第28話 怒りの蜂
ライアン・ハンターは観音開きの格子扉の前で一礼し、敷居を跨ぐ。紅漆塗りの列柱が並ぶ通路を天窓から差す陽光が照らす。左右の壁には美しい山河の風景が見事な筆致で描かれている。
西域の少数遊牧民が織る緻密な文様の絨毯が玉座に向かって伸びている。
艶やかな金色の髪を撫でつけ、礼装に深紅の外套を羽織ったライアンは従者とともに玉座の前に立つ。玉座に座る男に恭しく頭を下げ、柔和な笑みを浮かべる。
「遠方よりはるばるご苦労」
玉座の董正康はライアンと従者を見比べる。従者の持つ献上品が気になっているようだ。脇に控えるのは戦場で一番に狙われそうな派手な金色の甲冑を着けた黄維峰だ。使者に異心があるなら背後に潜ませた武装兵がすかさず攻撃できる態勢を取っている。
「白鷺帝はまだ公務に復帰できないそうで、お会いできず残念です」
ライアンは大仰な身振りで皮肉を交える。
「陛下は療養中だ。治療は優秀な典医に任せてある」
「その典医が投獄されているという噂を耳にしました」
ライアンはさも心配そうに眉を顰める。くえない男だ。董正康は苛立ちに眦を痙攣させる。
「翡翠国の使者よ、そなたは王の代理であろう。興味本位で他国の政治に首を突っ込むような真似はいかがなものか」
「これは失礼しました。どうかご容赦を。今後とも我が国は貴国との友好関係を継続したい」
ライアンは従者に指示して献上品を差し出す。従者が装飾の施された宝物庫を二人がかりで運び込み、膝をついて蓋を開ける。
宝物庫の中には揃いの美しい装飾の金の食器や硝子細工の器、中でも目を引くのが大ぶりな翡翠の原石だ。翡翠国の石は特に品質が良く、外交にも利用される。
董正康は献上品を覗き込み、目を細める。欲に眩んだ目だ。ライアンは口元にゆるい笑みを浮かべながら皇帝の代理人を冷静に観察する。
「見事な品だ。陛下に献上しよう。貴国とは今後も交易を続ける意向だ。後ほど返礼品を届けさせる」
まるで全権を委任されているかのような態度だ。献上品が白鷺帝に渡るのか怪しいものだ。ライアンは肚の中で冷笑する。
「今夜は歓迎の宴を設けている。迎えを寄越すゆえ、それまでゆっくり過ごすよう」
「お心遣い感謝します、では後ほど」
ライアンは一礼して鴻命殿を後にする。
迎賓館に当たる
ライアンは猫脚の長椅子に悠々と腰掛けて葉巻をくゆらせる。
「ミスターハンター、返礼品が届きました」
従者が遼河の印章の刻まれた宝物匣を開ける。中には美しい綺羅の布、香辛料、遼透彩の焼き物、そして黒光りする鉱石だ。
「ずいぶん奮発したと思いきや、この鉱石の重みだったのですね」
従者は呆れている。どれも遼河の特級名産品ではあるが、この鉱石だけは違う。ライアンは鉱石を手に取った。小ぶりなのにずしりと重いことに驚く。
付属している但し書きを読めば、この鉱石は質の良い鉄分を含有しているとある。
「これは天陽国からの朝貢品だ。役に立たぬと見て横流ししたのだろう」
董正康の強欲さと面の皮の厚さに呆れ、ライアンは鼻を鳴らして皮肉な笑みを浮かべる。
***
「ようやく帰ってきた」
伊織は千都の正門にあたる南門、通称陽雀門を見上げる。ついこの間まで砂漠の街にいたことが遠い昔のようだ。懐かしい都の喧騒が聞こえる。
「様子がおかしい」
榊が神妙な表情で神雀路を見据える。曹瑛も不穏な雰囲気を感じ取ったらしく、纏う空気が張り詰めている。
曹瑛は馬を駆る。伊織と榊、高谷も続く。通りのあちこちで悲鳴が上がり、助けを求める絶叫が響く。皆逃げ惑い、石畳を転げ回る者もいる。
「これは一体」
高谷は目の前に繰り広げられる阿鼻叫喚の様に青ざめる。
「た、助けてくれ」
石畳を這ってきた若い男が腕を伸ばす。腕の一部が赤黒く腫れ上がっており、あまりの痛々しさに高谷は息を呑む。
「大丈夫ですか」
男は顔面蒼白で呼吸が浅い。高谷は為す術もなく狼狽える。
「日陰につれていけ、襟を緩めろ」
曹瑛が瞬時に判断を下す。高谷と伊織で男の脇を抱えて寺の軒下に連れてゆき、襟元を楽にしてやる。心無しか呼吸が落ち着いてきた。
曹瑛と榊は神雀路を駆ける。商人に女学生、野菜売りの老人に小さな子供まで、道端で蹲るものたちは苦悶の表情を浮かべている。
「く、くるな」
男が半狂乱で腕を振り回している。叫び声を上げたかと思うとよろめいて酒屋の壷に頭をぶつけ、昏倒する。
「何が起きている」
榊は凶暴な羽音に気付き、身体を反らせる。曹瑛が腰から抜いた扇子を薙ぐ。何かが地面に落ちた。
「これは、蜂か」
その大きさに榊は目を見張る。赤と黒の縞模様の身体に金色の羽根。天陽国では見たことのない種類の蜂だ。
「
曹瑛は沓先で鬼甲蜂を踏み潰す。群れをなす羽音が近付いてくる。
「つまり、何者かがここへ運んできたということか」
榊は太刀を抜き、構えを取る。
「そう考えるのが妥当だろうな。鬼甲蜂の毒性はこれほど強くない。おそらく、蠱術で育成された毒蜂だ」
曹瑛は道端に倒れて苦しむ人々を見つめ、唇を噛み目を細める。
鬼甲蜂の群れが向かってくる。一度に複数の毒針に刺されたら死を覚悟するほかない。榊が太刀を振る。刃身にぶつかり気絶した鬼甲蜂が石畳に落ちてゆく。曹瑛は踊るような脚捌きで扇子を薙ぐ。鬼甲蜂は近付くことができない。
「いくらでも湧いてきやがる、埒があかねえ」
飛来する鬼甲蜂は数を増す。さすがの榊も息が上がり始めている。
「鬼甲蜂を操る蠱毒師がどこかに潜んでいるはずだ。見つけて術を解く」
曹瑛の澄んだ闇を宿した瞳が鋭く光る。
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