第22話 蝦蟇の油
「今はここ、瑯蘭だ。
曹瑛は地図を指し示す。蝦蟇の油は蓮城潭、宵月茸は軍鶏山で入手できるという。
「寄り道にはなるけど、千都への帰り道ではあるね」
伊織は道順を計測する。街道を逸れるが、一日の超過で千都に戻れる計算だ。
曹瑛は蒸籠に一つ残った肉まんを頬張る。
「これ、私の地方では遠慮のかたまりって言いますよ」
それを見て伊織が呟く。
「伊織は天陽国の西の出身だな。俺たちの地方では東方の一つ残しという」
榊が話に乗ってきた。曹瑛は天陽国の謎のことわざに首を傾げている。
「華慈がこれを寄越したということは、今は処遇は悪化していないだろう。しかし、いつ奴らの気が変わるかわからない」
「急いだ方がいいっていうことか」
伊織は気持ちを引き締める。
「遠慮のかたまりとはどういう意味だ」
時間差で曹瑛が食いついてきた。
「最後に皿に残った食べ物を遠慮しあって誰も取らないことだよ」
曹瑛はやはり解せぬ、という顔をしている。
当面の保存食を市場で調達し、蓮城潭のある鎮を目指す。
***
天候も良く、馬も一日の休憩が取れたのが幸いして移動速度を上げることにした。物資運搬に使われる太い街道を逸れ、段々畑の広がる鎮へ。田植えの用意が始まっており、畑に張られた水が薄曇りの陽光を反射して輝いている。
農家の軒下を借りて昼餉にした。瑯蘭で買った粽と驢馬肉で腹を満たす。
「おやじ、蓮城潭はどっちだ」
「ああ、そこの畦道を下ってまっすぐ、森の奥だ」
前歯の欠けた農家のおやじは上機嫌で曹瑛から分けてもらった煙草を吸す。曹瑛の作る煙草は深みがあり、上品な味でおやじはとんでもない高価な品だと仰天する。
「でも、あんた。なんで蓮城潭に行くんだべ」
あんな場所には何もないとおやじは言う。
「蝦蟇の油を取りに行く」
「蝦蟇油か、昔はこの鎮でもよく取りにいって千都に行商に行ったもんだ」
「今は取りに行かないんですか」
蝦蟇の油は高級品だと聞く。良い商売になるはずなのに。伊織は疑問に思う。
「蓮城潭に土蛙が住み着いてな、毒をもっとるもんだから誰も近づけなくなったんじゃ」
伊織は曹瑛を見やる。曹瑛は何も言わず、煙草を吹かしている。
「世話になったな、おやじ」
曹瑛は立ち上がり、短くなった煙草を沓先で踏みにじる。
「ああ、こんな良い煙草をありがとう。蝦蟇は蓮城潭に隣り合う泉に住んでおる。澄んだ水を好むんじゃ、土蛙とは棲み分けしとるよ」
くれぐれを気をつけろ、とおやじは念を押しながら送りだしてくれた。
「土蛙か、あまり気持ちの良い話ではないな」
榊は気が乗らない様子だ。
あぜ道は森の中へ続いている。おやじの言う通り、分け入る者がいなくなり、ほとんど獣道の様相を呈している。重なり合う葉に遮られ、陽の光は届かない。昼間にもかかわらず、森の中は薄暗く不気味な雰囲気だ。
時折聞こえる人の叫びのような野鳥の声に、高谷は肩を震わせる。
積み重なる木の葉と倒木に足を取られながら進む。山暮らしの曹瑛はこのような場所を歩き慣れているのか、速度が速い。
「俺の跡をついて歩け、足手纏いになるな」
おもむろに曹瑛が振り向く。
「後ろを歩いているよ」
「奴の足跡を辿れという意味だ」
榊が曹瑛の言葉を補足する。伊織は訳もわからぬまま、曹瑛のつけた足跡を踏むように歩き始める。
「歩きやすい」
思わず驚きの声を上げる。曹瑛は適当に進んでいるのかと思いきや、足を取られにくい場所を選んで歩いていることに気がついた。体力の消耗が随分減った気がする。
一番若い高谷は体力不足で息を切らしながら歩く。
「頑張れ、結紀」
「ありがとう、榊さん」
強面の榊だが、意外にも面倒見が良い。
突然、森が開けた。目の前に大きな池が広がる。
「ええっ、これが蓮城潭」
伊織は頓狂な声を上げる。
「まるで沼だな」
榊の言う通り、水面は黒く水というより粘性のある腐葉土のようだ。高谷が落ちていた棒きれを拾ってきて水面を突く。自分の身長の半分はあった棒きれがずぶずぶ沈んでゆき、とうとう手を放した。
「ずいぶん深さもあるね。ここに落ちたら上がって来られるかわからないよ」
高谷は森の陰鬱な雰囲気に気圧され、背筋に冷たいものが走るのを感じた。池の半分は崖に囲まれており、一番奥に清水が流れ落ちる泉が見えた。
「蝦蟇は泉に住んでいるといったな。辿り突くには蓮城潭を越えるか、崖に張り付いていくしか手はないぞ」
榊が腕組をしながら低い唸り声を上げる。この池、いや沼に足を踏み入れたくはない。
よく見れば、沼のあちこちに土蛙がひらひら光る黒い顔を出している。農家のおやじが毒を持っていると言っていた。致死毒ではないとはいえ、やはり沼に踏み込むのは危険だ。
「長い釣り竿で釣り上げる、とか」
言ってはみたものの、まったく現実的ではない。池の広さを越える釣り竿など作れるはずがないのだ。伊織は曹瑛の冷ややかな視線から目を逸らす。
「俺が行く」
曹瑛が森から倒木を引き摺ってきて、草むらに投げる。
「榊、その刀の斬れ味を見せてくれ」
曹瑛は榊に指示を出す。
「なるほど、しかし本当にできるのか」
榊は曹瑛の考えに眉を顰める。
「早くしろ、陽が暮れる」
曹瑛の自信を目の当たりにして、榊は刀を抜いた。意識を手中し、倒木を輪切りにした。
「えっ」
高谷は驚きの声を上げる。長い倒木を縦に切り、それを繋いで橋にするのかと思っていた。しかし、直径九寸(約三十センチ)ほどの輪切りの切れ端を量産している。
「もういいだろう」
曹瑛は輪切りにされ円盤状になった木片を拾い上げ、五枚ほどを手に持ち残りを風呂敷に包んで背中に背負う。そして黒々と淀む蓮城潭の前に立ち、泉までの距離を目測する。
「まさか、瑛さん」
伊織もようやく曹瑛の考えを理解し、目を見開く。曹瑛は意識を集中し、円盤状の木片を一枚、二枚と黒い水の表面に投げる。木片は沈むことなく浮かんでいる。それを確認した曹瑛は地面を蹴った。
木片をつま先で蹴り、次の木片へ。その軽やかな飛翔に驚く。細身だが長身の男だ。体重はそれなりにある。下手な着地をすれば、沼に飲まれてしまう。伊織は知らず手に汗を握る。高谷も呼吸をするのを忘れて曹瑛の姿を見守る。
曹瑛は飛びながら木片を投げ、距離を伸ばしていく。とうとう、池と泉の境界の岩の上に降り立った。
「すごい、泉に到達した」
伊織はその場に脱力してへたり込む。高谷も大きな深呼吸をした。
「信じられん、何て奴だ」
いつも曹瑛と張合っている榊も、素直に曹瑛のずば抜けた体術に感心している。
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