君は青色

海野夏

✳︎

「ねぇ、チカ。やっぱもう帰らない?」

「まだ!」

「えぇ……」


靴も靴下も脱いだチカが砂浜を駆けていく。何か叫んでいるがよく分からなかった。チカの声を聞かすまいとするように、春先の、生ぬるい風が潮の香りを巻き込んで髪をかき混ぜていった。冬の名残りの分厚い灰色を抱えたままの海は、手を差し込むと冷たかった。やっぱもう帰ろう。


昨日、いつものごとく遊びに来たチカに、海に連れていけと言われた。


「ライブ、明日はないんでしょ? バイトは?」

「ないけど」

「じゃあ決まりね」


俺がチカに弱いことを知っていて、その理由を考えないまま利用する。与えられる特権を特権と思わないで与えられるまま当然のように感受する。このどうしようもない従妹がいっそ愛おしい。

確かにライブもバイトもない。が、夜に他のバンドの奴らと飲んだ明くる日に来る海はなんとも言えない虚無感だ。

俺を使い倒す権利なんて、誰も必要としない。何の価値もない。ならばチカにこうして使ってもらえるなら本望だろう。そう言い聞かす。


「ミナトくん元気ないね」

「売れないバンドマンには悩みが尽きないんだよ」

「あは、可哀想」


いつの間にかチカが戻ってきていた。


「素足で寒くないの」

「全然。若いから」

「そーね」


俺がもう少し若かったらね、今のバンドももっと上手く宣伝して立ち回れたかもしれないし、チカに好きだよと言えたかもしれないし、春先の灰色の海も鮮やかな青に見えたかもしれない。

……実際若かったところで、当時の俺もそんなことなかったので上手くはいかないんだな。思い出して笑えた。


「元気ない悩めるバンドマンに元気あげよっか」

「何してくれんの」

「目閉じてて」

「ん。何、キスとか?」

「それはダメ」

「知ってる」


目を閉じるとチカの声と波と風の音だけが世界の全てになる。チカが何するつもりなのか分からないけど、チカなりに気を遣ってくれたのかもしれない。


「いいよ!」


早く目を開けてと催促するチカに何事かと視線を向けると、コートとスカートを脱いだチカがいた。シースルーのロングシャツのワンピース越しに青い水着がよく映える。

チカが何でこんな格好してるのかちょっとよく分からないけど、似合ってることは分かる。


「じゃん! 似合う?」

「……似合う」

「でしょ〜? 去年着ようと思って買って結局その後海もプールも行けなくて、仕舞い込んでたの見つけたんだよね」

「だから急に海か……」


着るなら家でも良いのではと思ったが、それを言えばへそを曲げてしまうだろうな。チカはスマホを取り出すと海をバックに自撮りしていた。上手く撮れないのか、首を傾げている。


「待ってその一枚は脱がないで」


とっさに手を掴んで止めた。既に第一第二ボタンは開放されているが、それ以上はダメだ。チカは何するの、という顔で見ていたが、さすがにね。


「その写真はどうするの」

「後で上げるつもり」

「じゃあダメ」

「えぇ〜……」

「チカ、俺が大人で良かったね」


チカはぱち、と目を瞬かせた後、


「大人だから、大丈夫って知ってるもん」

「服着て」

「はぁい」


大人なんてね、臆病でヘタレで頭が固くてズルい生き物だから、あの頃みたいな鮮やかな色が分からないのは罰なのかもしれないよ。

どう思う、チカ。

俺は、自分に分からないなら、あの鮮やかな青が分かる誰とも共有したくないよ。

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