第36話 怨讐の鬼哭谷

 鬼哭谷は千都から馬で半日の距離にある切り立った断崖に囲まれた渓谷だ。聳え立つ老鴆山ろうちんざんは春の訪れに淡い緑に染まりつつあった。涼やかな清流のせせらぎに鶯の声が調和する。

 孫景が手配した見張りが千都の北東の門を馬に乗って出発する三人組を確認した。榊と高谷、獅子堂は馬を駆り、後を追ってここへ辿り突いた。


「鬼哭谷はかつて迫害を受け住処を失った者たちが流れ着いた隠れ里だという」

 獅子堂は馬を降り、木に繋ぐ。榊も降り立ち、鳴き声を出さぬよう馬に銜を食わせる。ここから気配を消して近づき、奴らの動向を監視することになる。

 密生する木々の間を縫って沢へ降りて行く。鬱蒼と繁る草むらは熱と湿気を孕んで息が詰まりそうだ。

「犯罪者に病人、髪や目の色が違う者、邪術を操る一族も含まれていた」

 獅子堂の声は抑揚が無いが、微かな不快感が読み取れた。


「それって、もしかして」

 高谷は榊を見上げる。

「蠱術師だな」

 榊が頷く。

「そう呼ばれているのか。生き物の命と引き換えに邪悪な術を使い、時の権力者の首をもすげ替えたという」

 岩にぶつかる清流の音が近付いてきた。


 遼河建国と同時に蠱術師は邪術を禁じられ、薬師や医師に転向した。国家を上げて彼らを保護したが、祖先から代々受け継がれた術を失うことを拒絶した者たちもいた。かたくなに蠱術を使い、国家転覆の陰謀に加担する蠱術師たちは民からも白眼視され、忌み嫌われた。そして、迫害の末にこの地に追い込まれたという。


 視界が開けた。目の前に広がるのは山の斜面を覆う廃墟だ。黒く朽ちた家はかつて迫害された者たちが暮らしていたのだろう、茅葺きの屋根は雑草が育ち、一面苔むしている。家を支える柱は黒く腐れ落ち、今にも崩れ落ちそうだ。

「もう誰も住んでいないのか」

 高谷はここに生活があったことに驚く。

「見ろ、川の水を」

 榊が指差す先、涼を誘う川の水は濃い赤錆の色だ。高谷はその悍ましさに背中に鳥肌が立つのを感じた。


「鬼哭谷には由来がある。この地で邪術を続けていた蠱術師たちを一族郎党根絶やしにした。それは時の皇帝の密命だった。そのとき、流された血で川は赤く染まり、怨念のために今もそのままだという。以来、鬼の哭く声が夜半に谷を渡ると言い伝えがあり、鬼哭谷と呼ばれるようになった」

 老鴆山は銅が採掘されるため、銅が溶け出した色ともいわれる、と補足した。身の毛もよだつ逸話に、高谷の背中に嫌な汗が流れ落ちる。

「遼河の皇帝への恨みが渦巻く地、蠱術をかけるのに最適というわけか」

 榊の眼差しが不敵な光を帯びる。


 黒い外套を被った三人が沢に降り立つ。二人は長身の男、一人は細身でその仕草から女のようだ。三人は沢の先にある窪地へ向かう。

「奴らだな」

「ああ、皇帝を廃して国家転覆を企む連中だ。そのとばっちりで友が捕らわれている」

 榊は叢から抜けだし、窪地の傍に建つ廃屋の影に身を隠す。高谷と獅子堂も後に続く。


蠱獄殺こごくさつが解かれた形跡はない」

 臙脂色の外套の男が被りを取る。艶やかな黒髪を後ろに流し、病的なまでに白い肌、こけた頬に薄情な切れ長の瞳。その怪しい眼光はまさに邪眼といえよう。

「当然よ。我が一族に代々伝わる最凶の秘術であり、この地は皇族へのどす黒い怨念に満ちている。そして、じき月蝕が訪れる。蠱呪は最高潮となり、白鷺帝の命運は潰えるはず、だった」

 深い青色の外套を纏うのはやはり女だ。苛立ちに痙攣する右の目の周囲に青黒い痣があるのが特徴的だ。それは角度によって羽ばたく蝶に見えた。


「曹瑛が霊薬を完成させたのか」

 漆黒の外套を纏うのは白髪、いや輝く銀色の長髪を中央で分けて背中に垂らしている。うす褐色の肌に高い鼻筋、酷薄で血色の悪い唇は不吉な印象を与える。

「いえ、霊薬の材料は黄が奪い取って灰にしたわ」

 女はつまらなそうに鼻を鳴らす。


「顔に蝶の痣を持つ女は蔡青花だ。二人は側近か」

 孫景の話していた董正康に取り入っている女に違いない。榊は確信する。孫景は青花が弟子を連れているとも言っていた。確か、黒髪が辟邪、銀髪が天禄だ。

「素材探しの道中で蠱術師が待ち伏せしていたのも奴らの差し金だったのか」

 高谷は恨めしい目で悪党たちを睨み付ける。 霊薬完成を阻害し、曹瑛を投獄したことに怒りを覚える。

「まったく、とんでもねえ悪党共だ」

 榊も忌々しげに吐き捨てる。


「ここへ」

 青花が手を上げて合図をする。辟邪が縄で連結した人々を連れてくる。老若男女取り混ぜ数えてみると二十名はいる。皆見窄らしい襤褸を纏い、ひどく血色が悪い。老人に至っては肩で息をしている。


「一体何をするんだろう」

 高谷は異様な光景に息を呑む。

 陰鬱な葬列のような一団を窪地の縁まで引き立て、辟邪が縄を解いた。男が青花の前に倒れるように跪く。

「どうか、助けてください」

「喜べ、お前たちは偽りの帝をこの世から葬り去る贄になるのよ。こんな栄誉はない」

 青花は腰に両手を当てて男を冷酷な瞳で見下ろし、得意げな笑みを浮かべる。懇願する男が伸ばした手を邪険に振り払う。


「後生です。妻と七つになる坊主がいます」

 男は地面に突っ伏して号泣する。その姿を無気力な囚人たちが何も言えず見守っている。

「安心しなさい、すぐに会えるわ」

「この鬼っ、うわあああっ」

 感情を迸らせた男が青花に飛びかかる。辟邪と天禄が男を取り押さえる間もなく、青花は懐から取りだした小剣を薙いだ。男の首筋から赤い飛沫が吹き出し、その身体は力無く崩れ落ちる。

 囚人たちは身を寄せ合い、恐怖にざわめく。天禄が男の無惨な骸を窪地に蹴落とした。


「畜生にも劣る所業だ」

 榊はぎりと奥歯を噛む。獅子堂も押し黙っているが、静かな怒りを燃やしている。高谷は唖然として硬直している。

「面倒だ、一気に片付けよう」

 天禄が腰に差した柳葉刀を抜く。閃く凶刃に囚人たちは悲鳴を上げる。辟邪は九節鞭をしならせ、威嚇する。


「やめろ、外道が」

 榊が弧狼を抜き、天禄の前に立ちはだかる。獅子堂も拳につけた鋼を打ち鳴らし、構えを取る。

 高谷は廃屋の影に身を隠したまま頭を抱えている。辟邪も天禄もその体格からしてこれまでに出会った蠱術師とは違って明らかに武闘派だ。

 天禄は榊に、辟邪は獅子堂に向き直る。


「これは神聖な儀式だ、邪魔をするものは殺す」

 天禄は榊に柳葉刀を突きつける。

「人を呪い殺すのが神聖だと、へそで茶が湧く」

 榊が口角を吊り上げ、挑発的な笑みを浮かべる。怒りに震える天禄のこめかみに血管が浮き彫りとなった。


「派手な首飾りだな、どこで売っている」

「愚弄するか、俺はこいつを自分の手足のように操ることができる」

 獅子堂に対峙する辟邪は九節鞭で岩を撃つ。岩が砕け、破石が飛び散る。恐ろしい破壊力を持つ鉄の鞭だ。ひとたび攻撃を食らえば、やすやすと肉は抉られ、骨は砕かれる。

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