第24話 黒湯と黒湯温泉

「ひどい、びしょ濡れだ」

 伊織が着物の裾を絞ると雨水が滂沱と滴り落ちた。榊も不快げに水の滴る長い前髪をかき上げる。 

 農家の縁側を借りて曹瑛が即席で九宝茶を淹れた。蠱蛙の毒を中和する素材を集めて煎じたものだ。森に生える草や木の実を的確に判別し、手際よく収集する曽瑛の姿は優秀な薬師の血脈を感じさせた。


「本当は天門東が欲しいところだが、仕方がない」

「それなら納屋にあったぞ」

 農家のおやじが納屋から干した木の実を持って来た。曹瑛はそれをすりこぎで潰して茶に混ぜる。

「環黒湯散という。解毒作用がある、飲んでおけ」

 曹瑛の差し出す深い褐色の茶から漂う独特の土臭さに、伊織は眉を顰める。毒が体内に残るよりはましだ。伊織は鼻を摘まんで一気に流し込んだ。


「ぶほっ」

 想像以上に不味くて思い切り吹いた。榊と高谷も同時に吹き出し、咳き込んでいる。曹瑛は三人の無様に形の良い眉を顰める。

「こいつは効くぜ」

 榊は目元に涙を浮かべた渋い顔で口元を拭う。曹瑛は澄ました顔で九宝茶を飲んでいる。こんな不味い茶を顔色ひとつ変えずに飲むとは、伊織は心底感心した。


「さて、蝦蟇の油を採るにはどうしたらいい」

 曹瑛が切り株の上に蝦蟇を座らせる。蝦蟇は逃げ出す素振りもなく、大人しくしている。

「知っています。油を絞るには蝦蟇に鏡を見せればいいんです」

 伊織は得意げに解説する。蝦蟇の前に鏡を立てると、鏡に映る自分の顔に驚いてたらたらと油を流すのだという。


「おやじ、鏡はあるか」

 榊が農家のおやじに借りた鏡を蝦蟇の前に置いた。しかし、蝦蟇は鏡に何の反応も示さず、油を流す気配は一向にない。忍耐強く待ってみるが、蝦蟇は置物のように微動だにしない。榊は口直しとばかりおやじと一緒に庭先で煙草を吸っている。

「おかしいな、鏡じゃなかったのか」

 伊織が意気消沈する。

「いや、あんちゃんの考えで合ってるよ」

 かつて蝦蟇油を採取していたことがあるおやじはやり方は間違いない、と言う。


「この鏡、曇って何も映らないね」

 鏡が霞んでいることに気がついたのは高谷だ。袖口で強く擦ってみるものの、長年使われなかった鏡の汚れを落とすことは困難だ。

「鏡は高級品だから、持っているものはなかなかいない。あったとしても、蝦蟇油を採らなくなってからどの家の鏡もがらくただよ」

 おやじは首を傾げて肩をすくめる。


「鏡でなくとも、姿が映れば良いのだろう」

 榊が腰の刀を抜いた。研ぎ澄まされた刃が陽光を受けて輝く。

「ああ、なるほど」

 伊織は歓声を上げる。榊は切り株に刀を突き立てた。刀身に蝦蟇の姿がくっきりと映し出されている。蝦蟇は目を丸めて刀身を凝視し始めた。身体にじわりと汗をかき始める。


「蝦蟇が油を流している」

 高谷はもの珍しそうに覗き込む。蝦蟇は身じろぎもせず、たらたらと油を流す。曹瑛は木の枝を刀子で削り、油を掬い取り、小瓶に移してゆく。

 半刻もせぬうちに小瓶は蝦蟇の油で満たされた。

「これだけあれば良い」

 曹瑛は小瓶の蓋を固く封じた。


***


 蓮城潭の鎮を後にして、千都へ向けて馬を進める。最後の素材、宵月茸は軍鶏山の標高の高い場所でしか手に入らない希少なきのこだ。麓の花鶏鎮で民宿を取り、朝を待って登山することにする。

 民宿の主人から鎮の外れに秘湯があると聞いて、癒しを求めてやってきた。

「ほう、黒湯とは珍しい」

 上機嫌の榊は両手で湯を掬い上げる。花鶏鎮では黒い湯が湧く。腐葉土を含む地層から湧き出るため、このような色味になる。墨を溶いたような黒い湯は底が見えないほどの濁りがあり、肌にとろりと絡みつく。 

 榊と高谷は桶を浮かべて徳利とお猪口を持ち込み、酒を酌み交わしている。


「今日は黒湯に縁がある。身体が芯から温まるよ」

 昼間、沼地で散々雨に打たれて半乾きの服でここへ辿り突いた。冷え切った身体にしっとりした温めの湯が沁みるようだ。

 伊織は満天の星空を見上げて深いため息をつく。気が付けば、蠱蛙の毒気を吸ってしばらく咳き込んでいたが、曹瑛の九宝茶のおかげかいつしか咳は止まっていた。


「明日向かう軍鶏山はどんなところ」

「険しい岩山だ。夜には人を襲う狼が出没すると聞いている」

 曹瑛の物言いはまるで人ごとのようだ。狼と聞いて、伊織は表情を強張らせる。

「昼間に向かえば狼に遭遇しないってことだね」

「それが、ここ最近陽の高いうちに姿を見ると聞く」

 襲われた者もいるらしい。今日は沼地の土蛙に難渋したが、狼よりましだったのかもしれない。伊織はがっくりと項垂れる。


 民宿ではまかない飯を出してくれた。

 鶏肉を茹で上げぶつ切りにして甘酢醤をかけた香味鶏、真鯉の姿蒸し、茄子のおひたし、干し豆腐に米粉の炒面、卵と赤い果実の白湯。

「遼河の国土は広い。地方により使う素材や味つけに特徴がある」

 花鶏鎮では麦より米が取れるため、主食は米を使う料理になると曹瑛は続ける。この周辺は山が多く、斜面を切り開いた棚田の風景が広がっていた。


「この地方では辛い料理が少ないな」

 酒のつまみに合うと、榊は真鯛の姿蒸しが気に入ったようだ。

「そうだ、辛い味つけは寒い地方で発達する」

 曹瑛は蓋つきの碗に茶葉を入れる。飲み頃を見計らって蓋をずらして小分けの茶杯へ注ぐ。茶壷や茶海を使わない簡易的な作法だ。曹瑛は伊織に茶杯を差し出す。

「美味しい、香りもいい」

 手順は簡素でも茶の風味は落ちることはない。茶器の多様な使い方に伊織は感銘を受ける。


 森の奥で鳴く梟の声が夜の闇に溶けてゆく。穏やかな月夜だ。夜風に干した着物が揺れている。曹瑛は縁側に腰掛け、煙草を吹かす。明日は宵月茸を採取し、千都へ向けて急ぎ戻らねばならない。

 煙草の香りに誘われてやってきた榊が隣に腰掛ける。曹瑛は無言で小箱を差し出す。榊は煙草を手に取り、蝋燭から火を取る。


「瑯蘭で受け取った伝令は本物か」

 榊はうまそうに細い煙を吐き出す。胸元から花餅を取り出し、礼とばかり曹瑛に差し出す。何層にも重ねた薄生地の中に蜜柑の甘露煮を入れたものだ。

「華慈の文字に間違いはない、だが」

 曹瑛は目を細めて煙草の火を見つめる。

「伝令の内容は漏れているだろうな」

 蓮城潭の土蛙は蠱術に違い無い。何者かが先回りして術を仕掛けたのだ。そして、次の目的が宵月茸であることも知られているだろう。


「明日も忙しくなりそうだ」

 そう言いながらも、榊は楽しんでいるように見えた。

「ああ、面倒だ」

 曹瑛は煙草を軒先に投げ捨て、花餅を食べ始める。

 千都にいる孫景が手を回しており、華慈の身は今のところ安全だ。しかし、蠱術を仕組んだ犯人が皇帝の命を救う霊薬の完成を見過ごすはずはない。何か動きがあるはずだ。

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