第5話 毒蛇の襲撃
男が連れてきた馬は艶やかな黒い毛並み、取り付けてある馬具は緻密な金の装飾が施されている。鳳桜宮は千都の中央道路である神雀路の最北端に位置する皇帝の住む宮廷だ。
「曹瑛、急ぎだと言っている。鳳桜宮に毒蛇が放たれ、噛まれた廷臣たちが高熱に苦しんでいる」
曹瑛は男の切羽詰まった様子に小さく舌打ちをした。
「典医の華慈が対処に当たっているが、手が回らない」
男はそっぽを向く曹瑛に何やら耳打ちをする。曹瑛は微かに目を細め、仕方なさそうに頷いた。そして伊織を振り返る。
「伊織といったな、おそらく数日仕事になる。小雪を連れて山を下りてくれ」
「わ、わかりました」
曹瑛は人助けのために下山しようとしている。協力しないわけにはいかない。
「翡翠路五の八に
曹瑛は籐で編んだ行李に荷物を詰めて肩にかけた。軽やかな身のこなしで黒毛の馬に飛び乗る。馬のたてがみを撫で、腹を蹴る。
「行くぞ、
「おう」
使いの男とは旧知の仲のようだ。曹瑛は孫景とともに砂塵を巻き上げ、坂道を馬で駆けていった。
草蘆の前で馬の尻を見送った伊織は拳を握り絞める。曹瑛は伊織の望みをきくと言っていた。これで師を救う霊薬が手に入る。
「小雪、一緒に行こう」
伊織は庭へ駆け戻る。小雪は鴉につつかれて逃げ回っている。
「こ、こらっ」
この周辺に生息しない奇妙な生き物なのでいじめに遭ってしまうのだろう。伊織は声を張り上げて鴉を追いはらった。小雪をおくるみに巻いて胸元に括り付け、下山を始める。
目指すは翡翠路五の八にある茶館、烏鵲楼だ。
***
宮廷を囲むのは煉瓦造りの高い城壁だ。曹瑛と孫景は馬を降り、正門である金雀門の門兵に声をかける。二階建ての構造を持つ鳳桜宮で一番立派な門だ。二階部分に弓を肩にかけた見張りの兵が並ぶ。
「典医華慈の使いで参った」
孫景が栗皮色の着物の胸元から取り出した通行札を提示する。門兵は厳めしい顔で札を改め、通るよう指示する。
「こういうのが面倒だ」
「仕方ないだろう、宮中を馬で駆けたら即刻死罪だぞ」
孫景は不平をのべる曹瑛を宥める。
儀礼の場でもある広大な庭園を抜け、鳳桜宮本殿へと足を進める。普段、文官や女官が行き交う朱塗りの回廊には人気がない。
「一昨日の深夜のことだ。宮廷内に突如毒蛇が現われた。それも大量にだ」
孫景の話では、それは墨に浸けたような真っ黒な蛇で、噛まれた者は傷口が紫色に腫れ上がり高熱に苦しんでいるという。武官が中心になり、大半を駆除できたがまだ物陰に潜んでおり、被害は続いている。
「学者によれば、この辺りで見ない種なんだと。南方に住んで身体も一回り大きく、毒性が強いらしい」
「そんなものが大量に発生するとは、妙な話だ」
回廊を歩きながら曹瑛は眉根を顰める。
天井からしゅるしゅると不気味が音が聞こえる。黒いものが曹瑛の首筋目がけて飛びかかってきた。
曹瑛は帯に差した扇子を薙いだ。足元に胴を真っ二つにされた黒い毒蛇がのたうちまわっている。扇子を振り、仕込み刃に付着したドス黒い血液を払う。
「凶暴性も高いな。蛇はこちらが危害を加えようとしない限りは襲ってこないはずだ」
曹瑛は毒蛇の頭を沓先で踏み抜いた。
「華慈翁は毒蛇に噛まれた者の治療で寝る暇もない。それで旧知であるお前に助けを求めたというわけだ」
治療は官位が優先され、高熱に冒されたまま死ぬ者もいるという。
「患者は平等だ、そういうところも気に食わない」
曹瑛は吐き捨てるように言い、扇子を帯に差した。
華慈のいる医局は宮廷の左端に位置する。格子扉を叩くとすぐに見習いの男が顔を出した。上背のある曹瑛を見上げ、深々と礼をする。
「お待ちしていました」
医局では解熱薬や塗り薬の処方で若い医者たちが多忙を極めていた。部屋の奥でひっきりなしに指示を出しているのは華慈だ。すっかり白くなった頭と豊かな口髭をたたえた姿は疲弊してずいぶんやつれて見える。
「おお、曹瑛。来てくれたか」
「ご無沙汰しています、華慈殿」
曹瑛は華慈の正面に膝をついて拳を胸の前で重ね、
「咬傷の抗炎剤と解熱剤を処方しているが、付け焼き刃にしかならぬ。お主の知恵を貸してはくれぬか」
遼河国で最高の医者と名高い華慈だが、突然降りかかった毒禍に対症療法しかできず、困り果てている。
「個室を貸してもらえないか」
「わかった、用意する」
曹瑛の希望はすぐに叶えられた。医局の奥にある研究室を自由に使って良いことになった。
「孫景、毒蛇の捕獲に手を貸してくれ」
「おう、いいけどよ」
孫景は武官が蛇を捕獲するのに使った蛇捕獲棒を用意した。中が空洞になった棒に先を丸めた鉄線が通してあり、蛇の身体に通して鉄線を引けば捕獲できる仕組みだ。
「中庭にはまだ多く潜んでいるらしい」
孫景に案内され、空中回廊をくぐり宮廷中庭へ向かう。庭木や石、池と自然豊かなな宮廷様式の庭園は蛇の隠れる場所に適している。
「咬まれたら俺たちも終わりだ」
孫景は捕獲棒の先で恐る恐る叢をつつく。曹瑛は庭石の影を捜索する。
「お前が華慈が呼んだという男か」
石橋の向こうに甲冑を着た男が立っていた。装飾の派手さから最高位の武官と思われる。左目の端に歴戦の勇士を思わせる大きな刀傷が見えた。曹瑛を値踏みする視線を向ける。
「そうだ」
「早いところこの騒ぎを収集してくれ。老いぼれの手には負えないようだ」
いかにも猜疑心が強い、底意地の悪い顔相で口元を歪めて笑う。哄笑しながら側近とともに宮廷の裏手に消えていった。
「あいつは気に入らない」
曹瑛はあからさまに不快な表情を浮かべる。
「ああ、嫌な奴だ。あいつは黄維峰、禁軍を率いる男だ。偉そうにしやがって、今回の毒蛇の件も下っ端の警吏に丸投げだ」
孫景も良く思っていないらしく、吐き捨てるように言う。
「ひえっ」
孫景が少女のような甲高い叫び声を上げる。
「どうした」
毒蛇に咬まれたかと曹瑛が駆け寄ると、松の枝に張った蜘蛛の巣に突っ込んだらしい。
「お、俺は虫が苦手なんだ」
大きな女郎蜘蛛を顔面に張り付けた孫景が慌てふためいている。曹瑛は大きな溜息をついて、毒蛇を探し始めた。
池の中央に建つあずまやに人影があった。ふと池を見れば、黒い帯があずまやに向かって泳いでいく。曹瑛は石橋を駆けた。水中から柱を伝い、床に這い上がってきた毒蛇が青年を狙っている。
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