いやらしさに中たる
うたう
いやらしさに中たる
「んー」
赤信号で停車すると、彼はハンドルを握ったまま、唇をわたしのほうへ突きだした。
わたしはそれに応えるように彼を唇を迎え入れかけて、すんでのところで止めた。
「だめよ」
わたしは彼の顔を手で押しのけた。
「なんでだよ? いいじゃんか」と彼は唇を尖らせた。
「だめなの」
そう言って、わたしは彼に顔を背け、進行方向を見据えた。その拍子、向かいの歩道で信号待ちをしていた少女と目が合った。背負っているランドセルがまだまだ大きく見えて、あどけない。少女は気まずそうに、私から目を逸らしてうつむいた。
「ほら、青よ」
わたしが言うとふくれていた彼は渋々アクセルを踏み、車を進めた。
少女はわたしたちの乗っていた車が動き出したのを見て、初めて信号が変わっていたことに気付いたらしい。はっとしたように信号機に目をやると脱兎のごとく駆けていった。
わたしはくすりと笑って、ハンドルを捌いている彼の頬に軽く口づけをした。
「あとでね」と告げると、ふくれていた彼の頬が緩んだ。
車中でキスをする若い男女を見かけて、初めて「いやらしい」という言葉の本当の意味を知った。ちょうど、先ほどの少女と同じくらいの頃、小学三年生のときだ。
エロいとかスケベとか、そんな低俗な言葉ではなくて、フルーツとフルーツが寄り添い合っているような感じの、「いやらしい」という言葉が似合う甘美なキスだった。テレビドラマや映画の中には当たり前のようにキスが溢れていたけれど、そのどれもがかなわないほどにいやらしいキスだった。
信号待ちをしていたときのほんの一瞬、男が女のほうを向くと、女も男のほうを向いて、お互いが口を突きだした。合わさっていたのは一秒もなかったかもしれない。でもわたしにはもっと長く感じられて、男女が前を向き直っても、まだ口づけを交しているかのような錯覚に陥っていた。きっといやらしさに
信号が青に変わって、男女の乗った車がわたしの横を過ぎ去っても、わたしはぼーっとしたままで、いつの間にか信号は赤になっていた。次に信号機が青を灯したときにようやく、わたしは正気に返って、歩きだすことができた。それでもあのいやらしさは一週間、わたしの頭から離れず、わたしの体に付きまとい、わたしは何も手につかない日々を送った。
あの日のことを思い出して、わたしはまたいやらしさに中たった。
いやらしさに中たる うたう @kamatakamatari
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