第35話 皇帝の復活

 帝が政務を行う鷲羽わしゅう殿では活気を取り戻した白鷺帝が積み上げられた上奏文を読み込んでいる。文官たちは研ぎ澄まされた集中力で竹簡を処理していく白鷺帝の姿を頼もしく見守っている。

「宮殿の補修に軍備増強か、民の暮らしに関わる上奏文はないのか」

 白露帝は眉を顰める。重要なものから順にと申し伝えたのに、派手な装飾の竹簡に書かれているのは特定の者が利益を得る内容ばかりだ。


「西殿の屋根に立つ鳳凰像の冠が折れています。鳳凰は宮殿の守護を司ります。早急に修理が必要でございます」

 壮年の文官が進言する。

「冠が折れても鳳凰が鳩にはなるわけではあるまい」

 白鷺帝に諌められ、文官は弾かれたように背筋を伸ばし、恥ずかしそうに引き下がる。

「陛下、地方からの上奏文はこちらに」

 老齢の文官が恭しく盆の上に積まれた竹簡を示す。

「うん、民の平安が優先だ」

 白鷺帝は埃被った上奏文を手に取る。水害で多くの犠牲を出した土地からの食糧支援や土木技術者の派遣の要請だ。


「可及的速やかに対応せよ」

 白鷺帝は的確に指示を下していく。政治手腕を発揮する前に病に伏せてしまった帝の鋭利な洞察力と賢明な判断力を垣間見た文官たちは驚きを隠せない。

「董常相がお見えです」

 宦官が白鷺帝に耳打ちをする。董正康が謁見を申し入れてきたのだ。

「政務で忙しい。手短に済ませるように」

 白鷺帝は次の竹簡を手にする。白鷺帝の前に進み出た董正康が深々と頭を下げ、拱手の礼をする。


「陛下、快癒なされたとのこと」

「ああ、すこぶる気分が良い」

 白鷺帝は溌剌とした笑顔を向ける。董正康は眉間に深い皺を寄せ、白鷺帝の顔を凝視する。

「上奏文の閲覧が終われば、馬を駆って千都桜を見に行きたいものだ」

「それは結構なことで」

 宦官に制され、董正康は不機嫌な表情で踵を返す。鷲羽殿を出ると、足早に居室へ向かった。


「白鷺帝にかけた蠱呪を解いたのか」

 董は蔡青花に詰め寄る。取り乱した董の恐ろしい剣幕にも動じず、青花は寝台に腰掛けて脚を組む。扇情的な黒い薄衣の着物の深い切り込みを入れた裾から白い大腿が艶めかしく覗く。

「私の蠱術は解けるはずがないわ。何かの間違いではないの」

 青花は一房を青鬼灯あおほうずきで青く染めた長い髪を気怠そうにかき上げる。その態度に董は苛立ちを覚え、黒檀の机を殴りつける。


「俺ははっきりとこの目で見た。死にかけだったはずの白鷺帝は生気が漲り、血色も良かった」

「そんな馬鹿な」

 青花は顔を歪め、落ち着きを無くして爪を噛み始める。白鷺帝には門外不出の最凶の蠱呪を施してある。もしそれを上回る反蠱術で破られたとしたら、恐ろしい蠱呪返しが術者を襲う。


 青花は蠱呪返しに遭った者の末路を見たことがある。呪いの文字が身体中に浮き上がり、皮膚が裂けて血塗れになって死んだ者、身体中の骨が粉々に砕けて死んだ者。いずれも想像を絶する苦痛に発狂し、獣のような断末魔を上げて命を落とした。

「蠱呪返しに遭うとお前もああなる」

 母は苦痛にのたうちまわる術者から幼い青花が目を逸らすことを許さなかった。ああして恐ろしい目に遭いたくなければ蠱術の腕を磨くことだ、いつもそう言い聞かせた。

 

 実際、右目を覆う青黒い蝶の瘢痕は金目当ての婚姻を結んだ醜い老人を蠱術で呪い殺そうとしたとき、自分より高位の術者の蠱呪返しに遭ったためだ。その術者は色仕掛けで欺き、首を掻き切ってやった。

 忌々しいことに今でも傷跡が疼く。それは戒めでもあった。


鬼哭きこく谷へ向かうわ。本当に術が解かれたのか調べる」

 青花は薄衣を脱ぎ捨て、厚手の袖に腕を通し、袴の帯を締める。まだ身体に影響はない。術が弱まっただけなのかもしれない。そうだとしても、原因を確かめる必要がある。

「黄を護衛につけるか」

「いえ、辟邪と天禄を連れていく」

 辟邪と天禄は同郷の蠱術師だ。さらに強力な蠱呪を施すために必要だ。青花が憤懣に顔を歪める。右目に舞う青黒い蝶が不気味に羽ばたく。 


 ***


「動き出したぞ」

 孫景が興奮しながら格子扉を開け、大股歩きで烏鵲楼に入ってきた。表の看板には本日休業の案内を下げている。庭を一望する開放客席に座る榊と高谷はその声に拳をぶつける。

「うまく掛かったわけだ」

 榊は右側の口角を上げて皮肉な笑みを浮かべる。

「ああ、奴らを追えば蠱術の源がわかるはずだ。目立たぬよう北東の門から出発するだろう。見張りをつけてある」

 榊は茶を飲み干し、立ち上がる。高谷は慌てて芋粥を掻き込む。


「行くぞ」

 榊は太刀を佩く。刃こぼれしたなまくらなのが気がかりだが、機を逃すわけにはいかない。

「御免」

 格子扉が開き、大柄な男が入ってきた。金色の髪に青い目という異様に孫景は警戒する。

「あ、獅子堂さん。この人、廃寺の住人だよ」

 高谷の説明に合点がいったのか、孫景は獅子堂を値踏みする。


「約束の品を届けにきた」

 獅子堂は青染の布に包んだ長物を差し出す。一晩中寝ずに魂鋼を鍛えたのだろう、精悍な頬は炎に当てられてほの赤く火照っている。しかし、その眼差しに疲れの色はない。ひと仕事終えた充足感があった。獅子堂の求道心に榊は驚嘆する。


 丁重に布をはぐると、凜とした美しい輝きを放つ太刀があった。

「これは、見事だ」

 榊は思わず息を呑む。それ以上の言葉は無粋に思えた。

「まさに神業だな。これが天陽の技術か」

 孫景も芸術品のごとき太刀に心奪われ、感嘆の溜息を漏らす。


「孤狼と名付けた」

 精練の最中にかまどの火に狼の姿が見えたと獅子堂は言う。榊の射貫くような鋭い眼光を思い出し、この名を思いついたと。

「俺は最高の仕事をした。お前が持つに相応しい」

「心から礼を言う」

 榊は獅子堂に拱手の礼で感謝を示す。胸元から鳳凰が刻印された金牌を取り出し、獅子堂に手渡した。一夜にして見事な太刀を仕上げた技と心意気に対する謝礼だ。


「酒でも酌み交わしたいところだが、俺たちはこれから出発する」

「友のためか」

 獅子堂の問いに、榊は曹瑛の無愛想な顔を思い浮かべ小さく笑う。

「俺も行こう。お前の太刀筋を見てみたい」

 獅子堂の意外な申し出に、榊は迷いを見せる。蠱術の源を暴き、国家転覆の邪心を持つ不埒者の正体を掴む。敵は相応の武力で対抗してくるに違いない。物見遊山では済まない。


「山戦車を倒した腕っぷしは確かだよ。仲間は多い方がいい」

 高谷は榊に訴える。

「ああ、俺は強い。それにこいつの威力を試したい」

 獅子堂の指には黒光する鋼の拳鍔が嵌められていた。魂鋼で精練したのだ。

「わかった。だが、かなり危険だぞ」

 獅子堂の気概に榊は折れた。

「おもしろい」

 獅子堂は不敵な笑みを浮かべる。青い目には寝不足を感じさせない鋭い光が宿っていた。

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