第12話 託された望み

 裁審府は法を司る役所だ。悪人を裁き、諍いを調停する。裁審府の地下は審議中の被告人を勾留する牢獄になっている。三層から成り、最下層は陽光届かぬ暗闇の中、酷い湿気にかびと汚物の匂いが充満し、鼠や害虫が這い回る劣悪な環境だ。極悪人が収容されることになっており、奈落と呼ばれる。


 華慈は一層に個室を与えられていた。身分の高いもの、勲功のあった者に当てがわれる部屋だが、牢獄には変わりない。分厚い石壁に穿たれた申し訳程度の天窓から微かな自然光が落ちるが、日が暮れると瞬く間に闇が訪れる。

 曹瑛は特別に面会を許された。石の螺旋階段を下り、燭台の火が揺れる通路を進む。吹き抜ける風に乗って聞こえるのは無念の呻き声や啜り泣きだ。


 突き当たりが華慈の部屋だ。この時期は夜の冷え込みが厳しい。石壁の放つ冷気に鳥肌が立つ。

「華慈翁、具合はどうだ」

 曹瑛は鉄格子の前に立つ。華慈は粗末なむしろの上に座し、机に向かって書を記していた。こうした処遇は華慈のこれまでの皇室への貢献によるものだ。

「来てくれたのか、阿瑛」

 華慈はかつて呼んだ名を懐かしく口にする。


 石造りの牢は老体にはさぞ応えるだろう。曹瑛は厚手の毛布を差し入れに持ってからきた。

 番兵が毛布を広げて武器や毒薬などが隠されていないか確認する。脱獄を強行する者や絶望して死を選ぶ者が後を絶たないのだ。

 曹瑛は番兵にくしゃくしゃにして突き返された毛布を丁寧にたたみ直し、檻の隙間から華慈に手渡す。


「必ず助け出す。あんたは無実だ」

 曹瑛の言葉に華慈は力なく頷く。なぜ多くの人間を救った男がこのような目に遭わなければならないのか。

「お主も巻き添えになる前に早く千都を離れた方がいい。此度の措置は動きが速すぎる」

「俺もそう思っていた」

 曹瑛も違和感を覚えていた。毒蛇事件の調査をまともに行わないまま皇室の典医を捕縛するなど、そんな暴挙は聞いたことがない。


「宮廷で蠱術が使われたことも気にかかる。それに白露帝だ」

 華慈はその名に反応する。

「蠱毒に侵されている」

 華慈は愕然として筆を取り落とす。毒蛇を放つなど序の口だ。遼河国が蠱術を禁忌として厳しく取り締まったのは、その絶大な呪いの力ゆえだ。それほどまでに蠱術師の強大な力は怖れられていた。


「炒ったそら豆を食べて甘いと言った。間違いない」

 曹瑛が茶席でそら豆を用意したのは、白露帝の病が蠱呪の影響か確証を得るためだった。蠱呪に侵された人間は特定の食べ物に全く違う反応を示す。そら豆には一切味を付していない。それなのに白露帝は甘みを感じたのだ。

「お主の見立てじゃ、間違いはなかろう」

 華慈は肩を落とし重いため息をつく。


「曹瑛、頼みがある」

 華慈は冷たい鉄格子を杖代わりに立ち上がる。豊かな白髪は乱れ、足元は覚束ない。しかし、落ちくぼんだ目の奥には燃え尽きぬ光があった。

「白露帝の命は風前の灯火だ。わしは霊薬の研究を続けていた。しかし、どうしても足りぬ素材がある」

 華慈はこの三年、病に苦しむ白露帝の姿を目の当たりにして何もできない焦燥感に苛まれていた。典医としての矜持をもって白露帝を救いたいと願っている。


「霊薬を完成させ、白露帝を助けてくれ」

「承知した」

 曹瑛は華慈から霊薬の調合法を記した木簡を受け取った。華慈はしわくちゃの手を曹瑛のそれに重ねる。曹瑛は冷え切った震える手を握り絞めた。

 華慈にしばしの別れを告げ、踵を返す。目の前に巨漢の番兵が立ちはだかり、曹瑛を厳めしい顔で睨み付けている。


「捕囚から物品を受け取るのは禁じられている」

 番兵は曹瑛の手にした竹簡に目をやる。華慈が記した調合法を取り上げるつもりなのか。

「そこをどけ」

 曹瑛の感情の読めぬ低い声。揺らめく松明の炎が映る瞳は吸い込まれるほどに濃い闇を宿している。


「しかし、見なかったことにしてやる。白露帝は若い、死ぬにはまだ若すぎる。助けてやってくれ」

 番兵は殊勝にも曹瑛に深く頭を下げた。通さぬというなら強行手段に訴えようとしていた曹瑛は握り締めた拳を解いた。

 白露帝は身分の差で人を判断することなく、分け隔て無く接していたときく。温厚で寛大な人柄は人に好かれる由縁なのだろう。


***


 濃い墨を流したような夜空だ。吹きすさぶ風はさながら春の嵐だ。蜷局を巻く暗雲が絶え間なく東へ流れてゆく。 

 衣擦れの音がして燭台の炎が微かな風に揺らめく。朱塗りの柱の影から現われたのは金剛石を散りばめた黒い服の女。女は身体の稜線が明瞭な黒い衣装に、白い薄衣で顔を覆い隠している。ちらりと覗く唇は鮮血を塗りつけたように赤い。


 玉座を模した椅子に腰掛ける男が手招きをする。

 男の名は董正康。承書令と呼ばれる皇帝直属の秘書官だ。元は勅書を扱う文書係で、ここ百年の間に政治への影響力を強めていた。

 地方出身の文官だが、読み書きの能力に長けていたことから県令に推薦され、宮廷に詰めることになった。董正康が三十五歳のことだ。以来、才覚を現わし五年で承書令の長に上り詰めた。


 女は妖艶な笑みを浮かべ、玉座へ近付いてゆく。踵の高い沓が大理石を叩く甲高い音が響く。独特な歩き方はどこか不安定で、いやに扇情的に見えた。女は龍の肘掛けに腰を下ろす。董正康の首に白い腕を絡めると香水の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


 董正康は女の纏う薄衣を剥ぎ取る。形を整えた細い眉、長い睫毛に目尻の吊り上がった深い蒼色の瞳、小さな鼻腔に肉感的な唇。異国の血を思わせる華やかな目鼻立ちの美しい女だ。

 女には特異な徴があった。右目を覆うように青黒い瘢痕があった。半身の蝶が羽根を広げた形だ。


 女は蔡青花と名乗った。占い師として宮廷に出入りしていた。一際目立つその美貌に目をつけた董正康が青花を囲い入れた。

「この国の王になりたいと思いませんか」

 夜伽のあと、青花は甘い声で囁いた。旧来より身の丈に合わぬ野望を抱いていた董正康は、青花と手を結ぶことにした。


 青花は古の蠱術師の家系だった。秘伝中の秘と謳われた強力な蠱毒の術を代々受け継いでいた。呪殺を生業にしていた蔡家は、怨念染み込む黒い金で莫大な富を築いた。

 しかし、遼河国が建国と同時に蠱術を禁じたことで蔡家は没落し、家族は散り散りになった。国への貢献となる薬師や医師へ転向と地位の向上を提示され、多くの蠱術師はその恩恵を享受したが、蔡家はかたくなに従わなかったのだ。


「奴らの祖先は蔡家の蠱術に頼り政敵を退けたくせに、即位したと同時に仕返しを怖れて蠱術を禁じた。厚顔無恥にもほどがある。遼河国など滅びるといい」

 青花は母の吐露する国への呪詛を子守歌代わりに聞いて育った。蠱術師としての矜持を捨て切れなかった蔡家は迫害され、忌み嫌われた。

 遼河国を滅ぼすこと、復讐こそが青花の生きる目的となった。


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