第30話 囚われた曹瑛
「ずいぶん余裕だね。お守りが無くても平気なのかな」
高谷が男の目の前で小瓶を振ってみせる。男は一気に青ざめ、帯紐をまさぐる。ぶら下げておいたはずのものがない。
「お前、いつの間に。返せ」
男は血相を変えて高谷に飛びかかろうとする。高谷はぺろりと舌を出してひょいと後ろに飛ぶ。次の瞬間、男は石畳に顔面から突っ込んだ。榊が伸ばした足に蹴躓いたのだ。
「お前が蠱術師だな」
曹瑛が高谷から小瓶を受け取り、中をまじまじと見つめる。小瓶の中にいるのは鮮やかな赤と黒の縞模様に黒光りする目を持つ一際大きな鬼甲蜂だ。不気味な羽音を立てて瓶の中を浮遊している。
「考えたものだ。女王蜂を捕獲して蜂を操るとは」
女王蜂は蠱術の源だ。蠱術師は女王蜂を隠し持つことで鬼甲蜂の攻撃対象から除外されていた。
「ひいいっ」
蠱術師の周囲を興奮した鬼甲蜂が飛び交う。女王蜂はすでに手元に無い。蠱術師は曹瑛の手から女王蜂の小瓶を奪い返そうと掴みかかる。曹瑛は容赦無く蠱術師を蹴り飛ばす。
「言え、誰に雇われた」
蠱術師は小刻みに震えながら首を振る。表情を強張らせてひどく怯えている。曹瑛は冷ややかな眼差しで蠱術師を見下ろしている。
「だ、誰が言うものか」
蠱術師は破れかぶれで叫ぶ。鬼甲蜂が女王蜂の庇護を失った蠱術師の周辺を威嚇するように飛び回る。
「うわあああっ、来るなっ」
蠱術師は無様に両腕を振り回す。三度も刺されたら身体に毒がまわり呼吸困難と心臓への負担により確実に死を免れない。その恐ろしさは術師自信が誰よりも心得ている。
「わかった、言う、言うから助けてくれ」
蠱術師は観念して曹瑛に縋り付く。
「この騒ぎの元凶はお前だな、引っ立てろ」
若い将校が兵を率いてやってきた。兵たちが蠱術師を取り押さえ、捕縛する。
「その蜂は針を抜いてある。害はない」
曹瑛の言葉に、周囲を飛び回る鬼甲蜂を捕獲しようとした兵は手を止める。
「お前たちは仲間か」
血気盛んな将校は曹瑛を睨みつける。
「違う」
曹瑛の怒気を孕んだ眼光に怯んだ将校は思わず目を逸らす。
「来るのが遅いんじゃないか」
腕組みをした榊がすれ違いざまに皮肉を口にする。騒ぎが収束したところで見計らうようにやってきたことが訝しい。将校は榊を横目で見やり、ふんと鼻を鳴らして去ってゆく。
「証拠隠滅というわけか」
郭皓淳の言葉に曹瑛も思うところがあるようだ。つまらなそうに煙草に火をつける。
「解毒作用がある九宝茶の調合だ」
曹瑛が高谷の絵筆を借りて郭皓淳に調合法を書いた羊皮を手渡す。
「鬼甲蜂の毒を抽出だと。ずいぶん大胆だな」
郭皓淳は口髭を引っ張りながら感心している。
「お前ならできるだろう。これで貸し借りは無しだ」
「ありがとよ、これでひと儲けできる」
郭皓淳は嬉々として蓮華堂に引っ込んでいく。
「奴は強欲でがめついが仕事は早い」
郭皓淳が店主を務める蓮華堂には材料も腕利きの調合師も揃っている。九宝茶を調合し、大量生産することで蜂毒に苦しむ町の人が救われる。口は悪いが曹瑛は郭皓淳のことを高く買っているようだ。
***
元凶たる蠱術師は連行されたものの、毒蜂騒動は収まる気配がない。神雀路に面した庭園や学舎には町医者の診察の順番を待つ怪我人が大勢横たえられている。鳳桜宮の医局の医者も駆り出され、診療に当たっている。
体力の無い老人や子供は特に症状が重い。腕を腫らして泣く我が子を抱く夫婦、呼吸苦の老母を案ずる息子、高熱にうなされる父の手を握る娘。
曹瑛は唇を固く引き結び、ひとり雑踏をすり抜けてゆく。その瞳は濃密な闇を映している。一体何の目的でこんな真似を。鬼甲蜂の蠱術師は金で雇われたのだろう。この騒動を引き起こしたことに信念の欠片も感じられなかった。裏で糸を引く者がいる。
牢に囚われている華慈に危険が迫っているかもしれない。
「曹瑛、こっちや」
裏路地から声をかけられる。手招きをする劉玲の姿があった。曹瑛は乾物屋と酒屋の間の裏路地へ入ってゆく。
「なりふり構わんことしとる。お前も気ぃつけよ」
劉玲はいつになく真剣な面持ちだ。口元から笑みが消えている。それほどに事態は深刻なのだ。
「これから華慈に霊薬の素材を届ける」
「白鷺帝の暗殺を企んでいる奴らは面白くないやろな」
劉玲は悩ましげに顎の無精髭を撫でる。
「兄貴、これを渡しておく」
曹瑛は巾着を差し出す。劉玲は曹瑛の意図を察して受け取った。曹瑛は神雀路に出て歩き出す。
「お前のことは俺が守ったる」
劉玲は鳳桜宮へ向かう曹瑛の背に向かって叫ぶ。曹瑛は振り向かず、手を振る。その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「華慈の依頼で参った」
曹瑛は金雀門の衛兵に名を告げる。衛兵は門の上の弓兵に目配せする。弓兵が一斉に曹瑛に狙いをつける。金雀門が開き、武装した兵が曹瑛を取り囲んだ。
「貴様が朱鷺山に隠れ住む薬師か」
衛兵が曹瑛を値踏みする。
「俺は薬師ではない」
剣を構える武装兵に囲まれた曹瑛は臆することなく衛兵を睨みつける。
「蠱術で鬼甲蜂を放ち都に厄災を振りまいたこと、華慈と結託し白鷺帝を暗殺する霊薬を精製しようとした罪で貴様を捕える」
兵の間を割って黄維峰が現れた。金色の装飾甲冑はいつ見ても悪趣味だ。
「とんだ言いがかりだ。先刻お前の部下が毒蜂を操る蠱術師を捕らえたはずだ」
「その男が黒幕はお前だと名指しした」
黄維峰は口元を歪め、曹瑛の鼻先に人差し指を突きつける。あの男はもう生きてはいない、曹瑛は確信する。
「霊薬の素材を渡せ」
黄維峰の命令に曹瑛は微動だにしない。痺れを切らした黄維峰があごをしゃくる。若輩の兵が無言で殺気を放つ曹瑛の顔色を伺いながら腰にぶら下げた巾着を引きちぎる。それを黄維峰に恭しく手渡す。黄は中身を検閲し、口元を歪める。この男の人を不快にさせる癖だ。
「間違いない。皇帝暗殺の動かぬ証拠だ。引っ立てろ、牢にぶち込んでおけ」
黄の命令で曹瑛は兵に背中を突かれ連れられてゆく。
「何事だ」
金雀門を遠巻きに集まる野次馬の一人に孫景が訊ねる。
「毒蜂事件と白鷺帝暗殺の首謀者なんだと。とんでもねぇ奴だよ。ありゃ極刑間違いなしだ」
男は唾を吐き捨てる。周囲に犯人を断罪する声が高まる。
孫景は抵抗もせず大人しく捕縛されていく曹瑛を苦々しい表情で見送る。
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