第8話 茶館烏鵲楼

 朝一番の仏法が終わり、伊織は廐に顔を出した。鶺鴒せきれい寺では移動手段として馬を飼育している。伊織に懐いている山羊の花々が柵に近付いてきた。伊織は餌箱に積まれていた人参の切れ端を食べさせてやる。

「博兄、小雪を連れていくよ」

 伊織は廐当番の王博に声をかける。曹瑛から預かった小雪を廐に匿ってもらっていたのだ。


 下宿しながら寺で学ぶ者は掃除や飯炊きなどの当番があり、自律した生活を送っている。伊織は飯炊き係だ。遼河国は食材と調味料の宝庫で、兄弟子に仕えながらようやく一通り使いこなせるようになってきた。

「可愛いけどなかなか気難しい奴だ」

「小雪は人見知りかもしれないね、面倒を見てくれてありがとう」

 小雪は伊織を見つけ、ずんぐりした身体を左右に振りながら短い足でぺたぺた近付いてきた。


 伊織は小雪をおくるみに包み、首から提げた。曹瑛との約束を果たすため、千都の烏鵲楼へ向かう。鶺鴒寺は郊外にあり、千都まで広大な麦畑を通り抜け、橋を渡り鎮(村)を二つ越えなければならない。

「夕刻には戻ります」

「気をつけてな」

 博兄に見送られ、伊織は小雪を連れて鶺鴒寺を出発した。


***


 伊織の生まれは天陽国、穏やかな内海沿いの漁師町だ。気性の荒い漁師の祖父に幼い頃から海に連れ出され、泳ぎや漁を習った。温厚な父母は村の役所勤めだ。

 伊織も父母に倣い役所勤めをして上司の勧めで見合結婚をして家庭を持つ、そんなごく平凡で幸せな人生を思い描いていた。


 あるとき、山を越えて焼き物の行商に来た老人がいた。山奥の小屋に住み、土を捻って壷や食器を制作しているという。その素焼きの器は炎が作り上げた芸術だった。窯の温度や土の性質により、色味や文様が異なり同じものは二つとで生まれないという。

 素朴な土色をした焼き物に伊織は魅せられ、夕雲せきうんと名乗る老人を師匠と仰ぎ弟子入りすることになる。伊織が十八歳のときだ。


 役所の仕事と二足のわらじで陶芸を学んだ。週に二度の休みには山向こうにある窯元へ泊まり込んだ。

 昨年のことだ。夕雲が床に伏せるようになった。離縁した妻が戻り彼を看病するが、一向に回復しない。

 そこへ、役所から遼河国への留学の下命があった。伊織は文字や律令、仏法を学び、持ち帰る使命を帯びて船に乗ることになる。先進国である遼河にはまだ見ぬ霊薬がある、恩師夕雲を救うという希望を胸に抱いて渡航した。


 春風そよぐ青々とした麦畑を貫くあぜ道を歩く。遠くに伸びる黄色の帯は菜の花畑だ。花曇りの空に霞がたなびいている。遼河の国土は広大だ。海と山に囲まれた狭い土地で育った伊織は初めて地平線というものを目にして、いたく感動したことを覚えている。

 途中立ち寄った五橋鎮の農家の軒を借りて休憩し、小雪に水を飲ませる。庭先で遊ばせておいたら鶏が小雪を追い回し始めた。


「あっ、こらっ」

 伊織は慌てて小雪を抱きかかえる。鶏と同じ飛べない鳥だが、見た目が奇異な小雪はどこへ行っても仲間はずれにされてしまうのだ。農家の親父に礼を言って、千都を目指す。

 遼河国の首都、千都はかつて仙都と呼ばれていた。遼河建国五百年を機に、このさき王朝が千年続くようにと当時の皇帝の命で改名された歴史を持つ。


 千都は四方を堅牢な煉瓦造りの城壁に囲まれており、内側は碁盤の目のように区画整理されている。都へ出入りする北側の正門は孔雀門で、その正面からのびる都の目抜き通りである神雀路を進めば鳳桜宮への通用門、豪奢な装飾の施された金雀門へ突き当たる。門の屋根に金色の孔雀が羽を広げた像が建つ。


 神雀路の左右には寺院や貴族の邸宅の他、学校や市場、食堂に雑貨屋、診療所、宿屋、演劇小屋と何でも揃う。政治と文化、産業の発展した千都は世界随一の都と謳われ、交易も盛んで異国の使者は千都を目指してやってくる。

 伊織は神雀路の雑多な人混みをかき分けて、商店が軒を連ね呼び込みの喧噪が飛び交う脇道へ入る。


 曹瑛に聞いたのは翡翠路五の八、大通りから五区画ぶん奥まった路地だ。三階建ての楼閣があり、達筆な文字で烏鵲楼と書かれている。

「ここが烏鵲楼か」

 反り返った破風を持つ壮麗な楼閣だ。陽光を浴びる黒い屋根は角度によって青く見える。烏鵲という鳥は艶のある黒い羽に白い腹、深みのある瑠璃色の尾を持つ。その名を冠した建物の意匠が感じられた。


 伊織は赤い提灯が揺れる格子戸を開ける。

 店内は格子文様の燈具が天井から吊られ、喫茶用の机と椅子が並ぶ。店内は茶会を楽しむ客で賑わっている。昼時を過ぎたところだが、軽食を注文する客も多い。

 巨大な欅の一枚板の机の前に立ち、茶を淹れる細身の黒い長袍姿の男を見つけた。


「瑛さん」

 伊織は机の前の椅子に腰掛ける。

「何か食べるか」

 曹瑛は竹簡を綴り合わせた品書きを差し出す。伊織は飲茶膳を注文した。

 茶館である烏鵲楼は千都に集まる各地の珍しい茶を仕入れており、種類豊富に取り揃えている。他の茶館と違うのは、朱鷺山に隠居する曹瑛が育てる希少で高品質な茶が飲めることだ。茶通なら烏鵲楼を選ぶ、とは常連客の言葉だ。


 店の奥は池のある庭園に突き出した解放席がある。美しい庭園を眺めて贅沢な時間を楽しめるこの席は、天候の良い日はすぐに満席になる。

「世話になった」

 曹瑛は小雪の脇を抱え、庭園に離す。小雪は蓮の浮かぶ池で気持ち良さそうに泳ぎ始めた。足の短さゆえに地上での動きが緩慢だったが、水中で見せる俊敏な泳ぎに伊織は驚く。優雅に泳いでいた錦鯉たちが慌てて散っていく。


「おまちどおさま」

 壮年の店主が飲茶膳を運んできた。花巻に翡翠餃子、小籠包、海老入り遼河麺、胡麻団子。

「すごい、美味しそうだ」

 見栄えも味も良く、量も申し分無い。

 曹瑛が禹山花茶を淹れる。都の南方にある雨の多い禹山に生える木から採れる茶で、春先に新茶が出てくる。烏鵲楼では一足先に仕入れて出している。

「足し湯をして、五煎目まで風味の良い茶が飲める」

 曹瑛は伊織の机に鉄瓶を置く。


 烏鵲楼は主人の李海鵬と妻が切り盛りしており、忙しいときは近所にある語学院帰りの若者が臨時で手伝いにくる。曹瑛は李海鵬との縁で烏鵲楼に茶葉を卸しており、千都に滞在するときは二楼の空き部屋を常宿としている。宿を借りる代わりに店を手伝っているらしい。

 眉目秀麗、学者顔負けの茶葉の知識がある曹瑛は客の間でも密かな支持者が多く、彼が店を手伝っていると知ると、語学院の女学生や貴族の奥方が詰めかけるので烏鵲楼では売上げが一気に伸びるという。

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