが見て取れる。人の感情の機微を察することができたのは、生まれて初めてのような気がした。持留は特別分かりやすい人間なのかもしれないし、それとも斉賀が彼をよく見ているのか――、いずれにせよ、心配になって声をかける。
「なんかあったか」
持留は目をそらしたまま、首を横に振った。
「……いや。何もないよ」
「困った顔してる」
彼が俯いて黙ったので、食堂が騒がしかったことを思い出した。
沈黙が続いて、持留が重い口を開く。
「家の鍵なくしちゃったかも、と思って。それだけだよ、だから気にしないでね。元気なくなってごめん」
笑って見せるが、不安を隠せていない。
「とりあえず、鞄の中身出して見てみるか」
斉賀は自分のトレーを端に避けて、机の上にスペースを作った。持留は素直に頷き、トートバッグの中に入っていたテキストやら財布やらを机上に並べていった。筆箱の中身まで全て出したが、鍵はやはりないようだった。
「いつも、鞄のここのポケットに鍵と学生証入れてて……さっきの講義で、ぴっのやつで学生証使った時落としちゃったかも」
「ぴっのやつ……」
入口のカードリーダーのことだ。音の響きが、落ち込んでいる表情にそぐわなかった。
「それならさっきの教室にあるかもしれない。心理学の前は授業あったのか」
「うん、一コマ目あった。でも学生証は出してない。口頭で出欠取ったから」
「じゃあ、とりあえず。教室見に行ってみるか」
斉賀はさっさと目の前のカツ丼の残りを片付けてしまおうと箸を持ち直した。
「いや、そんなの申し訳ないし。一人で見に行くよ。永一郎は次の授業あるし」
咀嚼しながら、持留のことを横目で見る。しょぼくれていて、弱々しい。口の中のものを飲み込んでから言った。
「心配で授業が手につかない。だから俺にできることはしたい」
自己満足なのだ。斉賀が共に探そうが、探さなかろうが、見つかる確率が上がるわけではない。分かっている。ただ、落ち込んでいる持留を、出来ることもせず置いてけぼりにするというのが我慢ならなかった。後悔する、と既に分かっていた。
「でも」
「次のコマまで20分くらいあるから、その間だけ一緒についてく」
先程の教室もそう遠くない。一緒に行って教室を見回るくらいの時間は取れる。斉賀の強情な様子に観念して、持留はフォークを持った。
「分かった、ありがとう。ごめんね」
残っていたチーズケーキを食べ終えて、その後、共にトレーを食堂の返却口へ持っていく。
目的の教室へ向かう道中、鍵の特徴を聞いた。普通の銀色の鍵で、白いうさぎのキャラクターのキーホルダーがついている。斉賀も知っている、口がばってんのうさぎ。
「永一郎って親切だね」
藪から棒に言われ、斉賀は自分が親切な人間かどうか、心のうちに問いかけた。否。
「いや、そういうわけでもない」
「どう見ても親切だよ。ほとんど初対面の男のために時間割いてくれるなんて」
「人を助けたこと、今までない」
そう言うと持留はぽかんとした。半開きになった口が言葉を零す。
「嘘だ」
「いや本当」
「こないだ、僕がおしぼり落とした時助けてくれたじゃん」
「あ。あー、まあ言われてみれば……」
失念していた。たしかにあれも人助けといえばそうかもしれない。そう大げさなものではないが。
「永一郎は人に親切にしても当たり前だから忘れるんだ。めっちゃいい奴だ」
持留は一人で納得するように頷いた。自覚がない内面を褒められるというのは面映ゆいものだった。けれど嬉しくて、面倒ごとの最中にいる持留には申し訳ないのだけれど、斉賀の胸は少し弾んだ。
講義室に到着し、手分けして端から見て回る。
「お願いだから見つかって」
なんて、持留の祈りも虚しく、白いうさぎは一向に姿を見せなかった。机の間も順々に見て回り、最後、入口のカードリーダーのところで合流して、がらんどうの講義室の中、二人ぼっちで立ち尽くした。
「ごめんね、せっかく一緒に来てくれたのに」
見つからなかったことよりも、こちらに気を遣って落ち込んでいる持留を見ると、斉賀も申し訳ない気持ちになった。
「いや、俺は一緒に来たかっただけだから。それより、鍵がなかったら家入れないだろ。宿はどうにかなるか?」
「えっと、とりあえず支援課で落し物ないか確認して。で、無かったらマンションの管理会社に連絡して開けてもらえないか聞いてみる。即日対応かは分かんないけど」
「当てが外れたらどうする。実家近いのか」
「実家は遠くて、ちょっと難しい。ホテルか野宿、かな」
今の時期は暖かいから、と冗談めかして持留は言う。斉賀はスマートフォンをポケットから取り出した。
「悪い、次の教室に行かないといけないからこの後は付き合えない。ただ、夜寝る場所は提供できる」
「え、えと、一軒家だから? 」
「部屋は余ってるし、布団もある。鍵見つからなければ、連絡してこい」
「そんな、悪い」
「いいから、早く、連絡先」
気恥ずかしくてぶっきらぼうな言い方になる。心配しているのは本当だが、もっと持留と仲良くなりたいという、ある種の下心もあった。そんな小恥ずかしい気持ちを知られてしまわないよう、努めて真顔を作った。
彼の差し出すQRコードを読み込むと、画面上に「裕」というアカウントが現れた。両手を広げたペンギンのアイコンがこちらを見ていた。画面越しに持留を見ると、彼は彼で両手で包んだスマートフォンの画面をじっと見ていた。
「アイコン、初期設定なんだ」
「そうだな、変えてない」
「て、ごめん。こんな話してる時間ないね。また連絡するね」
頷いて、一緒に建物の入口を目指す。扉をくぐって、手を振りあって、彼は東へ、斉賀は西へ向かう。
鍵が見つかるまでずっと不安だろうな、と気がかりを抱えながらも、嬉しくて顔を綻ばせてしまいそうだった。友だちになりたかった彼と連絡先を交換できたのだ。
喜びを堪えながら、工学部の専用の学舎に入り、目的の教室へたどり着いた。講義が始まる三分前、同じ学科のほぼ全員が既に揃っていた。適当に空いている席を見つけて、腰掛けた。
やがて教授が登壇し、予習してきただろうが、という前置きをつけてナヴィエ・ストークス方程式についての説明が始まる。たしかに指示されたテキストの範囲に目を通してはきたが、聞き漏らすとついていけなくなってしまいそうで、今だけは心配も嬉しさも横において、集中するように努めた。
講義を受け終えて、すぐにスマートフォンを確認すると持留から連絡が入っている。曰く、鍵は支援課に届いていて、無事受け取れたと。やはりあの教室に落ちていたようで、おじいちゃん先生が届けてくれたらしい。
素直によかった、と安堵した。そのままの気持ちを返信に載せる。これでバイトにも問題なく行けるだろう。
そして、ふと寂しさを覚えた。学部も違って、なかなか会えない彼。また一緒に昼食を取りたい。誘えばいいのだろうが、自ら動いて交友の場を作ったことがない斉賀は人との関係構築に疎い。
永一郎のおかげだよ、ありがとうね!
そんな返事と共に頭を下げる猫のスタンプが送られてきて、その後さんざ迷った末、斉賀は返事をしなかった。
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