第23話 蠱蛙の罠

 澄んだ水を湛える泉にはめだかが泳ぐ姿があった。ここに清い水を好む蝦蟇もいるはずだ。曹瑛は足場の悪い小さな岩の上で均衡を取りながら目を凝らして蝦蟇の姿を探す。

「いたぞ」

 大きな丸い目、金色に光る凹凸の身体。曹瑛はそっと蝦蟇を掬い上げる。蝦蟇は動きが鈍く、曹瑛の手の中で大人しくしている。


「掴まえたか」

 後は同じように木片を足場に戻るだけだ、曹瑛なら訳ないだろう。榊は安堵する。

 急に陽が陰ったのか、森の中に暗い影が落ちる。生ぬるい風が吹き抜け、伊織は怖気を感じて周囲を見渡す。

「う、うわあっ」

 高谷が裏返った悲鳴を上げる。指差す先、蓮城潭の黒い水面が波打ち始めた。まるで意思を持つように蠢いている。


「土蛙が、あんなに」

 蓮城潭を覆い尽くすほど無数の土蛙が浮かび上がってきた。これほどの土蛙がここに住んでいたのかと伊織は驚愕する。

 土蛙は一斉に不気味な声で鳴き始めた。

 先ほどまで晴れていた空に低い暗雲が立ちこめる。土蛙は背中の醜いいぼから黒い煙を吹き出し始めた。風に乗ってきた黒煙を微かに吸い込んだだけで高谷は咳き込み、涙目になる。


「その煙は土蛙の毒だ、吸うな」

 曹瑛が口元を布で覆う。

「口を布で覆うんだ、呼吸は最小限にしろ」

 榊が叫ぶ。

「まさか、この土蛙たちって」

「ああ、こんな毒を吹く蛙は見たことがない。蠱蛙に違いない」

 待ち受けていたかのように蠱術の攻撃を受けている。榊は蓮城潭の真ん中に取り残された曹瑛を見やる。


 蓮城潭は毒を吹き出す瘴気の沼と化している。早くここを離れないと、毒を吸い込む時間が長ければ長いほど痛手が蓄積されることになる。

 曹瑛は掴まえた蝦蟇を籠に入れて腰にしっかりと結んだ。蓮城潭を渡ろうと木片を投げる。

「なにっ」

 木片は黒い水面に触れた途端、土蛙の毒にやられたのか腐食してぼろぼろになってしまった。これではいくら身軽でも足場にすることができない。

 曹瑛は大きな舌打ちをする。土蛙の毒で目眩がしてきた。


「蠱毒は源を見つけて絶てばいい」

 伊織は思い立ち、口元を押さえながら蓮城潭周囲の雑草をかき分け諸悪の根源を探し始める。土蛙を操る蠱の源を絶つのだ。高谷も伊織に倣い、密集する木々の合間を捜索する。

 しかし、すぐに目に着く場所に仕掛けを置いておく間抜けな蠱術師はいない。手がかりは皆無だ。


 曹瑛は蓮城潭の真ん中で強い毒気に晒されている。すぐにでも助けなければ。榊は倒木を蓮城潭に投げ込む。

 しかし、結果は同じだ。すぐに腐食して池の底に沈んでゆく。岩の上に立つ曹瑛がふらりとよろめく。


「おい、しっかりしろ曹瑛」

 榊の叫び声に曹瑛は虚ろな目を開く。これ以上曹瑛をあのままにしてはおけない。

「助けてやる」

 榊は曹瑛を助けるため、意を決して毒の沼に足を踏み入れようとする。

「やめろ、榊」

「こうするしかない」

 すると、胸もとで亀の明美がもぞりと動いた。着物の裾から明美が転がり出る。


 明美は榊の手をすり抜け、蓮城潭の方へ進んでいく。

 土蛙の毒にやられてはいけない。榊は慌てて追いかける。明美はするりと土蛙がひしめく池の中に潜っていく。

「あ、明美っ」

 明美が死んだ、榊は膝から崩れ落ちる。

 ややあって、蓮城潭の中に丸いものがひょこっと浮かび上がった。ひとつではない。曹瑛の立つ岩から陸まで、丸いものは足場のように続いている。


 それは亀の甲羅だった。この池に住む亀が浮き上がってきたのだ。池から明美が顔を出し、陸に上がってきた。土蛙の毒は亀に効果が無いようだ。明美は平然としている。

「まさか、お前が」

 同類の亀に呼びかけたのか。

 榊は大切に明美を拾い上げる。そしてすぐに曹瑛に向かって叫んだ。

「曹瑛、足場ができた。戻ってこい」

 曹瑛は亀の甲羅に飛び乗る。丸いため、足を滑らせないよう慎重に渡っていく。


「やった」

 伊織は安堵する。曹瑛が無事に戻ってくることができた。榊がよろめく曹瑛に肩を貸す。高谷も胸を撫で下ろした。

 土蛙の合唱が一際騒がしくなる。暗雲に稲妻が走り、大粒の雨が降り始めた。蓮城潭の水が溢れ、すぐに足元が水浸しになる。


「用は済んだ、ここから去るぞ」 

 脱力した曹瑛を背負い歩きだそうとした榊は思わず息を呑む。周囲に黒い土蛙が集まってきている。

「嘘だろ、囲まれた」

 伊織は青ざめる。

「背中から吹く毒より直に触れるほうが強力だ」

 曹瑛が榊に耳打ちをする。雨のおかげで空中に舞う毒は低減されたものの、切迫した状況には変わりない。


 曹瑛が人差し指と親指で輪を作り、唇に当てて息を吹く。微かな笛のような音が風に乗って森に響き渡る。

 土蛙が興奮し始めた。茂みから黄色と黒の縞模様の蛇が何匹も這い出して土蛙を丸呑みにし始める。曹瑛は口笛で蛇を呼んだのだ。

「ほんの戯れだったが、効果があったようだ」

 土蛙は慌てて飛びはね、蓮城潭に戻っていく。しかし、蛇の数は圧倒的に少ない。腹が膨れたら終わりだ。これは付け焼き刃にしかならない。


 空に閃光が走り、雷鳴が轟く。水に浸る草むらの中に、一際大きな土蛙を見つけた。赤黒いそれは堂々と動かず、まるで石のようだ。その威容に蛇も近付けない。

「奴が蠱毒の源だ」

 曹瑛は腰に差した扇子から刀子を抜いて赤黒い土蛙に放つ。刀子が背中に刺さるが、土蛙はのそのそ歩きながら蓮城潭に飛び込もうとする。

「逃げられたら終わりだ」

 伊織は土蛙を追おうと走り出した。曹瑛がその腕を掴む。


「行くな」

「池に潜まれたら蠱呪を解けなくなる」

 伊織は曹瑛を振り切ろうとした瞬間、目も眩む閃光が森を照らした。次の瞬間、稲妻が走り、刀子を直撃した。耳をつんざく雷鳴に高谷は腰を抜かす。


 伊織が恐る恐る目を開くと、そこには黒焦げになった土蛙が無数にひっくり返っていた。曹瑛の刀子が刺さった蠱毒の源である赤黒い土蛙は、まるで踏み潰されたように地面にへばりついていた。

「これ、狙ったの。そうだとしたらすごいよ。瑛さん」

 森に目映い木漏れ日が降り注ぐ。頭上の暗雲は消え去り、見上げると抜けるような青空が見えていた。


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