④「失ったボクたちは、」

夜子さんの出した結論に、おれはひどく混乱していた。

荒唐無稽だし、そしてなにより、


「結論が早すぎないか!?

まだなにも言ってないんだけど……」


示談の際に聞いた当時の状況、

負った怪我の症状、

そもそも野球部員であることすらも。

なにひとつ、伝えていない。


「何も言わなくて構わないよ。

いや、むしろ黙っていた方が都合が良いだろうね」

「……どういう意味なんだ?」

「ボクはあの日の記憶を持っていて、キミは持っていない。

一方キミは事実という答えを持っていて、ボクは持っていない。

互いに欠けた二つのピース——ボクはそれを繋ぎ合わせない」

「えーと……どゆこと?」

「今この場においてキミが頼れるものは、ボクの記憶以外に存在しない。

しかし、ボクは記憶と事実をひと括りに出来るほど、高慢になったつもりもない。

立証可能な事実と違い、記憶はかくも不確かで曖昧だ。


……、それをよく知っているだろう?


だからこそ、記憶だけで推理する意義がある。

これは一種の保険と思ってくれて構わない。

キミは事実と照らし合わせて、ボクの記憶の確からしさを担保してくれたまえ」

「つまり…………どゆこと?」

「まったくキミは、ボクの喉をカラカラにしたいのかね?」

「喉乾いちゃった?お茶買ってくるよ」

「嫌味だよ!嫌味っ!

そんな事も分からないのかねキミは!?」

「あっ、おれのことか。それはよかった」

「良くないし本当に渇いたよ!

それにキミの施しを受けるつもりは毛頭ない!」


私物置き場と化した背後の棚。

夜子さんは後ろも見ずに手を伸ばすと、小さな水筒で唇を湿らせた。


「んぷ……ふう。

まあ、キミの呆れるまでの愚直さは長所とも言えるがね。

疑問の先送りとは理解の放棄だ。そんな輩にくれてやる言葉はない。

それに約束をしたからね——ボクが、欠落した記憶を紐解いてみせると」

「……聞いてばっかだな」

「ボクは別に構わないが、放課後の終わりタイムリミットも忘れないでくれたまえ。

せいぜい、この水が尽きるまでにたどり着く事を願うよ」


潤いを取り戻した口取りは軽い。

これまでのやり取りで分かった。

夜子さんは地雷——嘘偽り——さえ踏まなければとても寛容だ。

知らないことを聞くぶんには、機嫌を損ねることはない。

それどころか、何かを教えてくれるときの夜子さんは、どこか親しげですらある。

偉そうな口調とそれに反した可愛げな声が、ピアノソナタの旋律に乗せられて、この殺風景な旧保健室を満たしてくれる。

ころころと変わる色鮮やかな表情を、ずっと、眺めていたくなる。


「……なんだね、その呆けた表情は?」

「ごめん、ちょっと考えごとをしてた」


嘘は言っていない。

なにを考えていたかなんて、言えなかった。


「では、続けて構わないね。

……ハッキリ言おう。


…………ボクは、記憶ボクを信じてない。


それでもキミには、記憶ボクを信じて欲しいんだ」

「元からそのつもりだよ。俺は信じてる」

「それはボクの推理能力についてだろう?」

「いいや、夜子さんのぜんぶ」

「……ふぇ?」


本当を言った。

おれは記憶おれを信じたからこそ、松江先生の言葉に屈することなく、旧保健室に来れた。

そして、こうして出会えて、間違いなく確信を持てる。

夜子さんは気難しくて、どこかズレていて、たまに怖いけれど——優しくて良い子なんだ。


「昔の夜子さんは知らない」


踏みこんではいけない。

そうわかっていても——どこか陰りの差した表情を見ると、放ってはおけなかった。

それに、夜子さんはおれをひっくるめて〈ボクたち〉と言ってくれた。

だったらそれは、〈おれたち〉でもあって、


もう、他人ひとごとじゃないんだ。


「けど、いまおれの目の前にいる夜子さんは、どこもおかしくなんてない。

だから、いまの記憶じぶんを信じてほしいと思ってる」


夜子さんの表情がころころと変わっていく。


「……えっと……あの……うう……っ……」


夜子さんは両の指を遊ばせる。


「う、うれ——違っ……そういう話じゃないんだ……これは、その……」


珍しく言葉を詰まらせて、どこかせがむように一言だけ。


「……五分延長」

放課後の終わりタイムリミットを?」


なにが言いたいのかはわからないが、なにを指しているのかはなんとなくわかった。


……おれは通訳か?


「——そうだよ!ちょうど!いま!ボクは音ゲーが猛烈にしたくなったんだよ!そもそもキミの入室があと数秒でも遅ければ!あの鬼畜譜面をパーフェクトクリアしていたのに!よりにもよっていちばん発狂アバレの激しいタイミングで!」


「さすがだなあ、知らない世界だ、すごいよホント、センスあると思う、そうだねおれがわるい」

「静かにしたまア゙ア゙ア゙!グレたじゃないかキミのせいでぇ!まだ間に合うリトライ!今の押してない!リトライィ!」

「…………………………………………」


夜子さんはスマホを猛烈な勢いでタップし続ける。

小柄さにそぐわないふよふよとしたものが、ジャージのなかで波打つように上下する。

……たぶん、サイズ合ってない。


「一〇分延長っ!!」

「あ、はい」


目線を逸らす口実のようにスマホを取り出す。

通知を切ったままなので特にやれることもなく、夜子さんいわく憎き緑のポップアップの友だち一覧をぼうっと眺めていた。


「くそ判定っ!!」


涙目でスマホを布団に投げつける。

時間が経ったようだ。


+++++


袖で目元をゴシゴシ拭い、ティシュで鼻をチンとかむ


「——さて、仕切り直しといこうか」


可憐な笑みを浮かべながら、おれの方へと向き直った。


「お、おう」


本当に仕切り直してる。

あそこから威厳を取り戻すのか……。


「記憶の信頼性についてだったね。

ここにおける信じる信じないというのは、言葉うわべだけの信頼関係ざれごとを指すものではない……ではないが、」


そこで夜子さんは、わざとらしくコホンと音を立てる。


「キミがボクを全面的に信頼している事は伝わった。ボクとしても一々言説を疑われては気分が良くないからね。そしてキミは愚直ではあるが、愚鈍ではない。


……だから、今日に限り、キミの誠意に応えよう。

勿体ぶった言い回しは抜きだ。

ボクは言葉を加工しない、ありのままをキミに届ける」


夜子さんのガードが、少しだけ緩んだ気がした。

信用してくれて、


「ありがとう」


おれが居住まいを正すのを待ってから、夜子さんは本題に切りこんだ。





凪いだように静かな声。

気取ることなく、本心からそうするつもりなのだろう。

言葉の意味はわからない。

しかし、、夜子さんの意図はおれの信頼を裏切らない。


「続けてくれ」

「キミはが、やはりボクは記憶ボクを信じ切れない。


…………怖いんだ。


ボクは、不確かである事が怖いんだ。

だから、事実キミを使って、記憶ボクを確かめたい」


夜子さんは伏し目がちにおれを見た。


「これがボクの真意だ……許してくれるかい?」


「元々おれのわがままなんだ。許すもなにもない——ぜんぶ任せるよ」


夜子さんの事情は知らない。

そもそもいまから、なにをやろうとしているのかも知らない。

けれども、失われる苦しみを〈おれたち〉は知っている。

おれが親指を突き出すと、夜子さんはたちまち笑みを取り戻した。


「であれば、全てを言葉で再演しよう!

これよりあの日の出来事を、そこで起きたあらゆる事実を推理する。


——前提条件はボクの記憶のみ。勿論キミは事実を伏せたまま、だ。


事実と推理に齟齬が生じるならば、記憶ボクが破綻していることも分かるだろう?その時はその時さ、己の身の振り方は改めて考えるよ。


逆に二つが合致しているならば、記憶ボクの正しさが自ずと証明される訳だ。ボクは己の確からしさを手にし、束の間の安息を得る。


そして後者であれば、


だんだんと、言いたいことがわかってきた。

……同時に、寒気がした。


「夜子さんは記憶の間違い疑っている……で、合ってる?」

「何やら言いたげな様子だね?」


記憶が正しければ、約束は果たされる——すなわち、


「夜子さんは推理に……


確かに俺は、夜子さんを信用した。

けれども、これは——


「過ぎたる自己謙遜は嫌味ともなり得るだろう?

だからこれもハッキリと言うよ——ボクは謎解きが得意なんだ。


……ああ、そうだね。

推理というからにはフェアプレイでいこう。



ボクに与えられた推理材料ヒントは、キミが旧保健室ココにやってきて、倒れ込み意識を失うまでの



——そこで知り得た

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