二枚の紙皿が重なるとき

沢城采奈

二枚の紙皿が重なるとき

 彼女と出会ったのは、未だ昨日のように感じられる初夏の頃であった。

 僕は大学が夏休みに開講している泊まり込みのゼミに参加し、そこで彼女と意気投合した。彼女ーー神子さんとは、生態系に興味があるという共通点から話が盛り上がり、初対面の相手とは滅多に話ができない僕には珍しく、その日のうちにインスタグラムまで交換した。当時の僕は神子さんと話す時間を一夜の夢のように捉えており、ゼミが終わったらこうして顔を合わせることはないのだろう、と考えていた。しかし、その後も彼女から連絡が来て、今日のように時々会って、何をするともなしにこうして時間をともにする機会が幾度かあった。

 今日は僕から提案をして、11時に中目黒駅に集合した。以前彼女が言っていた、「チーズケーキが一番好きなの」という言葉を当てに、僕なりに一生懸命調べて見つけた店がこの付近にある。慣れないインスタグラムを繰って、友人の中で一番モテる奴にも聞いて練り上げたプランであった。僕は、神子さんに今日告白する予定だった。

 「おしゃれな街だね」と右隣に立つ神子さんが、どこか眩しそうな顔で呟く。確かに中目黒の街並みは洗練されていて、僕のような根っからの陰キャとは歯車が噛み合わない感じがした。きっと、ずっといたら疲れてしまう。そんな風に萎縮する僕とは違って、神子さんはこの街に似合っていた。

 「この近くに美味しそうな店あるから、移動しようか」そう言って川沿いを二人、歩き出す。この日は少し肌寒く、しかし確実に春の訪れを感じさせる晴天だった。僕たち二人が並ぶと普段から口数少なめではあるが、今日はなんだかいつにも増して沈黙が長い。近くにあるはずの美味しそうな店は、実際には歩いて15分ほどのところに立地していた。神子さんが疲れていないか、退屈じゃないか心配して僕は横目で彼女を盗み見る。その表情から、僕の心配が杞憂であるとわかった。神子さんは大体いつも楽しそうにしている。それは彼女の魅力を挙げていくとき一番最初に浮かぶことで、全人類が見習うべきだと思う。逆に怒ったり機嫌を悪くしているのを見たことがないので、心配になる程だ。

 店に入り、神子さんは煎茶レモングラスと、アボカドのホットサンドを注文する。その組み合わせすらおしゃれに感じる。僕も同じサンドイッチとソイラテを頼み、料理が来るまでお互いの春休みの話やバイトの話でそれなりに盛り上がった。食べ終わると同じ道を戻り、東横線で二駅移動した。都立学園駅に電車が止まったとき、僕はこれから自分がしなければいけないことを想像して急に緊張してきた。

 神子さんに食べてもらいたいチーズケーキ屋は駅のすぐ南側にあった。外装はほぼ民家のような感じで、看板が出ていないと気が付かないくらいであった。店で二人とも同じ定番のチーズケーキを頼み、そこで初めて僕は店の中に食べるスペースがないことに気がついた。神子さんが「この辺で座れるところありますか」と聞いてくれて、教えてもらった公園を目指す。

 公園は歩いて3分ほどのところにあった。思っていたよりも大きく、入ってすぐのところに広場があって小学生が十人ほど遊びにきている。午後の穏やかな陽気がこの辺り一体を覆っていた。階段で上の方に上がれるようにもなっていて、そちらには遊具があるようだ。子供達のはしゃぐ声が聞こえてきた。一人で来ていたら、ゆっくり小説でも読みながら夕方まで過ごしたいと思える、居心地のいい公園だった。広場の近くには日本庭園風にデザインされている空間があって、僕たち二人は池のすぐ近くにあるベンチに座った。チーズケーキの入った紙袋を膝の上に置く。「ふふ、どう食べるのが正解なんだろ」と神子さんが笑った。

「もしよかったら、紙皿」と僕がいい、カバンから紙皿を出してそこで初めて自分がいかに気持ち悪い人間か自覚した。どれだけ用意周到な人間なんだろう僕は。お手拭きとかならまだしも、流石に紙皿はない。完全に浮かれすぎている。神子さんの方を見ようと気持ちが先行するが、彼女がいつもたたえている笑顔が苦虫を噛み潰したような顔に変貌を遂げていたらどうしようと思って、僕はそちらを向くことがどうしてもできなかった。ここで少しでも神子さんに拒絶されたら、僕はこの場で自死してしまうかもしれない。その際には彼女に介錯を頼みたいものだ「あははっ」彼女の笑い声が頭上で弾け、反射的に僕はそちらの方を見た。神子さんはいつも通り、いや、いつも以上の満面の笑みを浮かべている。笑い声が幾分落ち着くと、彼女は自分のカバンに手を突っ込み、「実はね。」と白い紙皿を取り出した。「私も持ってきてたんだ」そう笑う彼女の歯は紙皿の白よりも眩しい。僕は彼女のことを思ったより好きになっている自分に気がついた。

 チーズケーキは予想よりもずっと美味しかった。クリームチーズが練り込まれていて、濃厚な風味と控えめな甘さが僕の好みにピッタリ合っていた。神子さんも美味しいと言っていた。近くで子供たちがサッカーをしていて、正面でボールが蹴られるたびそれがこちらへ飛んでこないかと危うさを感じる。やや急かされ気味になりながらチーズケーキをたいらげた。思うにここは、告白には向いてない気がする。ガキンチョもいるし。少しこの公園内を歩いてみようか、と画策し、二人でベンチを後にする。「この紙皿、捨てるところないかな」と2枚の紙皿を持った神子さんが言う。「あ、僕が持つよ」と、僕は良い所を見せようとして食い気味に反応してしまう。神子さんは笑って紙皿を渡してくれた。そして「この辺ゴミ箱見当たらないし、せっかくだから公園の中見て回ってみようよ」と提案する。僕は直感的に、この紙皿を捨てたら、用意してきた言葉を言おうと思った。

 しかしここからが地獄だった。

 歩けども歩けどもゴミ箱は見つからない。体感では十分間はこうしているような気がする。二人とも周りに注意して歩いているせいで会話も特にはない。これは失策だった、と気がつくが、すでに僕にとってゴミ箱は験担ぎ的な存在になっており、ここでその捜索を諦めたら今日1日が失敗するような気がして、引くに引けない状態になっていた。3月の少し冷たい風が指先を冷やしながら、僕が手に持った紙皿を揺らす。……諦めて他の場所を探す?それか…私が持ち帰ろうか。「いや、それはいい」無愛想な言葉。「え、」と戸惑うような神子さんの声に、意識レベルが急上昇する。「ん?」ハッとした。あれ、今のは僕の心の声ではなくて、神子さんが僕に質問していたのか。考え事をしていたせいで何も意識していなかった。神子さんの方を見ると、彼女もまた僕の方を見ていた。その表情は硬い。

「…そっか。この公園ゴミ箱なさそうだから、他の方法あるかなって思ったんだけど。」「いや今のはなんというか、その………ごめん考え事してて、無意識に出ちゃったというか、そういうあれで…………………」

…………

空気が重い。

「うん、そうだよね…そうなんだろうなって思ってたんだけど、今のは………」

10秒の沈黙。

「私、今日は帰ろうかな。ごめんね変な空気にして。」

僕は神子さんの表情を見ることができなかった。彼女はどんな顔をしていたのだろう。きっと、今までには見たことのない顔をしているのに違いなかった。

「今日は誘ってくれてありがとう、⚪︎さん。私の分の紙皿はもらっていくから…」

右手で持っていた紙皿が、一枚分軽くなるのを感じた。たった一枚残った紙皿は軽かった。僕はしばらく動けずにいた。



 時刻は夕暮れに差し掛かろうとしていた。僕はあの公園での出来事以来、ゴミ箱を探すのをやめられなかった。どのゴミ箱でも良いわけじゃない。中目黒にある何個もの公園を巡って歩道沿いに置かれているゴミ箱を探し歩いていた。

 さらに無限とも思える長い時間をゴミ箱探しに費やした。もはや僕は、何の為に箱を探しているのか分からなくなってしまっていた。大切な用事があったはずなのに。用事?ゴミ箱に?右手に持った一枚の紙皿についていた少しのチーズ。それも今や風に攫われ、紙皿は真っ白になってしまっていた。あのチーズをもっとよく観察していれば、何か大事なことを忘れずに済んだのかもしれない。…いや、最初からゴミ箱に用なんて無かったのではないか。なぜ僕はそこまでゴミ箱に執着しているのだろう。杉の木の花粉と、数時間水も取らずに歩き続けていた疲労とが、僕の思考力を奪っていた。

 帰ってゴミ箱に捨てよ。

 そう思い、僕はある種の満足感を感じながら家路に着くことにした。しかし、そう決心しても心の中には不快な感情が残っていた。焚き火をした時の煙のような不快感、どこか自分自身の行動に対して訝しく思う気持ちがある。どうして僕はこんなにモヤモヤしているんだろう。何を忘れているんだろう。そんな突発的な不安の発作に襲われ、助けを乞うように辺りを見渡す。パッとしない住宅街。奥の方に公園が見える。そうだ、最後にあの公園に寄ってみよう。そこに僕が探しているあれがなければ、全て諦めて家に帰ろう。

 夜のとばりも半分近く降り、あたりは一層冷え始めていた。公園内に人の姿はほとんどなく、時折ジョギングをする人とすれ違うくらいだ。皿を持つ右手は血が通っていないのかと錯覚するほど冷たくなっていた。僕はもうほとんど何も考えないまま公園の歩道を歩いていた。ゴミ箱を探しているのかさえ分からなくなっていた。もう全てがどうでも良くなった気がして、次に出口があったら家に帰ろうとしていた。近くにベンチと机があり、その上に紙皿が置いてあった。




 「あ」


この紙皿。


これは。


僕の。


 その紙皿の白さは彼女の顔の明るさを想起させた。端っこの方についたチーズケーキのかけら。僕はなぜ、今まで忘れてしまっていたのだろう。僕が本当に探していたのはゴミ箱ではなく、彼女だ。探さないと。会いたい。この紙皿を置いて行った神子さんに。机の上の紙皿に僕の紙皿を重ねた。2枚の紙皿はぴったりと隙間なく重なった。「まだ…温かい。」神子さんはきっとこの近くにいるはずだ。僕は柄に合わず走り出していた。



「神子さん!これ、……忘れてる。」

その声に足が止まる。振り返ると、後ろには息を切らせた⚪︎さんが立っていた。走ってきたのか顔が赤いし、髪も乱れてしまっている。そしてその手には、見覚えのある白い紙皿が二枚。え、と思わず声が出てしまう。⚪︎さんと別れてから数時間、どうしても踏ん切りがつかずに、この中目黒中の公園を巡ってゴミ箱を探していた。正直、ゴミ箱のある公園には何個か当たった。しかし、どうしても⚪︎さんの持っている、⚪︎さんの紙皿をそこに捨てる気にはなれなかった。理由には心当たりがあった。だから、いっそ最後に来たこの公園に、紙皿を置いて帰ってしまおうと思っていたのに。

「なんで来ちゃったの、⚪︎さん」⚪︎さんは少し息を整えて、「ごめん、でも…」「あ、責めているんじゃないよ」狼狽える⚪︎さんに慌ててそう伝えると、少し安心した顔になる。

 「この公園にはゴミ箱あったから、一緒に捨ていこっか。」と言って、⚪︎さんに紙皿を一枚渡すように手を差し出す。「そっか、じゃあ行こう」⚪︎さんはそう言って紙皿をこちらに渡しかけて、ふとその手を止めるーーー「どっちが僕のだっけ。」

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二枚の紙皿が重なるとき 沢城采奈 @mutego

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