第33話 烏嶽寺の居候

 曹瑛は白鷺帝の庇護を受けている間は心配無用だろう。いざとなれば監視の兵を蹴散らし、逃げ出すことも造作ないはずだ。

 孫景は鳳桜宮の蔵書庫、鳴鴞院めいきょういんへ向かう。遼河国の歴史、文学、芸術、律令などあらゆる部類の書物が収蔵されており、国家最大の規模を誇る。

「頼んでおいたものを受け取りにきたぜ」

 孫景は分厚い眼鏡をかけた司書官、許松に声をかける。許松はずり落ちた眼鏡を持ち上げ、孫景の顔をまじまじと見据える。


「用意してある」

 許松は事務的な口調で答える。そして周囲を警戒し、仕切り板ごしに同僚を覗き込む。若年の同僚は寝癖もそのままに机に突っ伏して居眠りをしている。許松は机から身を乗り出し、人指し指を突き出す。

「孫景、言っておくがこいつは本来持ち出し厳禁の文書だ」

「ああ、だからお前に頼んだんだよ」

 孫景は不敵な笑みを浮かべる。司書官は小さく舌打ちしてがしがしと頭を掻く。


「ばれると俺の身も危ない。取り扱いには注意しろ」

「心得てるよ」

 孫景は二本の竹簡を受け取る。許松は竹簡から手を離さず、孫景を上目遣いで見やる。

「わかってるな、最前列だぞ」

「おう、最前列、ど真ん中を用意するよ」

 その言葉に納得した許松は竹簡からようやく手を離す。千都で人気の若手女性歌手、柳華の公演席票と引き換えだ。禁書を取り寄せるときにはこの男に依頼すれば用立ててくれる。孫景の鳳桜宮における裏人脈のひとつだ。


***


「本当にここに人が住んでいるのかな」

 高谷は目の前に建つ荒れ放題の廃寺を見上げる。土壁はあちこち半壊し、屋根は今にも崩落しそうなほどに傾いている。陽光眩しい昼間だというのに背後の山に繁る竹藪に囲まれて陰鬱な雰囲気を漂わせていた。


烏嶽うがく寺、か」

 山門に掲げられた額の掠れた墨文字が辛うじて読み取れた。榊は烏嶽寺に足を踏み入れる。元は立派な寺だったのだろう、遼河庭園の名残がある。石橋を渡した池の水は涸れ果て、松の枝は伸び放題だ。分厚い観音開きの扉は乱暴に打ち壊され、物盗りが侵入した形跡が伺えた。

 

 榊と高谷は千都郊外にある廃寺を訪れていた。酒と博打に没頭した住職が失踪したのが三十年前。以来、生臭坊主の後継ぎはおらず、寺は打ち捨てられてしまった。

 最近、この寺に住み着いた者がいるという。その存在を確認するためだ。


 寺の建物を回り込むと縁側に面した敷地に畑があった。

「よく手入れされている。やっぱり誰かここに住んでいるんだ」

 五つの畝に青梗菜ににんじん、玉ねぎなどの野菜が栽培されている。塀に沿って植えられている背の低い樹木にはすももがたわわに実っていた。高谷が果実に手を伸ばそうとしたとき、低い唸り声が聞こえた。


 塀に空いた穴から巨大な獣が姿を現した。

「うわっ、猪だ」

 高谷は目を見開く。その巨体はまるで牛のようだ。突き出た鋭い牙、凶悪な眼光に身震いする。

「こんなでかい奴、見たことない」

 突進されたら易々と吹っ飛ばされてしまう。


「山戦車とも呼ばれる遼河最大級の種だな。獰猛で食欲旺盛、厄介な奴だ」

 榊は静かに太刀に手を掛ける。なまくらの刃でどこまで防ぎ切れるか。額から生温い汗が流れ落ちる。

 山戦車がゆっくりとこちらを向いた。鼻息を荒げ、蹄で土を蹴る。顔の傷は恐れを知らぬ百戦錬磨を物語る。山戦車の唸り声が空気を揺るがす。


 山戦車が畑の作物を蹴散らしながら突進してきた。土煙を上げて超重量級の巨体が突っ込んでくる。狙いをつけたのは高谷だ。

「うわあっ」

 高谷は山戦車に背を向けて逃げ出す。勢いをそのままに山戦車はすももの木に激突した。細い幹は無惨にへし折れ、すももの実がごろごろと転がる。


「結紀、こっちだ」

 榊が叫ぶ。高谷は廃寺の軒下に転がり込む。山戦車は庭先に並ぶ甕の背後に身を隠していた榊に狙いを定める。

「かかって来やがれ」

 山戦車は甕をかち割って突進する。激突して勢いが弱まった山戦車の背に榊が太刀を振り下ろす。しかし、手応えがない。

「くっ、こいつは硬い」

 刃は分厚い表皮にかすり傷をつけただけだ。さすがの榊も驚嘆する。


「また畑を荒らしやがったな」

 黒い着物の男が寺の縁側に姿を表した。金色の髪を後ろに一つ括りにして目の色は青みがかった灰色、かなりの長身だ。着物の合わせから覗く胸板は逞しく、相当に鍛錬をしているように思えた。男は草履を履いて縁側から降り立つ。

「あいつが廃寺に住むという男か」

 榊は男を見据える。


 男は挑発するように口笛を吹く。山戦車は男の方を向いて鼻息荒く足で大地を蹴る。唸り声を上げながら男に突進する。

 男は山戦車を見据えて重心を落とし、構えを取る。力強い拳には鈍く黒光する武具が握られている。山戦車は脇目も振らず男に猛進する。男が凜とした闘気を纏う。

 男は後ろ脚を踏み締め、山戦車の眉間に剛拳をめり込ませた。


 山戦車は鼻から気の抜けた息を吐き、目を回してその場にぶっ倒れた。

「す、すごい。化け物猪を倒した」

 一瞬で勝負が着いた。高谷は恐る恐る山戦車に近づいてみる。山戦車は白目を剥いて気絶している。額には大きなたんこぶができていた。

「お前たちは何者だ」

 男が向き直る。整った眉に切れ上がった眦、高い鼻筋。精悍な印象を与える顔立ちだ。


「俺は高谷結紀だ。天陽出身で、訳あって遼河国を旅してる。こちらは義兄の榊さん」

獅子堂ししどう和真かずまだ。奇遇だな、俺も天陽から来た。とはいえ南の果てにある島だがな」

 獅子堂は遼河国への交易船に用心棒として乗り込んだが、嵐により船が難破しここへたどり着いたという。

「その拳につけた武器はなんだ」

 榊が獅子堂の指輪を連ねた形状の武器に注目する。獅子堂は拳ひとつで分厚い皮を持つ山戦車を一撃で倒した。


「俺が精錬した。しかし素材が粗悪だ」

 榊と高谷は顔を見合わせる。廃寺から夜な夜な聞こえる怪音は獅子堂が鉄を打つ音だったのだ。

「鍛治の心得があるか」

 この男ならできるかもしれない。榊は知らず太刀を握る手に力を込める。

「見様見真似だがな」

 獅子堂はついてこい、と廃寺の裏へ案内する。そこにはかまどに水を張った石棺、金床に槌と鍛治道具が揃っていた。

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