第25話 人喰い狼の山
「まさか、この山を登るわけ」
高谷は目前に聳える岩山を見上げ、白目を剥いている。
「宵月茸はこの山の中腹にある洞窟の中にしか生えないと言われる」
希少かつ採取に危険が伴うため、千都では高額で取引されている。ゆえに偽物も多い。華慈が掴まされたのも偽物だった。曹瑛は短くなった煙草を指で弾き、沓先で揉み消す。
「中腹といっても、一日で辿り突くかどうか」
伊織も巨大な山の影に圧倒され、青ざめている。岩肌を削って作った隘路や急な階段を上っていくことになる。馬や驢馬を使うこともできないため、一度に持ち帰れる量は知れている。だからこそ価値が高くなるのだ。
「見ろ、あれで登れるんじゃないか」
榊が指差す先に滑車を使った木造の昇降機が見えた。成人五人は乗れる大きさの籠だ。伊織が縄の強度を確かめる。
「うん、いけそうだよ」
見上げると、昇降機は次の断崖にも据え付けられており、これを使えば垂直に登れるため、時間の短縮になる。高谷は過酷な登山をせずに済み、ほっと胸を撫で下ろしている。
「行くぞ、曹瑛はどこだ」
振り向けば、曹瑛は登山道へ進もうとしている。
「曹瑛、これに乗れば早い」
「俺はそんな軟弱なものに頼る気はない」
「なんだと」
不機嫌を隠そうともしない曹瑛に、榊は眉を顰めて首を傾げる。いくら足腰が達者でも、この山を登るには一日がかりだ。昇降機を使わない手はない。
「今は時間が無いだろう」
「俺の足なら昼過ぎには到着できる。お前たちはその軟弱な機材に頼るがいい」
曹瑛は榊の腕を振り払い、かたくなに昇降機に乗ることを拒んでいる。
「貴様、まさか」「黙れ、榊」
榊の眼光が曹瑛を射貫く。曹瑛は思わず視線を逸らした。
「怖いのか」
「死にたいのか」
曹瑛は苛立ちを隠せない。
「古いけど使われた形跡があるし、縄は丈夫だ」
昇降機に乗り込んだ伊織が叫ぶ。曹瑛は聞こえない振りをして踵を返そうとする。
「高いところが怖いのだろう」
榊に図星を突かれ、曹瑛は屈辱に奥歯を噛みしめる。
「目を閉じていれば問題ない、行くぞ」
「くっ」
榊に引き摺られ、曹瑛は渋々昇降機に乗る羽目になった。
伊織が昇降機の握り手を回すと、籠は一度大きくがたんと揺れてゆっくりと上昇を始めた。昇降機を乗り継ぎ、第三段階まで上ってくると、彼方に広がる森や蛇行する大河が一望できた。
「こいつは絶景だな」
朝方漂っていた霧は晴れ、美しい緑の大地が広がっている。
「あそこに見えるのは朱鷺山かな」
伊織が振り返ると、曹瑛は唇を一文字に引き結び必死で瞼を閉じている。本当に高いところが苦手のようだ。ここで揶揄すると後から面倒なのでそっとしておくことにした。
昇降機を降りると、岩壁に棚のように木の足場を張り出した上り坂の桟道が続く。断崖に張られた鎖を握り締め、慎重に足を進める。
「ここから落ちたら木っ端微塵だ」
地上から吹き上がる風に伊織は身震いする。足場の隙間から見える地上は霞むほどに遠い。背後から陽気な鼻歌が聞こえてきた。曹瑛は精神の安定を図るために歌っているのだ。相当な心理負担がかかっているらしい。伊織は気の毒に思った。
桟道を越えると、針葉樹の森に出た。ようやく高所から解放され、曹瑛は安堵しているかと思いきや、険しい表情で森の奥を見据えている。
「どうした」
「獣の匂いがする」
曹瑛の言葉に、榊も太刀を手にする。
「獣って、まさか狼」
伊織は軍鶏山には人を食らう狼が出るという話を思い出す。棒きれを拾い、高谷にも手渡す。まだ日は高い。それなのに夜行性のはずの狼が彷徨いているとは。
曹瑛は腰につけた箱から香木を取りだした。短く折って青銅の皿に置き、火を点ける。煙が立ち上り始め、柑橘系の匂いが鼻を突く。
「獣避けの香か」
榊は取りだした煙草の小箱を胸元に引っ込めた。
「気休めだがな」
曹瑛は針葉樹の森に足を踏み入れる。伊織と高谷、最後に榊が続く。
狼の遠吠えが煌々と照る太陽の下に木霊する。叫びは連鎖し、木霊となって森全体に響き渡る。
「一体何匹いるんだ」
高谷は震えながら木の棒を握り締める。榊は太刀を抜き、周囲を警戒する。木の幹の間から殺気を放つ狼たちがこちらを凝視している。隙を見せたら集団で遅いかかる算段だ。
「獣避けが全く効かない」
曹瑛は舌打ちをして皿の香木を投げ捨てる。特に嗅覚の鋭い狼なら反応するはずだが、様子がおかしい。曹瑛は警戒を強める。
低い唸り声がして、木々の間から狼が姿を現わした。その異形に伊織は息を呑む。
銀灰色の毛を逆立て、鋭い牙が不気味に光る。歯茎を剥き出しにした口からは荒い息と涎がぽたぽたと垂れている。その目は血のような赤に輝き、殺気に満ちていた。
「遼河の狼ってこんなに凶暴なんだ」
高谷は恐怖のあまり半笑いだ。
「いや、違う」
曹瑛は狼から目を逸らさず答える。狼が低い唸り声を上げ、飛びかかる。曹瑛は扇子の骨子から抜いた刀子を放つ。前足に刀子が突き立ち、狼は着地した途端鳴き声を上げて転げ回る。他の狼たちの殺気が増した。
「蠱術に操られている」
「やはり、そんなことだと思ったぜ」
榊は鼻を鳴らして皮肉な笑みを浮かべる。狼が一斉に襲いかかる。曹瑛は扇子に仕込んだ刃で蠱狼の鼻先を斬りつけ、上段蹴りで吹っ飛ばす。榊は太刀の峰で蠱狼をたたき落としていく。
「噛まれると面倒だ、気をつけろ」
「ど、どうやって」
曹瑛の忠告に背筋が凍りつく。伊織は必死で木の棒を振り回す。一匹が棒に食らいついた。
「うわあっ」
叫ぶ伊織に、高谷が加勢する。食らいついて放さない蠱狼の頭を手にした棒で叩く。狼は地面に降り立ち、牙を剥きだしにして怯まず襲ってくる。榊が立ちはだかり、太刀を薙いで牽制する。
「体力も素早さも桁違いだ」
榊は三匹の攻撃を斬り伏せる。死角から襲いかかった一匹を曹瑛が石つぶてで倒した。
「油断するな」
「ちっ、礼を言うぜ」
榊は額から流れる汗を拭う。
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