きれいな友だちは

安座ぺん

第1話 喉仏と煙草

 可愛く綺麗で女性的、けれど好きにはなれないようだった。

 五月、夏前のまだ涼しい風が居酒屋の喧騒の中を通っていく。開け放った入り口のドアからは風がふくたび、押された赤ちょうちんが見え隠れしていた。斉賀さいがの座る席からはその様子が目の端に入り、見るでもなく見てしまう。

 日頃あまり栄えているように見えないこの店も、華金の今日は気候が良い季節なのも手伝って普段よりも賑わっていた。

 前の席に座る女の子が質問してくるのを遮るように、斉賀はジョッキに口をつけ、中身を飲み干した。この店のビールは好きだったが、いつもと味が違う。気のせいか、この不本意な状況のせいか、首を傾げた。近くを通った店員に声をかけ、空いたジョッキを差し出す。生ビールひとつ、と伝える。

「おい、斉賀。おかわりするなら他の子の分も頼めよ」

 大学で同じ学科の同級生、山口の咎める声が飛んできた。卓上のグラスを見やると、確かに空になっている者がいる。しかし、頼みたければ自ずと注文を店員に伝えるはずだ。そう考え、斉賀は何も言わない。一瞬、お互いの出方を探り合うような間が空いたが、一人が生ビールを頼んだのを皮切りにぽつぽつと注文が出揃う。

 盛り上がりに欠ける食事会は、まだ始まったばかりだった。注文を受けた店員が去り、止まっていた会話が再開する。

「斉賀先輩、ペース早い。お酒強いんですね」

 斜め前に座る女が言う。彼女自身は華奢なグラスに入ったジンジャーエールを手元に置いている。

「いや、別に」

 つれない返答に、女は二の句が継げず一瞬会話が止まってしまう。横に座っている男は強張った女の表情を見て、慌てて言葉を継いだ。

「まじ、そうなんだよ。斉賀はほんとに酒強くてさ、三年の先輩との飲み比べでもまわりがぶっ倒れる中一人でずーっと飲み続けてて」

 会話が続いたことに安堵の笑みを浮かべ、女は男との会話を続ける。斉賀は斉賀で、横の二人が仲よさげなのを見てホッとしていた。

 この食事会に参加しているのは、斉賀含む男四名、女四名。いわゆる合コンだった。参加者全員、福岡県に立地するとある大学に通っている。

 斉賀が参加することになった経緯は一週間前に遡る。



 合コンに参加しないかと山口に声をかけられた。その日最後の講義が終わり、荷物をまとめている時だった。

「お前のこと気になってるかなり可愛い一年生の女の子がいてさ、一回一緒に飯食いたいって言ってるらしい」

 断られるとは全く思っていないらしい山口は斉賀に予定の確認をするよう促す。

「は? いや、行かねえ」

「あ? なんで」

「面倒くさい」

 それなら仕方ない、と話が終わるだろうと荷物をまとめたリュックを持ちあげた。しかし、帰ろうとするのを山口が制する。

「いや、絶対行った方がいい。もったいないって。何、お前彼女いたっけ」

「いない、行かない」

「まじでかわいい子くるよ、来る子全員かわいい。写真見るか」

「見ない。相手が誰だろうと合コンなんて無理」

 参加したところで、楽しめないし相手を楽しませることもできない。賑やかな男女のなかで地蔵になっている自分が容易に想像でき、胸が嫌な感じに軋んだ。

 頑として参加を拒み続けると、山口は諦めて、普段つるんでいる友人たちのところへ戻っていった。

 それでその話は終わり、と思ったらその三日後また捕まった。

「マジで頼むから合コンに来てくれ」

 土足で歩いている教室の床に、土下座しそうな勢いで山口は頭を下げた。呆気にとられ、事情を尋ねる。

 聞くと、山口には落としたい一年生の女子がおり、その子を合コンに呼んでもらう交換条件として斉賀の参加が必要、ということだった。斉賀に声をかけたが不参加、と伝えたところそれならこちらも紹介はなしでという話になったらしい。合コンに来てほしいと思われているということは、つまりそういうことだろう。同世代と比べて色恋沙汰に疎い斉賀にも察することができた。知らない誰かに興味を持たれている、ということに困惑した。

「いや、なんだそのしょうもない事情」

 蔑むような一言にも山口はめげず、再度頭を下げる。

「ほんとにお願い、どうしてもその子と付き合いたいんだよ俺」

「合コンじゃなくても話す機会あるだろ」

「その子は経済学部だから接点ないんだって。あと俺は合コンで一番輝く男だから」

 斉賀と山口は同じ工学部所属の二年生だった。学年も学部も異なる学生とは、一般的に講義なりが被ることはあまりないが、それでも首を縦に振るには至らない。

「俺の恋を応援してくれ」

「知るか」

 その日一日中、山口はしつこくついてまわり、どうにか頷かせようと、様々な条件を提示してきた。

 会の間は何も喋らず座っておくだけでいい。好きな店を選んでいい。斉賀の分の代金は奢る。

 なんと言われようと黙殺し続けていたが、山口は帰り道までついてきた。斉賀は自家用車で通学しているため、帰路は大学の敷地内にある駐車場へまず向かう。山口が普段利用している出入口と真反対に位置する駐車場だ。車の前についた時にも、頼む頼むと繰り返す様子に観念した。家までついてくると確信したのだ。

「分かった、参加してやるよ。ただお前の全奢りで」

 斉賀は、自分が一人暮らしをしている家の近くの店を会場に指定した。この大学の近辺に住んでいる者からすればかなり交通の便が悪いが、意地悪ではなく山口がそれならば、と手のひらを返すのを狙った。しかし、その目論見は当然外れて、山口は疲れ切った顔で頷いた。

 厄災が去った後、車に乗り込み、斉賀は深くため息をついた。



 その時の疲労感はなかなか忘れられない。思い出して、斉賀はまたため息をついた。前に座る女の子が、こちらを見つめているのが分かる。会が始まり、自己紹介をしてから彼女は果敢に斉賀に話しかけ続けていた。それでも、素っ気ない態度に怯んでいるようで、今はこちらの様子を伺っている。

 山口は意中の子と楽しそうに話している。たしかに彼の言う通り、斉賀に気があるという女の子もその他の女の子も全員可愛らしかった。ただ、嫌がらせのような目にあって参加させられているということも関係しているのか、この場の誰にも関心を持てなかった。

 俺は空気の読めていない嫌な奴なんだろうな。心のなかで独り言ち、席を立った。

「悪い、お手洗い行ってくる」

 誰ともなしに声をかけると、皆返事をしてくれる。そういう優しい態度にすら、気分が落ち込んで仕方がなかった。

 建物の奥にあるお手洗いを目指して歩く。入り組んでいるが、この店には何度か来たことがあり、場所はすでに知っている。厨房の出入口と向かい合う形でお手洗いがある。空いていた個室に入り、用を済ませる。すぐに出ればよいのに、席に戻りたくなくて洗面台の鏡の前で立ち止まった。

 嫌な気持ちを押し込めて明るく振る舞うか、このままいじけたような態度をとるか。逡巡したが、答えは出ず、気持ちよりも先に体がもう仕方ないから、と動いて扉を開けて外に出る。

 ちょうど、通路の先にある厨房からも、目隠しの暖簾をくぐって男性店員が出てきた。

 と、途端に彼は腕に抱えていた山盛りの紙おしぼりを落としそうになる。反射的に駆け寄り、手を伸ばした。店員の体を押さえる形でおしぼりを手ではさみ、いくつかは掴むことができたが、床にも散らばる。店員は斉賀の手に押された勢いでよろけて壁に背中を預けた。

「大丈夫ですか」

 手近な台に、留めることができたおしぼりを置きながら、店員の顔を見やる。すると、困った顔でこくりと頷いた。鼻筋の通った端正な顔立ちをしていた。

「すみません、ありがとうございます」

 店員はしゃがんでおしぼりを拾い出す。黙ってそれを手伝う。

「あ、ありがとうございます。大丈夫ですよ。お席に戻られてください」

 おそらく同い年くらいの店員は、申し訳ないと書いてあるような表情でこちらを見上げた。いや、と一言断り、拾ったものをまとめて台の上に積み上げた。残りを拾っている店員を見下ろすと、まっすぐな髪質に目がいった。斉賀は少しくせ毛で、羨ましいなと心の片隅で思う。

 床がすっかり片付き、店員が立ち上がった。

「色々すみません。助かりました」

「いえ、別に」

 男は何度も頭を下げた。その度、髪の毛がさらさら揺れていた。

 彼を手伝ううちに幾分気が紛れて、戻るのも先程に比べると億劫ではなかった。席に着くと随分話が盛り上がっていた。会話に合流する気はなく、届いていたビールに口をつけた。

「斉賀先輩、今、好きなタイプの話してたんですよ」

 前に座る女が話しかけると、横に座る男が加勢する。

「お前、好きなタイプとかあるわけ。こいつまじ硬派すぎるから」

 テーブルの視線が考え込む斉賀に集中していた。答える。

「表情が豊かな人」

「へえ、でもそれってかなり範囲広くね」

 他の男は、ご飯を美味しそうに食べる子、髪が長い子、みくちゃんみたいな子と答えたらしい。一番最後の回答は山口のもので、意中の子の名前を出したようだった。当の彼女は自分の名前を出されて、恥ずかしそうにしている。

 自分の返答と、山口以外の他の男の返答はさほど変わらない。ただ、場が盛り上がっているのに水を差すようなことはしたくなかった。反論はせず目の前の唐揚げをつつく。

 皆で料理を分け終えた頃、追加の皿が届く。通路側の斉賀が、皿を置くスペースを空けて店員を見やると、それは先程のおしぼりの彼だった。

「あれ、もちじゃん」

 山口が声を張り上げて、店員に話しかけた。彼は料理を机に置いて、ひらと手を振った。

「山口、なんでこんなとこで飲んでんの。大学から遠いのに」

「お前こそ。ていうかいつから働いてんの、知らなかった」

「三月から。まだ働き出したばっかだよ。えっと今日は……合コンかな? 邪魔しちゃ悪いね」

 店員は並ぶ八人の顔を見回し、持っていた盆で口元を隠すような格好をした。山口が皆に彼を紹介する。

「そうそう、合コン。こいつ、俺の友だちで同じ学年のもち。なあ、もち、なんかサービスしてくんね」

「下っ端だし無理だよ。もっと僕が偉くなった頃また来て」

「え、じゃあまた一年後とかにこのメンバーでくるわ」

 女性陣もその言葉に賛同する姿勢を見せた。冗談じゃない。山口の軽薄な口調に嫌気が差す。

 小さく頭を下げて、もち、と呼ばれた彼は去っていった。斉賀と目が合うと目元だけを綻ばすような小さな微笑みを浮かべて、もう一度頭を下げた。

 その後の会話で、彼は同じ大学の文学部所属。昨年、山口と共に一般教養の講義を受け、そこで二人は知り合ったらしいということが分かる。学籍番号で班が分けられて、斉賀は山口と違う教室で受けた講義だった。ひとつ気になり、横から口を挟んだ。

「もちって名前なのか」

「うんにゃ、持留もちどめって名字。で、あだ名」

 珍しい、と女の子の一人が声を上げた。そこから話題が稀な名字へと移った。斉賀という名字もあまり聞かない、と触れられる。適当に頷きながら、持留が運んできた胡麻サバに箸をつけた。油がのっていて美味しい。たくさん食べたかったが、それはせず皿を横に座る男へ回した。もう一皿頼むことにする。

 厨房の方を振り返ると、ちょうど出てきた店員と目が合い、すぐに寄ってきてくれた。持留では無かった。

 斉賀が胡麻サバを追加で頼むと、席に座る皆も口々に飲み物や食べ物を注文する。卓上の皿はあっという間に空になっていた。

 料理が来るのを待っている時、女の子たちのうち二人がお手洗いに立った。それを見送った後、山口も席を立とうとする。彼は四人がけの一番奥に座っていたから、残りの男三人も全員腰を上げた。

「斉賀、煙草行くぞ」

 そう声をかけられたが、斉賀に喫煙の習慣はない。文句を言われるのだろうと予想する。つきかけたため息を呑み込み、女性もいる場で言われるよりは、と山口について居酒屋の外に出た。出入口の横に座り込み、山口が電子タバコを取り出した。斉賀は座らないことにして、壁にもたれかかった。辺りにある店はすでに店じまいをしていて電気は消えていた。外灯も少し離れたところにしかない。この居酒屋の一角だけ、浮き上がるように明るかった。

「どうよ、あかりちゃん」

 あかりちゃん、斉賀の前に座っている子の名前だった。

「普通にいい子だと思う」

「はあ、そんならもっと楽しそうにしろよ」

「楽しくはない」

「なんでだよ、あんなに好き好きってオーラ出されたら嬉しいだろ」

 恋愛の話は嫌いだった。一定以上の年齢の者であれば軒並み分かっている感覚を自分は未だ分かっていないのだ、と突きつけられるから。

 黙ると山口は勝手に喋る。

「いい子って思うなら付き合ってみればいいのにな。ちょっとは幹事の顔立ててくれよ」

「好きじゃない人と付き合っても仕方ないだろ」

「いや、彼女いるってだけで楽しいのに……。そういや、一年の時も告白されて断ってたなーお前。まじで気持ちが分からん」

 一年生の秋頃、同級生の女子学生に告白されたことがあった。講義で知り合い、試験についての情報交換をしたり、昼食を何度か共に食べたり、といった仲だったのだが、突然付き合ってほしいと告げられた。

 申し出を断ったら、次の講義に彼女は来なかった。彼女が斉賀に告白をしたことを知っている共通の友人に、連絡を取るように促されたが、結局それはしなかった。

「二人、すごくいい雰囲気だったのに。付き合ってみたらいいじゃん」

 そう言われた。斉賀としては他の人と区別なく接していたつもりだったが、いい雰囲気に見えていたらしい。

 告白を断った時、彼女はすごく驚いていた。斉賀にはそれが不思議でたまらなかった。仲がよかったはずの人を傷つけてしまった。それ以来、なんとなく女性との交流に苦手意識を持つようになった。

「まーじで勿体ない。モテるのに」

 電子タバコを吸い終えた山口が立ち上がり、ため息をついた。

「一回、手出してみたらいんじゃね、付き合うまでいかなくてもさ」

「あーはいはい、さっさと戻れ」

「斉賀も戻るだろ」

「気分悪いから少ししてから戻る」

「帰るなよー」

 山口が店内に戻っていく。今日何度目かのため息をついた。しゃがみこんで苛立ちを堪える。

 高校生くらいから急に女性に好かれるようになった。それまで外見について良し悪しがあるということを考えたこともなかったが、人に見目の良さを褒められて、自分の評価を知った。褒められるのは嫌ではないが、女性からの好意を受け入れることはできなかった。

 色恋に興味がないわけではない。きっと運命の人は存在するに違いないと思っている。だからこそ、好意を受け入れられないことで、相手の感情を知らず知らずに踏みつけているような、ひどいことをしている気がした。高校生の頃から感じていた息苦しさのようなものが、年々加速していく。周りが進んでいく中、一人、理解されない警戒心を持って乗り遅れているような感覚。

 戻らなくてはいけないが、立ち上がるのが億劫で、そのまましばらく目の前にある、車も人も通らない狭い道路を眺めていた。

 ふいに後ろで砂利を踏みしめる音が聞こえる。反射的に振り返ると、暗がりに人がいた。出入口ではなく、店の横側から出てきたようだった。

「あ、さっきの」

 人影が外灯のもとに姿を晒す。それはエプロンを外した持留だった。斉賀のところへ寄ってきて、隣に腰をおろした。

「さっき、ありがとうね。助けてくれて」

「ああ、いや。帰るところか」

 山口と一緒に来ているのを見て同級生と踏んだようで、親しげに話しかけてくれる。

「うん、今上がり。えっと……あ、名前なんて言うの」

斉賀永一郎さいがえいいちろう

「へえ、いいな。名前、格好良くて羨ましい」

「そうか? 」

「うん。郎って字が羨ましい。おおざとの方? 」

「ああ、そっち。お前は持留って名字だけ、山口から聞いた。名前は? 」

「ゆう。一文字で裕」

「そっちの方がいいだろ、書く時楽だし」

「まあ、それはそうだけど。永一郎は煙草吸ってたとこ? 」

 斉賀は小さく視線を逸らす。名前で呼ばれたことがくすぐったかったのだ。下の名で話しかけられるのなどいつぶりか。親族を除けば、幾年ぶりといったところだろうか。

 動揺を隠すため、口はつぐんだまま何も握られていない手のひらを振ってみせた。その動作を見て、持留が煙草を取り出す。

「煙草切れた? 僕の分けようか」

「や、違う。煙草は吸わない」

「え、そうなのか」

 驚いたように二、三度瞬きをした後、取りだした煙草をすごすごと仕舞った。居酒屋の前でしゃがんでいる人間はたしかに喫煙者に見えるだろう。

「気にせず吸えよ」

「えっと」

 斉賀の顔と煙草を仕舞ったトートバッグを交互に見る持留の仕草を見て、口元が緩んだ。

「いいから。さっきまで山口の煙草に付き合ってたし」

 持留はつられたように小さく笑って頷き、煙草を一本つまみ出した。ライターの回転式やすりが微かな音を立てて、口に咥えた煙草に火が近づく。伏せられたまつげが頬に影を落としていた。煙を吸って、深く吐く。煙草の匂いは持留に似合わなかった。

「席、戻らなくていいの」

「居心地悪くて。もう少ししたら戻る」

「そっか」

「……いつから煙草吸ってるんだ」

 出し抜けに聞くと持留は小さく唸って、言い淀んだ。恥ずかしそうに答える。

「ん……五日前」

「直近だな。なんで吸い出したんだよ」

「五日前、二十歳の誕生日で……なんか新しいことしたくて」

 尻すぼみに声が小さくなっていく。耳の先が赤い。彼にとって赤面してしまうほどの恥ずかしい理由のようだった。

「こういう理由ダサいよね」

「いや、ダサいとは思わない。ただ、余計なお世話だろうけど、煙草はやめた方がいいんじゃないか」

「やっぱそうかなあ、なんか中毒にもなれなくてさ。吸い方が駄目かな」

 深く煙を吸い込んで、首をそらして夜の空へと吐き出した。喉元が露わになる。外灯に照らされた喉仏がやけに白く、照らされていない背景の闇との境界線が鮮やかで見入ってしまう。意識せず、斉賀は自分の喉仏に指を添えた。

 短くなった煙草を、携帯灰皿に仕舞う。五日前、煙草と揃えて購入したのだろう。持留の真面目な性格が伺えた。

 ちらりとこちらの表情を伺う。店内に戻るかどうか、問われているのが分かった。戻りたくなく、ここから離れがたく、何も言わず見つめ返した。

「みんな待ってるよ、きっと」

 口火を切ったのは持留だった。なんだか登園を渋っている幼稚園児を説得するような優しい言い方だった。斉賀は成人男性なので、説得を受け入れ、駄々は捏ねずに立ち上がった。持留も立つ。

「じゃあね」

「ああ、じゃあ。気をつけて」

 持留が手を振るのに、片手を上げて応えて店内に入った。山口からの遅い、という苦情を無視して席に着く。開け放たれた入口の扉を見やると、持留の姿は無かった。

 食事会が終わるまでの間、何故だか、灯りのない道路を歩く彼の姿が思い浮かんで消えなかった。

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