第26話 白虎の咆哮
伊織が乾燥した木切れを掴み、袖布を引き裂いて先端に巻く。布に火を点けて松明を作り、丸腰の高谷に手渡す。
「獣は火を怖がるはずだ」
伊織はもう一本松明を作り、蠱狼を牽制する。蠱狼は忌々しそうに唸り声を上げ、距離を取る。松明は姑息な手段でしかない。蠱術の根本を解かねば、いずれ火は消えて蠱狼の群れが襲いかかってくる。
獰猛で俊敏な蠱狼が赤い眼を光らせてこちらを狙っている。
「くっ、埒があかねえ」
榊は太刀と鞘の二刀流の構えで波状攻撃で飛びかかってくる蠱狼をなぎ倒す。斬ってしまえば話が早いが、操られているだけの狼が哀れだ。しかし、その慈悲もいつまでもつか。
「瑛さんがいない」
伊織が周囲を見回す。気が付けば曹瑛の姿が見えない。
「奴のことだ、逃げたわけではあるまい」
何か策があり、この場を離れた。榊はそう確信している。
松明の炎を怖れぬ蠱狼が高谷に向かって牙を剥く。
「うわああっ」
高谷は闇雲に松明を振り回す。首元を噛まれる。そう思った瞬間、榊が目の前に立ちはだかった。
「ぐうっ」
鞘で蠱狼を叩き落とすも、隙をついたもう一匹が前腕に食らいつく。伊織は蠱狼の頭に棒きれを振り下ろした。蠱狼は悲鳴を上げ、岩の陰に逃げ帰る。
「榊さん、大丈夫」
「ああ、平気だ。少し噛まれただけだ」
榊の腕には蠱狼の牙の跡が刻まれており、血が滲んでいる。
蠱狼は標的が弱ったことに威勢をつけ、攻撃を強める。
「くそっ、調子に乗りやがって」
蠱狼を牽制する榊の動きが鈍ってきた。額から脂汗を流し、呼吸も微かに乱れている。疲弊したわけではない、蠱狼の毒が体内に回っているのだ。傷口は赤く腫れ上がり、熱を持っている。
「このままじゃ、全滅だ」
伊織は周辺の枯れ枝に目をつける。これに火を点ければ、防御線を張ることができる。しかし、山上を吹きすさぶ風は気まぐれだ。風向きがが変われば、こちらが丸焼けになる危険がある。万事休すか。
ふと、鈴の音が聞こえてきた。涼やかな音色はだんだんこちらに近付いてくる。木々の合間から曹瑛が姿を現わした。曹瑛は鈴を手にしている。
「瑛さん、もしかしてその鈴で蠱狼を操るのか」
「違う」
これ見よがしに鈴を持って登場した曹瑛に期待した伊織は首を傾げる。軍鶏山に鈴の音が響き渡るが、蠱狼の動きに変化はない。
熱に浮かされ目眩を覚え、榊が膝を折った。
「榊さんっ」
高谷が肩を支える。蠱狼の毒が全身に回ってきたのだ。榊は苦悶の表情を浮かべている。蠱狼が獲物に狙いをつけ、じりじりと距離を詰める。榊は奮起して鞘を支えに立ち上がる。
蠱狼が不穏な唸り声を上げ始めた。毛は逆立ち、周囲を見回して興奮している。地を揺るがす咆哮が木霊し、崖の上に大きな獣の姿が見えた。
獣は急な傾斜の崖を軽やかに駆け下りてくる。
「でかい猫、いや虎だ」
伊織は叫ぶ。それは巨大な白い虎だった。大地に降り立った虎はその巨体から想像できないほどの俊敏な動きで蠱狼に襲いかかる。白虎を新しい標的と見なした蠱狼たちは一斉に飛びかかった。
白虎は金色の目を光らせ、蠱狼たちを鋭い爪で薙ぐ。数で勝る蠱狼たちが全く太刀打ちできない。まるで子犬のような叫び声を上げて次々に地面に転がされていく。白虎が雄叫びを上げる。蠱狼は唸り声を上げて距離を取り始める。
歴然たる力の差を見せつけられ、蠱毒に侵された狼たちも生存本能が勝ったのか、次々と姿を消していった。
曹瑛は鈴を懐にしまう。地面に転がった蠱狼を掴まえて、その口に丸薬を放り込んだ。蠱狼は苦しみ始め地面をのたうち回る。やがて黒褐色の血を吐き出した。興奮状態だった蠱狼は落ち着きを取り戻していた。
「行け、術者を探せ」
曹瑛が口笛を吹く。蠱狼は鼻をひくつかせると木々の合間を縫って駆け出す。しばらくして悲鳴が聞こえた。
曹瑛が後を追うと、蠱狼に襲われ泣き叫ぶ男の姿があった。
「お前が術者だな、術を解け」
「くそっ、誰がっ」
「では狼に食い殺されるんだな」
曹瑛は冷徹に言い放つ。蠱狼は牙を剥き、男の脚に噛みついた。
「ぎゃあああっ、そこの木の幹だ。頼む、助けてくれ」
曹瑛が木の幹の裏側に回り込むと、血に塗れた狼の髑髏が吊されていた。これが蠱術の源だ。曹瑛は扇子の柄でそれを粉々に砕いた。
天を覆う暗雲が去り、森の瘴気が浄化されていく。
「誰に雇われた」
曹瑛は男の襟首を締め上げる。男は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして嗚咽する。
「俺は千都で薬屋を営んでいる。どこから聞きつけたのか、役人がやってきてこの山に出没する密猟者を懲らしめろと金を積んだ」
博打で借金が嵩んでいた男はやむなく承知したという。曹瑛は盛大なため息をつき、男を放してやった。
「俺が不甲斐ないせいで」
木の幹を背にして力無く座り込む榊の傍で、高谷は悔しそうに歯を食いしばり涙を滲ませる。榊は意識が朦朧としており、苦しそうに浅い呼吸をしている。
「伊織、水だ」
曹瑛は伊織に水を汲んでくるよう指示を出す。伊織が竹筒に岩の間から湧き出る清水を汲んできた。曹瑛は竹筒に刀子に付着した蠱狼の血を数滴落とし、さらに腰につけた巾着から茶葉を取りだして投入する。
「即席だが、解毒茶だ」
曹瑛は項垂れる榊の顎を持ち上げ、竹筒の中身を流し込む。瞬間、榊は咳き込み茶を吐き出す。
「くっそ不味い」
榊は涙目で曹瑛を見上げる。
「死にたくなければ飲め」
曹瑛は榊の鼻を摘まみ、口をこじ開けて茶を流し込んだ。その荒療治を高谷と伊織は気の毒そうに見守る。
榊の血色が戻ってきた。
「まったくひでえ味だった」
榊は口直しとばかり煙草に火を点ける。悪態をつけるほど回復したことに高谷は安堵した。前腕の傷には曹瑛からもらった軟膏を塗り、布を巻いた。
「もういいぞ咪咪、助かった」
曹瑛が大人しくお座りをしていた白虎の方を振り向く。咪咪と呼ばれた白虎は踵を返し、森の中へ走り去っていった。
「その鈴で虎を操れるの」
「鈴で咪咪を呼んだだけだ」
曹瑛はかつて軍鶏山で蠱術の犠牲になり瀕死の咪咪を助けたことがあるという。そのときにはまだ小さな猫のようだった。
「それで名前が
伊織は曹瑛の感覚がずれていることに疑問だったが、合点がいった。咪咪は生き延びたことで蠱術の力を得た。それから曹瑛が軍鶏山を訪れると姿を見せて懐くようになったという。
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