②「だからボクを気遣うな!」

「――更なる高みにボクは行く!これで満点パーフェク――――ふぇ?」


おれに気づいた夜子さんは、崩れた笑みのまま凍りつく。

とっさに指で弾いてしまったのか、スマホが勢いよく滑り落ちる。


――気づいたときには、体が勝手に動いていた。


入り口からの距離を一瞬で詰めて、宙を舞うスマホをキャッチする。

……ところまでは良かったものの――床が埃まみれだったせいで、上手く踏み留まれなかった。

おれが尻もちを着くと同時に、粉塵がわっと舞い上がる。


……ってえ……。


想定よりも情けない動きになってしまったが、目的を果たせたから良し。


「いきなり驚かせて悪い。でもこの通り、スマホは無事だから――」


汚れを払って立ち上がると、ベッド上の夜子さんはむくれ顔でおれを睨みつけていた。


「んっ!んっ!んーっ!」


……鳴き声?

というかなんの動き?猫パンチ?


布団から離れるのが億劫なのか、体を動かすつもりはないらしい。

頬を膨らませながら両手で空を切る姿は、まるで餌をねだる小動物みたいでほほ笑ましかった。


「あー、渡せってコト?」


肩の上で髪を揺らしながら、そのスマホを寄越せと催促している……らしい。

思わずクスリと来てしまったおれに、夜子さんは唸り声で威嚇する。


「ごめん、ごめんって!はいこれ」


夜子さんはスマホをひったくると、次いでおれが入ってきた引き戸をビシリと指差す。

「おいそこ開けっ放しだぞ!」とでも言いたげな様子だったので、おれは慌てて戸を閉める。

そして戻る。


「――何故ボクが怒っているのか分かるかい!?」


すると態度からイライラがにじみ出ているのを見て、即座に理解した。


……これ絶対めんどくさいやつだ……。


女の子がこの〈モード〉に入ったらどうなるかを姉貴で散々経験しているおれは、すべての疑問をかなぐり捨ててフォローに徹した。


「……イキナリ入ってきて、ゲームの邪魔をしたことデスカ……?」


楽しそうに遊んでいたところに水を差したのは事実だ。

女の子の表情を曇らせてしまったことに対して、おれは申し訳なさを感じていた。


「そうだとも!あと少しでパーフェクトスコアだったのにキミのせいで台無しだ!この譜面だけの為にどれだけ練習したと思っているのかね!?毎日毎日指がりそうなほどだよ!!」


夜子さんは布団を両手でバンバン叩きながら、唇をわななかせて怒りを吐き出していく。


「……う、うぅ……ここまで上手くいったのは初めてなのに……うぐっ、嬉しかったのに……」


喋っている間に感極まったのか、しまいにはポロポロと涙をこぼし始めた。


「えっと、ごめん……そこまでとは思わなくて……」


なんて声をかけてあげればいいのかわからなかった。

白旗でも挙げたい気分だ。

しかし泣いている女の子を放っておくわけにもいかないので、必死に言葉をひねり出す。


「でも、さっきはあと少しだったんだよね?邪魔したおれが言うのもなんだけど、だったらきっと次も上手くいくって!納得いくまで付き合うからさ!」

「ひどく馬鹿にされたものだな!!そんな安っぽい慰めでボクの機嫌を取ったつもりかい!?」


夜子さんは涙目になりながら、八重歯をむき出しにして吠える。

――だが次の瞬間にはジャージで目元をゴシゴシ拭うと、ティシュで鼻水をズビビとかんだ。


「……極めて癪に触るが、キミの言い分も一理ある。失敗を妬んでいては、成功もままならない――〈妬みは魂の腐敗である〉と、かの哲学者ソクラテスも述べているではないかね!」


いつの間にか一人で勝手に納得したのか、今度はキリッとした表情を覗かせていた。


「いやはや、すまないね。ボクとしたことがつい取り乱してしまったよ」


なんとおれが入室してからの短時間で、夜子さんは器用にも喜怒哀楽を一巡させていた。


「ここまで情緒不安定な人初めて見た……」


思わず心の声が漏れ出てしまったが、当の本人は意に介していないようだ。


「しかしね、キミが来るなら予め教えてくれとあれほど莉霞りか先生には言っておいたというのに。普通なら連絡の一本でも入っている筈なのだが……むむっ、どうやら少し前に来ているね」

「ちゃんと通知されてなかったってこと?旧校舎ココの電波が悪いのかな」


スマホ片手の夜子さんは、ハッと顔を上げる。


「買ってからずっとおやすみモードにしてた!」

「それ買った意味なくないか!?なんで切りっ放しなんだ」

「そんな事も分からないのかね?プッシュ通知は全音ゲーマーの天敵なのだよ。あの憎き緑のポップアップを生かしておく道理がどこにある?」

「いやいやそうじゃなくて!普段から電話やメールが入ったときはどうしてるの?」


おれの疑問に対して、夜子さんは眉根を寄せた。


「電話?メール?……寝言でも言っているのかキミは。スマホはただのゲーム機だろう?」

「そもそもスマホは携帯電話だぞ!?」

「ではこれを見るがいい――ふんっ!」


印籠のように突き出してきたアドレス帳には、〈松江莉霞〉と〈ママ〉しかなかった。

マ行オンリー……。


「……なんか……おれが悪かった」

「ボクはね、何かにつけてコミュニケーションがどうとかのたま宣うキミのような人種とは違うのだよ。そういった煩わしい固定観念を押し付けるのはやめたまえ」


なぜか偉そうな態度を取っているが、そこにつっこむ気は起きなかった。


「……反応がないと松江先生も不安だろうし、いまからでも返信しておいた方がいいと思う」

「その行動に意味はあるのかい。何もせずともこの〈既読〉マークだけで伝わるではないか」

「ただの既読スルーじゃないのかそれは!?常識的に考えて言葉も添えるべきだよ!」

「キミはお節介な人間だな……まあいい。そこまで言うなら、今回はその常識とやらに従っておくとしよう」


夜子さんは唇を尖らせて渋々といった様子だ。

そうやってベッドの上でコロコロと表情を変える姿は――記憶に残っている印象とはまるで正反対だった。


ここに来るまでおれのなかにあった夜子さんのイメージ――俗世とはかけ離れた雰囲気をまとった、どこかミステリアスな女の子――はすでに消し飛んでいる。

実際の夜子さんはどう見ても煩悩まみれで俗世をエンジョイしてるし、ミステリアスと言うよりも、感情豊かすぎて捉えどころが見つからない。


しかしそれでも、記憶の少女その人であることに間違いないないだろう。

さっきまではドタバタでそれどころじゃなかったが、状況が落ち着いたいまならわかる。


――夜子さんは、ちょっと普通ではお目にかかることができないぐらいの美少女だった。


恐ろしいまでに目鼻立ちがくっきり整っていて、逆に周囲のものがぼやけて見えるぐらいだ。

そのせいか吹けば飛びそうなぐらいちまっこいのに、不思議と存在感を発揮している。

それにこうして横から見ると、予想外に柔らかそうな体つきをしているのがわかってしまった。


いまはベッドの柵にだらりともたれかかって、スマホの画面とにらめっこしている最中だ。

指先を動かしては止めてを繰り返しながら、ああでもない、こうでもないと独りごちている。

他愛のない仕草一つを切り取っても、まるで物語のワンシーンのように華やいでしまう。


……見間違えようがない。


過去あのときに抱いた胸の高鳴りと、現在いまも跳ねるこの鼓動が――おれにとっての答え合わせだった。


「……これで送信と。いやはや、慣れない社会的手続きは疲れるものだな」


一仕事終えたかのように感慨深げな夜子さんは、いきなりおれにこう呼びかけた。


「――ああそうだ。キミ、そこの薬品棚にある救急箱を取ってくれ」

「お、おう」


指示の意味がわからなかったが、特に断る理由もないので言う通りにしておこう。

改めて旧保健室を見渡すと、いまさらながらここが廃棄された旧校舎なのだと気付かされる。

時代に置いていかれたかのように、当時の器具や内装が手つかずのまま取り残されていた。

夜子さんの言う薬品棚も、ことごとく埃が積もっているような有りさまだ。


「……どう見ても年単位で使われてないんだが?」

「つべこべ言わずに救急箱を持ってくるんだ!」


これ以上夜子さんの機嫌を損ねるわけにはいかないので、大人しく従うほかない。

でもこのまま渡すのはさすがにどうかと思ったので、ポケットからハンカチを取り出す。


「何をわざわざ……キミは見た目に反して存外みみっちいようだな」

「拭いておかないとベッドが汚れるよ」

「……チッ」


いま、舌打ちされたのか?


「まあいい。ついでだ、そこの回転椅子も一緒に持ってきたまえ。クッションが破けているが、気になるなら新聞紙でも敷くといい」


どうやら立ちっぱなしのおれを気遣ってくれたらしい。

礼を言うと、なぜかグッと睨まれたが。

……わからない……さっきからなにが気に障ってるんだ……?


「とりあえず置いとくからね」


夜子さんの後ろ――ベッドの柵と密接しているちょうど良い高さの棚に、救急箱を乗せた。


手の届く範囲に私物をまとめているのか、棚の上だけがやけにごちゃごちゃしている。

型落ちのCDコンポや、黒ずんだぬいぐるみ、経済新聞や難しそうなハードカバー等々。


どれもこれも、年頃の女の子が揃えるラインナップとは思えなかった。

それに……よほど布団から出たくないのだろうか?

当の夜子さんはその場から動こうとせず、上半身だけを後ろに捻って救急箱を漁っている。


「――よし、見つけたぞ!使用期限もバッチリだ」

「……えっと、湿布?」


色褪せたジップロックを取り出して、もぞもぞとおれの方へと向き直る。

おれが椅子に座ったからか、ベッドの上の夜子さんと目線の高さが同じになった。


「未開封であれば六年は持つ代物だよ。皆空高校の新校舎造立が四年前……運が良ければ使用可能な湿布が見つかると踏んだ訳さ。まあ、多少期限が切れていても無いよりはマシだろうね」

「ってことは……いますぐ湿布が必要だから、一か八かで救急箱のなかを探ったってこと?」

「その通りだよ。ついさっき捻挫したばかりなのだから、処置は早めにしておこうと思ってね」


……思い当たることがあるとすれば、夜子さんがスマホを弾き飛ばしたときだろうか。


「もしかして、突き指しちゃったの?だったら一人で貼るのは難しいだろうし、おれが――」


この短時間で理解できたことだが、夜子さんの言動は突飛で、唐突で、取り留めがない。

しかしどこか愛嬌があって、不思議と憎めなくて、放っておけないような、そんな女の子だった。



――この瞬間までは、そうだった。

おれにはそれが、まるで人が変わったように見えたんだ。



?……何を言っているのかね、?」


――全身の皮膚が泡立つような感覚だった。

表情が引きつったまま動かない。


「…………」


夜子さんは固まったおれを鼻で笑う。


「簡単なロジックだよ。キミはスマホをキャッチした際、床の埃に足を取られた。前に向かって勢いよく走って来たのだから、運動量に従って前のめりに倒れるのが自然だろう

しかしキミは、摂理に反して尻もちを着いた。


退屈そうに言うが、言葉の鋭さが松江先生の比ではない。

記憶の奥深くに刻まれた、心の内側が見透かされるあの感覚を思い出す。


「そんなくだらない嘘が、このボクに通用すると思うなよ?」


おれを見据える真っ直ぐな視線が、雄弁に告げている。

なにもかもお見通しだぞ、と。


……そうだ。

そもそも夜子さんはそういう人だった。

ついさっきまで笑っていたのも、いまこうして怒っているのも同じ夜子さんだ。

夜子さんはなにも変わっていない。

――最初からわかっていたのに、見て見ぬフリをしていただけだった。


「……ごめん。変に気を使わせてしまうと思って黙ってたんだ」

「御託はいいから早く素足になって右足を置きたまえ」


そう言ってベッドの上をトントンと叩く夜子さん。

思っていたよりそっけない反応だった。


椅子に座ったまま、足を女の子に突き出すというのは気後れするが……。

ジト目で湿布をスタンバイしている様子を見ると、その好意を無碍にするわけにはいかなかった。

言われた通りベッドに沈みこませた右足首は……紫色に腫れている。

夜子さんはそれをマジマジと覗きこむや否や――うっ血した箇所をピンポイントで小突いた。


「――ていっ」

「イててててッ!?」


堪えていた分の反動か、叩かれた衝撃に思わず身悶える。


「ふむ。内出血しているが、皮膚の隆起は少ない。見たところ靭帯に損傷は無さそうだね」

「見てわかるならなんで叩かれたんだ……?」

「罰を与えたのだよ……しかしこれだけの痛みを隠していたなんて、キミはとんだピエロだな」


そう言われるとおれはまったく反論できなかった。

夜子さんは俯きながら黙々と作業する。

おっかなびっくりフィルムを剥がして、おそるおそる湿布を患部にあてがう。

納得がいかないように、何回も貼っては剥がすを繰り返している。

おれの肌に触れるか細い指先が、時折そよぐ小さな吐息が、くすぐったくて、暖かかった。


「これで良し、と。初めてにしては上出来だろうね」

「……ありがとう。ひんやりしてて、痛みが引いてく気がするよ」


顔をあげた夜子さんは、どこか満足気に微笑んでいる。

釣られておれの頬も緩む。


「さて――やる事は終わったのだからとっとと足をどけたまえ!しっしっ!」

「え、ええ……」


緩んだ頬がそのまま引きつった。

相変わらずテンションの振れ幅が激しすぎる……。


「このベッドはボクだけに許された聖域だぞ。いつまで土足で居座るつもりだね!」


猫パンチで脛を何度も小突いてくるので、おれはそそくさと右足を引っこめた。


「勘違いするなよ?キミに処置を施したのは借りを返すためだ。通常ならキミはあのままボクにぶつかっていた所を、足首を無理やり捻る事で回避したのだからね。

ちなみにキミがスマホを落とさなかった件は、入室時にボクを驚かせた罪で相殺!

汚れた救急箱を拭いて渡すという露骨なすり寄りは、椅子を差し出すという気遣いで相殺!

これで貸し借り無しだ!」

「まったくそんなつもりはなかったんだけど……」

「白々しいポイント稼ぎはやめたまえ。キミはそうやって人生を有利に立ち回ってきたのだろうがね、ボクの旧保健室シマではノーカンなんだよ!

――!?」


そこまで言い切って、ゼイゼイと肩で息をする夜子さん。

よほど譲れないものだったらしい。


「……わ、わかった」


めちゃくちゃ生きにくそうな性格だなと、素朴に思ってしまった。

松江先生がなぜ夜子さんをほかの生徒に秘密にしているのか、なんとなく察してしまう。


夜子さんが呼吸を整えている間、おれは身の振り方を考える。

初対面の人とコミュニケーションを図る際、自分を抑えて相手に合わせるのが普通なのだが、こと夜子さんは普通じゃない。

本音を秘めたまま言葉を交わしても……この右足首のようにあっさりと見抜かれて、また怒らせてしまいかねない。

だからと言って、このまま黙り放しでいるのも良くないだろう。

会話を続けないと――


「――このジャージは借り物だよ。保険体育なんて、ボクには無縁のカリキュラムだからね」


おれが口を開く前に、言葉を発する前に、夜子さんはおれの思考を先回りした。


「一応これは〈ナグルミ〉と読むのだが、借り物だから当然ボクの名前ではないという訳さ」


そう言いながら自分の胸元に――〈名胡桃〉と刺繍された箇所に深く指を沈ませる。

むにっ……という効果音が聞こえてきそうな沈みっぷりだった。


「……?何故顔を背けているのかね。先ほどからキミは、この刺繍の漢字をちらちらと見ていたではないか――つまり、ボクの名前の読み方が気になっていたのだろう?」

「ソ、ソウデスネ」

「ふむ……どうやらキミは何かを誤魔化そうとする際、片言で喋る傾向があるね。誤魔化すというのはすなわ即ち知られたくない事で、この場合ボクの体格に不釣り合いな胸に劣情を催したのが真意かね」


そうやって淡々と分析していく夜子さん。

終わった、と思った。


「……不快にさせて悪かった。苗字を知りたかったんだけど、どうしても目に入ってしまって」

「何だいキミ、そんな事にも一々謝るのかね。本当にみみっちい人間だな」


頭を深く下げて謝ったが、キョトンとした表情を見るに、本当になんとも思っていないらしい。


「話を戻すけど、どう呼んだらいい?」

「可笑しな事を聞くね。わざわざ『苗字を知りたい』なんて言い方をするからには、下の名は知っているという推測が立つ。

両方とも知らないのであれば、普通『名前を知りたい』と言う筈だよ。大方莉霞先生から聞いているのだろう?……全く、余計な事を……」


下の名で呼ぶのは馴れ馴れしいと思ったが、当の本人は特に気にしてないらしい。

なお言葉遣い一つで核心を突いてきたことについては、もはやおれの方も驚かなくなっていた。


「じゃあ、これからは夜子さんって呼ぶね。遅くなったけど、おれの名前は――」


言葉は、続かなかった。

おれの唇に、か細い指が蓋をした。


同じ目線の、手の届く距離にいる夜子さんが、おれの目を見て首を横に振った。

これまでに見せた喜怒哀楽のどれでもない――恐ろしく透明で澄んだ表情。


光のない瞳がおれを貫く。

小さな唇が、リップノイズ交じりの音色を紡ぐ。


なんて無い。だからキミの名前も要らない。ボクにとっての。それで十分事足りるのだよ。


――何せ、

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